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ショートショートの小宇宙

安楽死

作者: 駿平堂

 病室のベッドに横たわっているエヌ氏は、白衣を着た男の説明に耳を傾けていた。


「このように、当社にお任せいただけたら、人生を最後の瞬間までお楽しみいただけます」 


 白衣の男が説明を終えると、しばらく沈黙した後にエヌ氏はゆっくりとうなずいてこう答えた。


「わかりました。ぜひ、よろしくお願いします」


 エヌ氏の返答を聞いた白衣の男は優しく微笑みこう問いかけた。


「ありがとうございます。出発のお日にちはいつ頃がよろしいですか?」


「そうですね、できるだけ早い方がいいですね。どうせもう寝ていることしかできない身体ですから」


 エヌ氏は病気によって感覚が失われた自分の下半身を見つめながらそう答えた。


「かしこまりました。そう致しますと、一週間後のご案内でいかがですか?」


 エヌ氏は少し考えてそれに同意した。


「わかりました。それで構いません」


「ありがとうございます。ではこちらの契約書の内容をご確認の上、ご署名をお願いいたします」


 白衣の男は持っていたカバンの中から一綴りになった数枚の書類を取り出してそう言った。エヌ氏は書類の内容にさっと目を通して、迷うことなくサインした。もうしぼんでいくしかないと思っていた自分の人生の最後に、少しだけ楽しみなことができただけで満足だった。


「ありがとうございます。一週間後にご出発ということで承りました。それでは失礼いたします」


 白衣の男はそう言うと深々とお辞儀し、病室を後にした。エヌ氏はベッドの上で寝たまま白衣の男を見送った。

 

 白衣の男が去ってから、エヌ氏は渡された資料をもう一度見返してみた。その表紙の一番目立つところには「安楽死」という文字が書かれていた。しかし、いくら不治の病に侵されていたとしても、これがただの安楽死のサービスだったらエヌ氏はそれほど興味を持たなかっただろう。エヌ氏が何より惹かれたのは、このサービスを使えば人生の最期を宇宙で迎えられるという点だった。


 一人乗りの宇宙船に乗り、地球から飛び立つ。完全に宇宙空間に到達すると美しい地球と星々の光景を目にすることができる。その後も航行は続き、地球から一定の距離遠ざかると機内に睡眠薬が噴出され、それと共に酸素濃度が減少していく。そして宇宙のどこかでやがて眠るように死に至る。地球に戻ることはなく、死後も宇宙のかなたまで漂い続ける。自身の回復を願ってくれる家族などはおらず、その代わりに使い道の無い金が口座に長い間眠っているエヌ氏にはぴったりのサービスだった。


 エヌ氏がペラペラと資料をめくっていくと、そこには過去にこのサービスを利用したという老若男女の顔写真が合わせて十枚ほど載せられていた。どの人物もみなすがすがしい顔をしており、この世への未練など微塵も感じさせなかった。自分も写真を撮られて、ここに載せられるのだろうか。そんなことを考えながら、エヌ氏は資料を机に戻した。一週間後が待ち遠しく感じられた。待ち遠しく思える未来など、最後にいつあったかエヌ氏には思い出すことができなかった。



「ではこちらを向いていただいて、笑顔で、はい、チーズ」


 一週間後、案の定エヌ氏は宇宙船の中でカメラに向かっていた。


「素晴らしい写りですよ。ご確認ください」


 そう言って見せられたカメラをエヌ氏がのぞくと、そこにはあの顔写真の人たちと同じような表情をした自分の姿が収められていた。


「こちらのお写真、弊社の広告資料に使わせていただいてもよろしいですか?」


「ええ、構いません」


 なんとなく、そうしてもらった方がいい気持ちで最期を迎えられる気がして、エヌ氏はその申し出を受け入れた。


「ありがとうございます。それでは、我々はここで失礼いたします。よい旅を」


「はい。どうも、ありがとうございます」


 エヌ氏がそう言うと、外側から宇宙船のドアが閉められた。これが人と交わす最後の言葉かと思うと不思議な気持ちになった。


 しばらくすると自動的に電源が入り、電子的な音声で何やらよくわからない言葉が繰り返され始めた。宇宙船の中でもベッドの上から動くことのできない男にとってはとても退屈な時間であったが、それもすぐ終わった。どうやら無事に出発できたようだった。ベッドから見える位置に設置された窓を見ると、宇宙船がどんどんと地面から離れていることがわかった。


 エヌ氏はしばらくの間、ただぼんやりと宇宙船の天井を眺めていた。その心の中に後悔はなかった。むしろ、人生の最期にこんな経験ができるということへの感謝と喜び、そして興奮がエヌ氏の心を支配していた。


「宇宙空間に到達しました。窓の外をご覧ください」


 突然流れた単調なアナウンスがエヌ氏の意識を現実に引き戻した。それに従って窓の方を見ると、そこにはエヌ氏がこれまで生きてきた星の姿が見えた。窓から見える地球はエヌ氏の想像よりもはるかに美しかった。今まで何度も写真で見たことのある光景だったが、直接見るとこうも美しいのかと感動した。もしかしたら、もうすぐ人生の最期を迎えるというある種の興奮が、その気持ちをより強くしているのかもしれなかった。


 この景色をずっと眺めていたかったが、もちろんそういうわけにもいかない。美しい地球はだんだんとその姿を小さくさせていった。


「これより機内に睡眠薬を噴出します」


 また同じ調子のアナウンスが聞こえた。それに伴い、エヌ氏の意識もだんだんぼんやりとしていった。あのまま病室で寝てただ死を待つだけの道を選んでいたら、こんな感動は味わえなかっただろう。やはりこのサービスを選んで良かった。エヌ氏の意識はそこで途切れた。



 しばらくしてエヌ氏は誰かに揺り動かされて目が覚めた。エヌ氏の目に写ったのは、見慣れない無機質な白い天井だった。温かみを感じさせないその雰囲気は、病室のそれに近かった。まさか誰かから起こされるとは思ってもいなかったエヌ氏は、慌てて体を起こし、そして気が付いた。下半身の感覚がある。

驚きを隠せないまま辺りを見回すと、そこには男と同じくらいであろう年齢の女性が立っていた。よく見るとその女性は、あの資料の顔写真に載っていた人物のようであった。


 一体どうなっているのだ、まさかここはあの世だとでもいうのだろうか。エヌ氏がそのような疑問に自答する前に、女性がエヌ氏に話しかけてきた。女性の声は天井と同じく無機質で、感情が枯れてしまっているかのようだった。


「ご気分はいかがですか?」


「ええ、気分は悪くはないのですが、いったい何が何やら」


 エヌ氏はやや警戒しながら答えた。この見慣れない無機質な空間も、身体の調子が良くなっていることも、あの資料に載っていたらしき人が目の前にいることも、全てがエヌ氏の理解を超えていた。


「あなたは安楽死を望んで、一人で宇宙空間に旅立った。そうですね」


 女性のこの発言から、自分の目の前にいる人物はやはりあの資料に載っていた人物であるとエヌ氏は確信した。しかしその事実がエヌ氏の混乱を解く助けになるわけでもなかった。


「はい、その通りです。ですが、どういうわけか、身体の調子は戻っていて」


「ええ、あなたの身体は良くなっています」


「本当ですか? 医師からは不治の病と言われて、だからこそ安楽死を選んだのに」


「ええ、おそらく不治の病だったのでしょう。地球の技術では」


 エヌ氏の動揺をよそに、女性の返答は相変わらず淡々としていた。


「まさか、宇宙人が治療でもしてくれたんですか?」


「察しがよろしくて助かります」


 思わずエヌ氏は息を飲んだ。にわかには信じられなかった。


「私は地球よりも優れた文明を持つ生命体に保護されて、彼らは文化交流か何かのためにこうして治療までしてくれた。そういうことですか?」


 そうエヌ氏が言うと、女性は目を伏せながら、おもむろにエヌ氏の正面の壁の一カ所を押した。するとそこがスイッチになっていたようで、その壁一面が一気にガラス張りになった。

 

 そこで見た光景で、エヌ氏は先ほどの自分の発言が間違っていたことを悟った。窓の外では多数の老若男女が、異形の生物に虐げられながら労働していたのである。その顔ぶれは、あの資料に載っていた人たちばかりだった。



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