北の塔へ続く道
こんなにも自分は貧弱だったかなと望実は唸る。コルセットを外し寝巻きになってもまだあちらこちら締め付けられている気がして息が苦しい。何もかも上手く出来ていない自分にがっかりしてしまい思わずベッドを叩く。今回は細身な主人にはしゃいだ侍女がコルセットを絞めすぎたからという理由があるからまだいい。学校へかなりの距離を歩いて通っていた身としては情けなさでいっぱいだ。アパートから駅までの距離はかなりあったのに。
昨日よりも身体がだるい。身体の不調というより吸っている空気が重く感じて酸素が足りない感じだ。異世界にいるせいなのだろうかと望実は胸を軽く叩いて起き上がる。
窓を開けたいが釘を打たれているのでそうもいかない。交渉できるならする。できなくても理由をちゃんと知りたいと思って望実は扉に向かって歩きだす。自分の着ているものが気になったがもう寝巻きでもいいと泣かばやけになりながらドアを叩く。
次の瞬間冷え冷えとした声が「失礼致します」とドアの向こうから聞こえてきた。
「どうもご迷惑かけてすいませんでした」
細い眉がぴくりと上がるのを見て、思わず美形って眉の形まで自然に整うのだろうかと望実は思ってしまう。彫刻のような動かない表情なのに、冷たい視線の温度だけが下がった気がして目をそらす。とたんにわざとらしい大きなため息が聞こえてきた。
「貴女は騒動を起こさずにはいられないようですね」
「騒動から遠ざけようとすると向こうからくるみたいなのでそういう星に生まれたのかも」
「全く……貴女はいったいどこまで知っているのか」
「なにも知らないですから」
探るように見てくるグルナードの瞳に望実は落ち着かない。色々聞き出してからうまく疑問をぶつけようと思っていたのに、唐突に窓を指差して尋ねていた。
「あの窓を打ち付けたのは誰なの?」
「私が命じました。もうあの部屋にいくのもやめていただきます。そろそろ潮時だとウェルテクスも私も感じておりましたので」
亡くなった王の寝室に夜な夜な忍び込む王妃、たしかに怪しい。創作が上手い人が新聞にでもしてくれたら、悲劇の若い王妃って良い宣伝になりそうだけれど。いっそう王の隠した遺言書とか遺産とかを探すアドベンチャー的な……とまた妄想が広がって余計なところまで翼を広げてしまった。
いけないいけないと思いながら望実は「城の中を少しでいいので動く許可をください」とティエラに頼む。このまま寝続けているとどんどん体調が悪くなっていきそうだ。
「本を読みたいんです……出来れば図書室に行きたい」
本を読むのは小さい頃から好きなので苦にならない。この国のことももっと知っておきたいし、王族についても知りたい。何よりも北の塔にいくために城の見取り図かなにかあれば見ておきたい。厳しい顔をしているグルナードになにか頼むのは勇気がいたが、どこまで要求が許されるのか早めに知っておいた方がいいと思ったのだ。
「わかりました」
無表情で頷くとグルナードは衣装部屋に入り巻きスカートとブラウスを持ってくる。慣れているので何度か手伝って貰ったことがあるのかもしれない。なにも言わずに服を受けとると丁寧に一礼される。
「着替え終わりましたらこちらにお声がけください」
コルセットがなくても着れる服もちゃんとあるんじゃない。息苦しくなりながら本を読まなくてもいいことにほっとしながら望実は手早く着替える。
「え、と…ティエラ……様、が一緒に?」
扉を出てすぐに待機していたグルナードを見上げて尋ねると「嫌みですか?」と口元が僅かに上げて睨まれる。怒らせるような事をした覚えがないので、自分はこの人の地雷を踏みやすいのかもしれないと自然に望実の眉間に皺が寄る。
「いやみ?」
「貴女が私に敬語を使う時は腹をたてている時か癇癪を起こす寸前ですので」
「えー、はい」
気のない望実の返事にグルナードの額に怒りマークが浮かんだ気がしたが、ポメロと彼の関係など知らないのだから仕方ない。幼い頃からずっと彼はポメロの補佐的な立場だったのかもしれないが、今の望実は執務を行っていないのでそういった話もなかった。
おそらく今は彼が全てこなしてくれているのだろう。だとすれば嫌みも殺気にもにた冷気もどうぞお好きにと考えてしまうのも仕方ないと思う。国政については素人も素人。外交をしろと言われてもまず誰と何を話せばどいいかもわからない。税金や国内の情勢、派閥、なにも知らない。誰と交流があるのかも知らないのだから。
疑問は次々と浮かぶが、氷のような青年に聞くことができるわけもなく、望実は静かにグルナードの後をついて歩き続けた。
「どうぞ」
扉をグルナードが開けてくれる。こういうところは紳士なんだなと思いながら部屋に入ると壁一杯の本が目に飛び込んできた。圧倒的な本の洪水に嬉しいのだが、困り果ててしまう。どこから何を探せばいいのかこの数では見当もつかない。
「城についての本はどこですか?」
「……妃殿下」
「はい。この城について知りたいんです。いけませんか?」
「いけないとはいってません。敬語をお止めください。落ち着きません。もっとも嫌がらせとしては効果を存分に発揮しておりますのでそれだけはお伝えしたいと思いまして」
いやみなのはどっちだと綺麗な頬を引っ張ってやりたくなったが望実はぐっと堪える。
「ティエラ様、どの本棚を探せばいいのでしょうか?貴方の頭脳をもってしてもおわかりにならないのなら私など一生かかっても探せないでしょうね」
時々一緒に図書館にいく仲だった敬語キャラの友人の真似をしてみる。ついでにしおらしいポーズを決めて困ったと頬に手をあて、わざとらしいため息をつくとグルナードは固まった。
「貴女という方は」
返事は望実より大きなため息で返された。足早に本棚に向かい一冊の本を手に取る。
「どうぞ」
望実の手に分厚い一冊の本が置かれる。そのあまりの重さに望実は身体がよろけた。
「限られた者しか読むことのできない貴重な本ですので丁寧に扱ってください」
仕返しなんて大人げない。そう叫んで追いかけてあのすかした背中を本で叩きつけてやりたくなるが貴重な本だといっていたし、美形の顔をボコボコにする趣味はない。
望実は本を抱えて机に置くと、表紙を開いた。
「はあ?えっと」
言葉と同じように何らかの力が働いて本も読めるのだろうと思っていた。しかしさっぱり文字は読めない。ミミズがうねうね動いている図にしか見えないページに思わず望実は本に突っ伏してしまう。
「なに、これ……想定外」
目を擦って何回か見直しても、ミミズの体操にしか見えない。文字は一から覚えないと駄目なのかと望実がため息をつくと後ろでふふっと笑う声がした。
王妃としての教育を受けている人物が全く本が読めないと正直に告げるのは果たして大丈夫なのか。
別人だとわかったあげくぽんと放り出されても困る。読めない、書けない、自分の住んでいる場所の事すら何も知らない、の何重苦で生きていけばいいのだろう。
いやその前に異世界転移ってこんな感じだった?
だいたい円陣が浮かんで祭司とか教皇とかに召喚されて、王様や王子様が聖女様だと喜んで、この世界を救ってください勇者様とか言うのが異世界転移じゃないの?
それはそれでその後が面倒だ。そんなことより異世界といえばチート能力。もちろん話ができているのがその特典なら非常にありがたいが、それならそれで読み書きぐらいできてもいいではないか。うーっと望実が唸っていると「読めるのですか?」とわざとらしくグルナードに尋ねられた。
「がんばれば、なんとか……」
いや頑張っても辞書もないし、あっても英和辞典みたいに日本語版がないと無理じゃないのかな。詰んでる。そう自分に突っ込んで「すいません。教えてください」と望実は素直に頭を下げた。
「妃殿下は古典は無駄だといっていつもさぼっておられましたから。どんな知識もつけておいて損はないのです。身をいれて学んでくださいと私がいったのを覚えていらっしゃいますか?」
「あ、いいそう」
「なにか?」
この人もそのいやみを言うためだけにこのでかい本を持ってきたなんて暇人だなと呆れたように望実は頭一つ分背の高い青年を見上げる。中学の古典の授業は自分も苦手だった。ポメロと共通点がみつかったのはちょっと嬉しいかもしれない。
「ティエラ様、読んでもらえますか?」
「グルナードでいいです。もうお止めください。落ち着きません」
「ではグルナードここからお願いします」
素直に引いた椅子に座るとグルナードは端から固い文章をすらすらと読んでくれた。
ケリア歴18年、城内の渡り廊下を建築士であるクラインがデザインし王は大変満足され彼に離れとして北の塔を与える。箇条書きで書かれた城の歴史書だ。グルナードの口調からいってもっと重々しい文章なのだろうけれど、顔をしかめながら聞いていると分かりやすく噛み砕いて読んでくれる。
北の塔はそのクライン氏が建築し、王が狙われた時に后や子供達が逃げ込めるように建てられた。橋を落とし敵に渡さないように。橋の反対側は山々が連なる険しい道、よほどの手練れでないと来ることはできない上に城を囲むのには相応の人数がいる。
王は塔の建築を喜びクラインが亡くなるまで客人として滞在することを許した。それからこの国は一度も戦になったことがない。つまり塔は本当の目的で使われた事がない。平和の象徴していつまでも語り継がれるだろう。国葬でそう語られるほど固い友情が二人の間にはあったそうだ。
塔の上から手を振る建築士と王の絵にいや、なんでこの絵を残そうと昔のこの国の人は思ったんだろうと首をかしげる。
「クライン氏以降、代々王の側妃や愛人に与えられているのでそういう噂はありますが、元々クライン氏はこの国ではなく三の国の貴族、居場所がない彼を王が大事にしていただけかと思われます」
「なんで突っ込もうとしてたのわかったの?」
ふっと笑うグルナードに馬鹿にされた気分になってページをめくる。塔の螺旋階段と五つの部屋の間取りが細かい絵で描かれている。
「橋を壊して引きこもるのはいいとして、この塔はどうやって出るのかしら?」
「出口はありません。そのための塔ですから」
「えーっ! あ、ごめんなさい。ロープで窓から降りる以外にないってこと?」
「そうです。そもそもなぜ塔なのか?それは一番大切なものをなんとしても敵にだけは渡さぬための最後の手段だからです」
パタンと音を立てて本が閉じる。背中がぞくっとして自分の身体を抱き締める。つまり塔とは救いの砦ではなく閉じ込め失わぬよう手放すために作られたのだ。王とクラインはそういう点でわかり合えていたのだとしたら望実の価値観とは違いすぎる。
望実は自分が生きていた世界が急激に遠くなってしまった気がして首を振る。あまりにも染まりすぎると帰った時、馴染めなくなりそうだ。アパートの住人はともかく学校では浮きぎみだと望実も分かっている。なんだかため息をつきたくなった。
「私も」
「妃殿下?」
「本当は塔には私が入るはずだったのでは?」
大きな音が図書室に響く。グルナードが机を手のひらで叩きつけた音だと気づいて望実は固まる。
「なにか……言われましたか?」
ゆっくりと物々しい声で尋ねられ望実は大袈裟なぐらいに首を横に振った。本当になにも知らない。
だからこそさっきの言葉が核心に触れている気もした。自分ではない誰かがそこに、塔の中にいるのだ。もしかしたらポメロの代わりに。
「ずっと考えていただけよ。オランジュは塔にいるのね。母君と一緒に」
望実に聞こえるぐらい大きな音で舌打ちし、顔を歪めるとグルナードは色が変わるぐらいに強く拳を握り「それを……お確かめになるために私とここにいらしたのですか?」と氷のように冷たい声で尋ねた。
「いいえ、ただ本が読みたかったの。貴方が信じてくれるかは分からないけれど。ただオランジュは次代の王、いつまでも閉じ込めておけないんじゃないかしら?」
努めて落ち着いた声を出せるように、望実は両手を握りしめグルナードに尋ねる。怯えていたらつけこまれる。どんなお客にも自分の言うと決めたことはきっぱり言わないとね。が、下のおばちゃんの口癖だった。
「やはり前王派の派閥になにか言われましたのですね。妃殿下は前王や王子より尊い方です。貴女はこの国へ贈られた特別な贈り物なのですから。何を連中がいってもお気になさらぬよう」
懇願というより命令に近い声音だった。その声を聞いて望実は「噂を耳にいれたくないのならそれこそ監禁して誰とも話せないようにしなければ無理よ。人の口は塞げないのだから」と静かに告げる。
不思議な感覚だった。まるで自分が自分でないかのような、どう言うことか考える間もなく自分の内から声が出てくる。
「私はただの小娘にすぎないし、尊いわけがないでしょう?」
だって私は異世界から来ただけの異物で、この世界とは本来関わりのない存在だ。だからそんな風に傷ついた顔をしないでほしい。
「なにか能力がある人ならそれこそギフトだったかもしれないけどね。残念だったわね」
ふんと鼻で笑って、嫌な奴を演技する。こんなすがるように何か求めているものを探すように見つめてくる男性にどう対応したらいいかなど知らないし、習ってもいない。ただ彼が望むものは目の前にはない。その事だけは望実も分かった。
「貴女こそがギフトですよ」
皮肉っぽく笑むグルナードは少し落ち着いたのだろう。そっと本を仕舞うと「時間です」と低い声で告げた。
「一冊だけ本を借りていってもいい?」
「ええ何冊でもどうぞ、貴女のための場所ですから」
子供向けの本なんて借りたら恥ずかしいかなと思いながらなるべく絵が多めの本をいくつかとる。辞書みたいのがあればなと端にある大きな本をとってみる。ペラペラとめくるが字だけで読めそうにない。
「ルードの騎士物語ですね。悲恋がお好きですか?」
「いいえ、私はできたらハッピーエンドがいいわ」
「でしたらこちらに」
ん? と望実はその騎士物語の奥に一冊のノートか何かが挟まっていたのを見つけた。その表紙は確かに見慣れた文字が書かれていて。咄嗟に騎士物語の下に滑り込ませて隠す。隠されていたのだから誰もが読んでいいものではないのだろう。
「これもやっぱり読んでみるから」
「…簡易版を読んで差し上げた際、幼い妃殿下は泣いて嫌だと私に言われた」
「そうね悲恋は今でも嫌いよ」
子供向けもあるのか。ロミオとジュリエットも幼児向けがあるし、こちらの世界もそうなのかもとグルナードが差し出す手をとらず本を抱いて歩きだす。
「でもいつまでも子供ではいられないでしょう?」
自分に言い聞かせるようだなと誰もいない図書室に響いた声を聞いて望実は思う。幼い少女を寝かせようと少年が懸命に絵本を読む姿を想像すると少し胸の奥が温かくなる。この人はポメロの味方で、ちょっと過保護気味。嫌みは多いが嘘はきっと言わない。分かったのはそれだけだけど信用していいと思えた。これから少しずつ信頼関係は築いていけばいい。
「やっぱりオランジュには会えない?」
「妃殿下のご命令でも無理です」
「そう……わかった」
ならどんなことをしても絶対に会いにいく。そうしないと物語は進まないし、自分の道も開けない。
どうすればいいかはわからないが、今は止まっているレッスンや社交が始まる前に、オランジュと会わなければ彼との絆は始まらない。打算だらけで申し訳ないけど彼が力を手にいれてからでは遅いのだ。自分の身は守らなければ。
塔は望実を見下ろすようにそびえ立っていた。