ブリジット&公爵夫妻1:逃亡
番外編です。
「……なぜこんなことに」
牢の中、ブリジット・タタラは僅かに差し込まれる光に手が届かぬことを嘆き、絶望していた。
「最後にダイアナ様……いえダイアナが死んですべてが終わるはずだったのに」
ダイアナが予定通り処刑されれば、自分は王太子の最愛の女性。つまりは次の国内最高権力者の妻の立場を得るはずだった。
ブリジットは騎士の家系であり、一応貴族の末端にいるものの貴族とは名ばかりの貧しい家で育った。在学中に良家の人間と縁を結べなければ田舎の平民よりはマシ程度の生活に甘んじなければならなくなる。
ブリジットはそんな生活に耐えられるはずがないと考え、一か八かの賭けに出た。
自分よりも遥かに上の身分の人間を誘惑しようと考えたのだ。
もちろん、高位の人間になればなるほどすでに婚約者がいることぐらい知っている。手を出せば相手だけでなく婚約者の家からも圧力をかけられるかもしれず、下手をしたら命を落としかねない。
ただ、選んだ相手が良すぎたあるいは相性が良すぎたのだが、ブリジットは次々と攻略に成功していく。ついにはこの国の頂点にいる男さえも落として見せた。
もちろん予想していた通り、婚約者のダイアナ・フォン・クインテット公爵令嬢から苛烈なまでの妨害に遭い、命を失いかけた時は本当に焦った。まさか公爵令嬢ともあろう人間がこうもあっさりと殺害を企て実行に移すとまでは考えが及ばなかったのだ。
これは元のダイアナが聞けばむしろ高位貴族ほどプライドが高く、楯突くものには容赦をしないものだとあっさり殺された元婚約者のことも含めて愚かだと笑い飛ばすだろう。
「まさかカールズが殺されて私がこんな場所に入れられるなんて」
運にも助けられてあとは邪魔者がいなくなればすべて丸く収まった場面で、逆にその邪魔者にすべてを奪われる羽目になるなんて。
唾を付けていた男は軒並み排除され、息子を奪われたことに逆上した親バカによって投獄されるという未来は予想できなかった。
息子が大事ならこんな悪い虫につかれる前になんとかしろよと……とは思わない。そもそも自分自身を悪い虫とは思っていない。ブリジットは考える運が悪かったのだと。
「謎なのがダイアナが城を出たってことよね。しかも贖罪の旅って」
見張りの兵士が言っているのを聞いた時はどういう冗談なのかと本気で疑った。
あれだけ堂々と権力で支配しようとしていた人間が反省するだろうか? しかも、加害者は悪くないのでできれば釈放してほしいとの言伝を残して? 自分の親はすべてを失って放置されているのに?
「考えても考えてもおかしいわ」
頭はよくないが、変なところで鋭いブリジットはもしかしたらと考える。
「——もしかしたら、あれはダイアナじゃなかった?」
核心を突いたかに見えたが、実際にはダイアナの偽物や影武者としか考えていない。まあ、死の直前に魂が別人と入れ替わったなどと考える方がおかしいので正常だろう。
「……やりかねないわ。私を殺すのだって刺客を差し向けるよりも自分でやりたかったっていうぐらいの女だもの。処刑される自分の身代わりぐらい用意するでしょう」
――だったら、こんなところにいてやる義理はない。
ブリジットは即座に行動を移した。
「——公爵様、クインテット公爵様!」
「……どうした?」
牢に囚われてからいろいろなことを考えた。貴族の中でも断トツの公爵として生を受け、家督争いに勝利して家を継ぎ、嫁の争奪戦にも勝利し娘も授かった。これまでの人生は勝者だったと断言できる。
それが娘の暴走の果てに身分を奪われ、さらには罪人として処刑されそうになるとは思わなかった。
いや、ここまではそれなりにあくどいこともしてきた自覚もあるので全く身に覚えがないとは言わないのだが……。
処刑される直前に無実が明らかにされるとは思わなかったし、無実が明らかにされたのに娘の進言で牢屋に入れられたままになるとは思わなかった。
娘は何を思って自分は罪人だと言い続けるのか、そして自分とは何か。
身分は戻っていないので本来は公爵どころか貴族でもないのだが、こうやって娘の信奉者からは公爵として扱われている。
今までの人生の中で最大の謎は娘が聖女と呼ばれるようになったことだ。これはクインテット公爵が生涯抱き続ける謎となった。
「——あの娘が動き始めました」
あの娘というのはダイアナが殺しそこなったブリジットだ。
現在、王国の兵士は大きく分かれて二つの派閥に分かれている。
それはダイアナが許しを与えたブリジットは巻き込まれた被害者であると主張する側。もう一つはブリジットはダイアナを嵌めた諸悪の根源であると主張する側である。
どちらの派閥もダイアナは聖女と信じて疑わないのは頭が痛いところだが、つまりはブリジットを擁護する派閥とブリジットの罪を追及する派閥になる。
「公爵様、あの娘は慈悲深きダイアナ様派によって城を抜け出すつもりです。動くなら今かと」
ネーミングセンスに疑問がないわけではないが、そこはどうでもいい。
「……なるほど、脱獄した娘を追いかけ私が捕まえることで正当性を主張するということだな?」
そのためには私も脱獄をする必要があるのだが、それは彼らが協力してくれるだろう。ちなみに追及派は『正義を貫くダイアナ派』らしい。本当に心底どうでもいい。
「そうです。ダイアナ様のご両親である公爵様と奥様をいつまでもこんなところに閉じ込めておくなど、陛下はどうかしているのです」
それ、人に聞かれたらダメな話だと思うのだが……。仮にも兵士がそれでいいのか。
さて、どうしたものか。
どちらの派閥もダイアナの信奉者であるのだから別に今無理に脱獄しなくてもそのうち出ていけるだろう。ただ、あの娘が脱獄したタイミングを逃すと僅かに残っている国王に忠実な兵士の守りが厳重になってしまうかもしれない。
「——時は来たか」
勿体ぶった言い回しで彼らの策に乗ってやることにする。
「妻も一緒に連れていく。残せば何をされるかわからんのでな」
「もちろんです。そう思ってすでに他の者が奥様を解放すべく動いております」
「うむ。では行こうか」
「あっ、旦那様! 遅かったじゃありませんか!」
兵士に案内されて行ってみればすでに準備万端な妻が。
「お、おぉ久しぶりに会ったが元気そうで何よりだ?」
「何を呑気な! こうしている間にもあの小娘が城を抜け出すのですよ!! 早く追いかけあの娘の悪事の証拠を掴んでやらねば! そのうえで極刑にしてやるのです!!」
こんなに苛烈な人間だっただろうか。
「ま、まあ落ち着け。ダイアナが何を考えあの娘を許そうとしたのかはわからんし、国王の思惑も気になる。ひとまずは様子を見るのだ」
「……はぁ、旦那様がそう仰るのなら聞きますが」
「それでは世話になった。君達の行動がきっとこの国をより良くするだろう」
「はっ、ご武運をお祈りしております!!」
兵士に敬礼で見送られる脱獄囚って。
「——旦那様、本当にあの娘を追うのですか?」
「ん? どういう意味だ?」
あれほど乗り気だった妻らしからぬ発言だな。
「いえね、兵士の手前ああは言いましたけど……あの娘を追ったところでどうにもならない気がするんですよ」
……意外と冷静ではないか。あのまま暴走するのかと焦ったぞ。
「その通りだ。だがな、あの娘を見失ってしまえばもしもの時に罪を擦り付ける相手がいなくなる。身柄を確保するかそうでなくても見失わないようにしなければならん。ということで当分の間、元の生活とはかけ離れた辛い生活になるが付いてきてくれるか?」
「もちろんですわ。旦那様の行くところについていくのが妻の役目」
「そう言ってくれると心強い」
「あっ、ついでにダイアナにも再教育をしましょう。獲物をしとめ損ねるなどクインテット公爵家の一員たる自覚が足りないのですわ」
「そ、そうだな……」
ダイアナの苛烈な部分は妻譲りだったのか。これからの生活は尻に敷かれそうだと平民生活以外での不安も抱きつつ、追走劇が始まったのだった。