第24話 再会、リーネ姫
「ザムザさん。わたしのこと、覚えていらっしゃいますか?」
「も、もちろん……ええ、もちろんですとも!」
オレは慌てふためいて、しかし満面の笑みを作りつつ、部屋の主であるカノアへと目を向けた。
彼女は、ベッドの上で普段着の赤ドレス姿だった。
相変わらず肉付きの良いふとももを組んだまま、にやにやしている。
「お前、今回の件ではずいぶん頑張ってくれたからね。そのご褒美よ」
「お姉さまが、あのレンジャーのザムザさんに会わせてあげると言ったときにはびっくりしました。わたし、ずっと気になっていたんですよ? あのときわたしの命を助けてくれたザムザさん、いまごろ、どこでどうしているんだろうって……。それがまさか、このお城の兵士になっているなんて。わたし、びっくりです!」
「あはは……そ、そうですか。びっくりしましたか!」
「はいっ。びっくりです!」
女神のように、爛漫に微笑むリーネ姫の姿を見ていると、心が弾み、かつ和む。
黄金色に輝くサラサラの前髪に、美しくもあどけない顔立ち、邪気を知らぬ可憐な瞳、そして童女が少しずつ女になっていく年頃特有の香り。夢でも見ているような心地の中、オレはリーネ姫のすべてをしっかりと眼に焼き付けていた。
「ものすごい目付き」
「え?」
「お前のことよ、ザムザ。獣みたいな目でリーネを見るのね。……まったく、こんな胸もまともに膨らんでいない子供のどこがいいんだか」
「カノア! ……姫ッ!」
リーネ姫の前なので、ギリギリ理性を総動員して相手を敬称付けで呼ぶ――
が、なんてことを言いやがる。よりにもよってリーネ姫の前で! この女ッ!
だがリーネ姫は、やはり幼いゆえか、コロコロと笑って、
「お姉さま。ザムザさんは獣じゃありません。立派な人間ですよ。わたしを助けてくれた方なのですから」
多少、とんちんかんなことを言った。
「ふうん、よかったじゃない、ザムザ。リーネに気に入られて。リーネもザムザと再会できて、よっぽど嬉しいようね?」
「はいっ、嬉しいです。えへへ。だっていまのわたしがあるのはザムザさんのおかげですから。ねっ、ザムザさん」
「はっ。……あ、ありがとうございます」
「あっ、そうだ。これ、あのときのお礼で持ってきたんですけど、召し上がってください」
そう言ってリーネ姫は、ベッド横のサイドテーブルの上に置いてあった小さな箱をオレに差し出す。
中を開けてみると、よく焼けたクッキーが詰まっていた。
「お菓子です。わたしが作ったんですよ」
「ひ、姫様が?」
「はいっ。ザムザさんと会えるって聞いて、慌てて作ったから、味は保証できませんけど。……えへへ、わたし、お菓子作りが好きなんです。父上からは、下女みたいだからやめろって叱られるんですけど」
「お菓子……リーネ姫の作ったお菓子ッ! おほッ! ああ、あはあ、これはなんと、まさに名誉な――た、食べてもいいのですか?」
「もちろん、どうぞ」
「いただきまぁすッ」
オレは、クッキーを両手いっぱいにつかむとむさぼり食った。ばりぼり食った。すさまじく食った。
口の中に広がる小麦と砂糖の香りと味わい。ああ、だけどそれ以上に、このクッキーは、このクッキーは、リーネ姫のあの白く小さく可愛いてのひらで作られたものだ! リーネ姫の指先の味がする!!
それを思うとオレは感泣せざるをえない。涙をにじませながら、うめえ、うめえ、ありがとうございます、と叫びながら食べまくった。リーネ姫は、くすくす笑って「そんなにお腹がすいていたんですか?」と言った。
「ちょっと……もう少し丁寧に食べなさい。クッキーのかけらで、じゅうたんが汚れてるじゃない」
「はふっ、す、すまん。いや、申し訳ありません、カノア姫。いや、しかしこれが美味くて、ごふ、ごふっ」
「ほら、のどに詰まった。慌てて食べるからよ。はい、水」
クッキーを詰まらせた、オレ。
リーネ姫の作ったクッキーで窒息死するなら、まるで彼女に首を絞められて殺されるようで、それも案外悪くないと喜悦さえ感じたが、そんなオレに、カノアが水の入ったコップを差し出した。
――やはりこんなことで死にたくはないな。
オレは内心苦笑しつつ、それを受け取りグイグイと飲み干す。
「よかった」
そんなオレを見て、リーネ姫は微笑を浮かべた。
「ザムザさんが兵士になったと聞いて、わたし、ちょっと心配していました。戦争が好きな、怖い人になっちゃったんじゃないかって」
「怖い人……?」
「だって、戦争は怖いですよ。……それに悲しいです」
リーネ姫は、本当に悲しそうに目を伏せた。
「前回の戦いで、アルムガント王国の民や兵は数多く亡くなりました。悲しいことです。だけどわたしは、敵の獣人たちが死ぬのも悲しいことだと思います。だって、敵の獣人たちにもきっと家族やお友達がいたはずですもの。それが死んでしまうのだから、やっぱり戦争で悲しくていけないことだと思います」
「……リーネ。お前は、敵の兵士の死にまで同情するの?」
「敵国の兵士であろうとも、死んでしまえば国も種族も関係ありません。みな、尊き命です。だからわたしは、前のいくさで亡くなったすべてのひとたちに祈りを捧げております。……わたしにできるのはそれくらいですから」
そんなリーネ姫のセリフを聞いて、カノアはなにか言おうとして、すぐに口を閉じた。
子供を相手に議論をしても仕方ないと思ったのか、それとも……。
「戦争は、まだ続くのでしょう? ……怖いし、悲しいですね」
リーネ姫は、心から辛そうに言った。
それを見たオレは、リーネ姫の優しい心に感動しつつも、告げる。
「姫のおっしゃることはまことにごもっともです。戦争は悲しい。しかしやらなければならないことでもあります。……戦わなければ、守れないものもあるのです。次の戦争でベールベール王国を倒すことが、カノア姫やリーネ姫を守ることにつながる。そう思って、オレは剣を振るうのです」
「……ザムザさん。……ありがとう。あなたはやはり、優しいお方ですね。うわさなんて、あてにならなりませんね」
「うわさ?」
「ええ」
リーネ姫は、目を細めた。
「――じつはここに来る直前、下女たちがヒソヒソとうわさをしあっているのを聞いちゃったんです。
『ザムザっていうひと、見た?』
『なんか気持ち悪いヤケドの痕ね』
『だいたい顔付きが怖いのよ、変にドスが効いてるし』
『カノア姫のお気に入りらしいけど、どこがいいんだか』
――なんて。
わたし、その場で下女たちを叱り飛ばそうと思いました。でも、できなかった。もしかして、いまのザムザさんが、昔のザムザさんと違って本当に怖いひとになっちゃったかもしれないって、そう思ったから。……でも、そうじゃありませんでした。ザムザさんは優しくて、強くて、それに――」
「……それに?」
「解毒薬だって作れちゃう、賢いお方ですっ!」
リーネ姫が、白い歯を見せて子供っぽく笑う。
その笑顔を見てオレは、ああ、馬鹿な下女どものうわさなんてどうでもいい、と思った。
この子さえ、リーネ姫さえオレの味方でいてくれるなら。
「だから何度も言ったでしょう。ザムザは大した男なんだって。それに気づかない城内の連中が馬鹿なのよ」
カノアがさらりと言った。
なぜか、あさっての方向に顔を向けているので表情は見えない。
「お姉さま。……お姉さまも、あまり馬鹿馬鹿ってひとのことを見下すのはよくないですよ? お姉さまだって優しくて可愛らしいところがあるのですから、城のみんなに誤解されたままなのは、わたしも悲しいです」
「優しくて、可愛らしい……。ふふん。私のどこが可愛いのよ。可愛げなんてカケラもないでしょ、私なんか――」
「だってお姉さまは、さっきザムザさんがクッキーを詰まらせたときも水を出してあげましたし、昔、わたしが熱を出したときだって徹夜で看病してくれたことがありましたっ」
「大した話じゃないでしょ、そんなの。誰でもできることよ」
「あっ、そうだ。それにそれに、お姉さま。お姉さまは――たった3年前まで、ぬいぐるみを抱きしめないと夜眠れない体質だったじゃないですかっ!」
「リーネっ!!」
カノアは、急にこちらに顔を向けた。……真っ赤になっている。
いつもの澄ました顔立ちもどこへやら、顔面をくしゃくしゃにして、
「お、お前、そんなこと、ザムザの前で言うことないでしょう!? それもそんな古い話を――」
「……ぬいぐるみ。手放せなかったのか? ……3年前まで? ……ええと、いま17歳だって言ってたから、3年前となると」
「計算やめなさい! 焼き殺すわよ!?」
「あははっ! お姉さま、やっぱり可愛いじゃないですか~! お姉さま、好きっ!」
コロコロと身体を弾ませるリーネ姫。
赤面しながら怒鳴りまわすカノア。
そんな姉妹ふたりの間に流れている空気は、オレにとってたまらなく心地よく――
と同時に、身悶えするほど嫉妬するものでもあった。
……オレに、10歳ごろのオレに、こんな空間と時間が与えられていたならば。
自分の一番の不幸は、貧しい生まれであることや、醜い顔立ちであること以上に、こういう心理を常に抱いてしまうことなんじゃないか。……と、ふとオレは思った。
他人の幸せを見るたびに、いや自分に幸福が降り注いでさえも(この幸せが、もっと小さいころに、もっと若いころに与えられていたならば)と不幸な仮定を考えてしまうのだ。過去に縛られてしまうのだ。現在を、楽しめないのだ。
この心の傷が癒えない限り、人生はきっと永遠に地獄だ。……癒やしたい。癒さねばならない。きっと癒やせる。リーネ姫と夫婦になれさえすれば。誰かと確かな愛情さえ交わせ合えば。
しかし、交わせるのだろうか。……オレは人に愛された記憶がない。親からの愛情さえ受けたことがない。父親の顔は知らないし、母親もいつもヒステリックで、見慣れぬ男にしなだれかかり、幼いオレがメシをねだればうるさいと叫んで殴打してくる、そんな女だった。
だからオレは、愛が分からない。
小説や芝居の中にある、つくりものの愛情しか知らないのだ。
そんなオレが、誰かと夫婦になったり家庭を築いたりできるのだろうか。
「ちょっとザムザ。ボーッとしてないで、リーネをなんとかしなさいよ!」
「ザムザさん、お姉さまの可愛い話は、まだあるんですよ。お姉さまも昔、一度、クッキーを焼こうとしたことがあったんです。だけど火にかけたクッキーがなかなか焼きあがらないのに怒って、火の魔法で一気に焼こうとしたんです。だけど当然、威力が強すぎてクッキーは消し炭に……。台所も火事になりかけたから、お父様からそりゃもう叱られたんですよ~」
「リーネっ。あなた、いい加減にしなさい!」
――泣けてくるほど温かな世界を目前に、オレは(できる)と自分を必死に説得していた。
……できる。きっとできる。根拠はないがそう信じる。
オレだって、誰かと愛し合えるはずだ。そう、リーネ姫とオレは、きっと……。
リーネ姫との未来のために生きるのだ。他人をどれほど追いつめて、不幸のどん底に追いやろうとも。オレだけは必ず勝ってやる。このオレだけは。このオレだけは。
そうでなければ、せめて恋した女性からの愛を得られなければ、
――オレの人生は、なんのために……。
リーネ姫は、やがて去った。
あまり長く行方不明になっていると、侍女や近衛兵が騒ぎ出すということで、カノアが部屋まで送り届けたのだ。
「私と違って、あの子はみんなに愛されているからね」
とは、カノアの弁だが――確かに、久方ぶりに目の当たりにしたリーネ姫は、この上なく愛くるしかった。
さて、リーネ姫が帰ったあと、カノアは改めて「今日開かれた軍議のことを教えるわ」と言って、今日の出来事を語り始めた。