91話 短き運命
煮え滾る明らかな怒りと、足元が揺らぐそこはかとない不安。
ずっと、ずっとこの足元は揺れていた。
大波を越え、ようやく固まるかと思っていたが、現実はまだ自分に「耐えろ」と言ってくる。
十九で、天才だった兄から地盤を引き継いで、今日まで。
思えばもう十年が過ぎようとしている。
それなのに自分は、父にも、兄にも、曹操や劉備の大きさにも、まだ手が届かない。
「張昭! 何故、交州はまだ手に入らん! 戦が終わり次第、呂岱と歩隲は降格させるぞ!」
「お待ちくだされ。あの二将の力量や才覚が秀でていることは明確です。彼ら無くして、江東は反乱を抑えきれません」
「ならば、どうして落ちん。お前は二日で落ちるといった。しかしもう、八日が過ぎたぞ」
「それは……申しわけありません。何分、予想外の事が立て続けに起こっておりまして」
綿密に、この張昭と二人で謀略と計画を練り、実施した作戦だ。
交州の地盤は豊かで、あまりに魅力的。
士燮の暗殺。これを機に、一気に奪い取る算段だった。
完璧だったはずだ。しかし、何かがおかしい。
交州は孫家の兵を前に自壊する、というのが見立てであったのだが、予想に反して対抗してきた。
どうして内側から崩れない。その為の、士キンと、その庶子という人質。
間者や説客も多く潜ませているはずなのに、交州は依然として揺るがない。
「交趾郡ではあの士徽が、民の一人一人と直接語り合い、寝食を共にし、寝る暇もなく士祇政権の正当性を説いています。説客は全て言い負かされ、かえって民心は一つに固まりつつあると」
「……兵の方は」
「南海郡、交趾郡は歩隲将軍が牽制し、兵を封じております。合浦郡では、山越族が一万の規模で反乱、呂岱将軍と交戦中。更に、南蛮より二千騎の援軍まで向かっていると聞いております」
「山越族に、我らに融和的な南蛮まで動かしたのか。どういう手を使ったのだろうか、あの小僧は」
二人の将軍は、よくやっていた。
そもそも敵に一万の増援が来るなんて聞いても無い話なのだ。
それに対応し、戦自体は相当優位に進めれている。
不手際があるのは、謀略などを仕掛けるこちらの方だ。
当初の目論見も、敵兵力の概算も、ことごとくが外れてしまっている。
「……師父殿。私も、父や兄と、同じ道を辿るのだろうか」
「何をおっしゃられます」
「父も、兄も、私以上に優れた君主だった。集団を率い、従わせるだけの力があった。だが、私にはない。そんな私が、長くこの座に座っていられるとは思わんのだ」
孫家の男は皆、早世だ。
これは兄が死んだ際に、母が漏らした言葉だった。
別に証拠のない迷信だが、歳を重ねるごとに重く自分の身に圧し掛かる。
事実として、父も、兄も、天の悪戯としか思えない不遇の死を遂げていたからだ。
この戦に敗れれば、自分の支持基盤は揺らぎ、豪族らからも不満が出るだろう。
それを抑える為の出兵だったが、これもまた、裏目に出てしまった。
そんな足元の揺らぎがいつしか、自分の身を滅ぼしてしまうやもしれない。
「我が君、よくお聞きくだされ。交州は正直な話、落とそうと思えば落とせます。もう一万、援軍を出せばすぐに落ちましょう」
「それでは労力に見合わん。交州を得たとて、損が大きくなる」
「賢明です。これほど賢明な君主ならば、決して江東から失われてはならないと誰もが承知のはず。早世など、我らが決して許しません」
「皮肉に聞こえるな、師父よ」
「ならばそう受け取ってもらっても構いません。ここから先の戦は、文官にお任せを」
「何を考えている」
「和睦です。されど、孫家が大いに優位に立つ条約を。交州の実効支配は諦めねばなりませんが、維持費を考えれば、こちらの方が実益は大きいかと」
孫権は苦く眉をしかめ、頭を掻く。
当初、考えていたものとは違う解決方法に、抵抗があるのだろう。
「士家から和睦を提案させねば、こちらの面目が立たん」
「劉備を仲裁として動かします。これから先、曹操に対しての対抗を考える為、という名目で。これならば面目は保てます」
「……悔しいな。私はどうも、戦が下手らしい」
「戦が全てではありますまい。赤壁で私はそれを、嫌というほど見せつけられました」
大きく溜息を吐き、孫権は一つ頷く。
ここは自分の感情を捨て、江東の為の最良を考えるべきだろう。
「師父殿、その交渉は貴方に任せても良いか?」
「お任せください」
「使者はどうする」
「そうですなぁ。我らの優位を明確にする為、相当な曲者を送るべきかと」
「……虞翻か」
「左様。敵が腹を立て交渉が決裂すれば、劉備の面目も潰れたことになる。その時は、劉備に増援を出してもらえます」
「ふっ、好きにせよ」
「はっ」
張昭は一礼し、部屋を後にした。
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それではまた次回。




