89話 鳳凰の雛
「邪魔するぜ、お坊ちゃん」
「あぁ、君か。相変わらず腹の立つしゃがれ声だ。こっちに来るなら連絡ぐらい寄越してくれ」
「周瑜から自由に出入りしていいって許可を貰ってるからな」
幕舎で一人、大量の事務作業をこなす大男。魯粛。
山のように積みあがった書簡を、今にも蹴り飛ばしそうな程に苛立っていた。
そんな張り詰めた幕舎にふらりと現れた、しゃがれ声の小男。
一見すればただの浮浪者だが、その智謀はこの天地を大きく飛躍する可能性を秘めていた。
名を、龐統。荊州にて、諸葛亮と並び称された天才。
皆は彼を「鳳凰の雛」という意味を込め「鳳雛」と呼んでいた。
「お前は今や、劉備陣営で重きをなす軍師だろう。同盟関係にあるとはいえ、軽々しく別陣営たるこっちへやって来るな」
「常識破りの気違いと言われていたお前から、そんな常識的な説教を食らうとは思わなかった。人も変わるもんだな」
「……状況が、状況だ」
魯粛は軽い舌打ちをして、視線を落とした。
つい先日、曹操軍の名将「曹仁」を追い出し、ようやく江陵城を落とすことが叶った。
しかし、やはり曹仁である。こちらも無傷での勝利とは言えなかった。
先鋒の将軍「甘寧」の精鋭部隊は大いに兵を失い、軍全体の被害も大きい。
曹仁は籠城戦をしてくると思っていたのに、自らを先頭に、野戦を仕掛けてきたのだ。
野戦での曹仁の腕は、間違いなく天下の一、二を争う。初戦で意表を突かれた周瑜軍はここで大きく被害を広げた。
一番の痛手は、周瑜の負傷だった。流れ矢が命中したのだ。
しかもこれに、毒が仕込まれていた。
手早い処置で死には至らなかったが、周瑜の体調は優れず、今は臨時で全ての事務を魯粛が担当していた。
「周瑜は、今や孫家の核。そして、天下の中心だ」
「気持ちはよく分かる。俺は、幼い頃から奴とは親しくしてきた」
「ならば龐統よ、どうか孫家に来てくれまいか? お前の『英雄を見抜く鳳凰の目』は、天下を狙う孫家にこそ必要なのだ!」
「天下を狙う、孫家、ね……孫権は果たして天下を見据えているだろうか? それは周瑜だけの夢ではないか?」
「なに?」
「まぁ、この話は止そう。今日は別な用事があって来たのだ」
龐統は笑って、酒を用意してくれと横柄な態度で物を言う。
仕方ないと呆れ、魯粛も筆から手を離し、従者へ酒を用意するように指示を出した。
「さぁ、魯粛。この江陵の苦戦は、何が原因だと思う?」
「は? それは、曹仁の勇猛さが」
「違う。俺に正解を言わせたいのか?」
「……孫権様の、見通しの甘さだ。赤壁の勝利の際、兵を合肥や徐州に向けず、こちらに割いていれば、容易く落とせた」
「そうだ。まぁ、お前らの統治を考えれば、これを悪手とすることは出来ないがな」
これ以上、周瑜に功を建てさせれば、再び国内で混乱が生じる。
孫権の考えは恐らくそうだろう。
だからこそ自分が功を建てることで、周瑜の足を引っ張らないように、配慮した。
ただ、それは戦略上、悪手だ。
あまりにも内に目を向けすぎて、肝心の勝算を忘れている。
そして結果として孫権は戦で功を建てれず、周瑜は負傷し、孫家は大きな被害を出した。
まだ、赤壁の勝利による「益」は取れていないのに、全体規模で動き過ぎている。
今、江陵が取れたから良かったが、これにも負けていれば赤壁の勝利は無意味なものとなっていただろう。
「そして今、孫権が何をしているか知っているか?」
「士燮の死に乗じて、交州を実効支配しようとしている」
「今の孫家の方針は何なんだ? 交州の支配か? 益州侵攻か? 外か内か、どちらに目を向けているのだ?」
確かに、言う通りだ。でも、仕方ないのだ。
江東は多くの豪族の連合によって成り立ち、孫家はその代表に過ぎない。
孫家が大きな実権を握るには、もう十年ほどの時が必要だと魯粛は見ていた。
だからこそ、孫権は内側を見ていなければならない。
そして周瑜が外に目を向け、天下を駆ける。これが、孫家の方針である。
「孫権も、周瑜も、天下の逸材だ。だからこそ今までは上手く行っていた。しかし、これからはそうもいくまい。天下を狙うとはそういう事だ」
「全力をどちらかに注がなければ、無理だというのだな」
「そうだ。益州の劉璋は確かに天下の群雄たる器ではない。されどその下には星の如く、忠烈な勇将や、明晰な能吏が控えている。今の孫家では、奪うことは出来ん」
酒を煽り、龐統は一本、人差し指を立てる。
「そしてもう一つ、交州もまた、片手間では落ちない」
「それはどうだろうか。交州は戦を知らぬ弱兵ばかり。孫権様は抜かりない謀略も仕掛けている」
「弱兵ばかりなら、どうして今まであの地では乱が起きなかった? 謀略に暗いのならば、どうして今まで交州は外敵に襲われなかった? 全て、士燮の手によるものだと? 見通しが甘いだろう」
魯粛は眉を歪め、息を飲む。
この龐統の目は、人を見通す力がある。人を見通せば、天下の情勢を容易く掴むことが出来るのと同じだ。
交州の戦は万に一つも負けがないと思っていた。
しかし龐統は、それが無理だと言ってのける。
「交州は、確かに落とせる。しかし落とした時、孫家は力を使い果たし、瓦解するだろう。交州は固いぞ? 何せ、広く民に慕われている。そして、妖怪はまだ死んでいない」
「どうすればいい」
「十日だ。交州がもしも、十日耐えれば、孫家は損の方が大きくなる。ここらで得する和睦を結ぶしかないな。今、孫家に崩れられれば、我が殿も危ういのでね。協力はするぞ」
「……張昭殿と、話さねばなるまい」
「早くしろよ。第二の、赤壁が起こる前に」
厳めしい顔に疲れの色を浮かべながら、魯粛は幕舎を後にする。
残された龐統は一人、魯粛が手を付けてない酒を、自らの方に引き寄せた。
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それではまた次回。




