87話 言葉を遠くまで
「現在、孫権は赤壁に勝利し、その将である周瑜は江陵を奪いました。交州は独立し、孫家に抗えるでしょうか」
「天下は孫家のみにあらず。それに孫家が力を持つは揚州の北方。南方は未だ異民族が実効支配し、それを越えて交州にまで手を伸ばすには膨大な労力が必要だ。そんな中、無理に支配に動けばそれは明確な野心の表れで、天子への反逆と同じ。天に歯向かい、功業を為した者は居ないぞ」
「交州は今まで孫家とは友好を結んでまいりました。それを裏切り、果たして交州は独立の道を歩めますかな?」
「異なことを言う。先に裏切ったのはあちらだ。こちらは士一族による独立を条件に、孫家に組みした。しかし此度、我が父の死を理由に付け入り、内政に干渉するのは道理に反する。されどその誤りを正せば、互いに歩み寄れるはずだ。あまり過激な発想はするでない」
「士燮様の生きている間、戦乱はありませんでした。されど、今まさに交州は戦火の最中。交州は、我らはどうなるのでしょうか」
「我が威徳が父に及ばないばかりに、こうなってしまったのは誠に申し訳なく思っている。されど、私は故郷を捨てるつもりはない、民を必ず守るとここに誓おう。父の残した平穏な交州を、必ず守ろう。だからこそ皆の力が必要なのだ。どうかこの士徽を信じて着いて来てほしい」
「孫家は、士キン様の子を正当な士燮様の後継であると称しております。それが故に我らは不安なのです。どちらを信じればよろしいのでしょうか、と」
「兄上は今、孫家に仕えている為、交州とは関係ないのだ。それに、父が直接、一族の後継を士祇兄上と定めた。皆は孫権の言葉を信じるか? それとも、士燮の言葉を信じるか? 私はただ、父の遺命に従うのみである」
交趾郡の長老集団から、商人、農民、学者、それらの言葉にひとつひとつ順に、丁寧に言葉を返す。
士祇兄上の正当性を決して揺らさないように。敢えて胸を張り、自信に溢れる様に、同じ目線に立ち、時に怒り、時に涙を流して。
昼夜を問わずに語り、一睡もすることなく、声を枯らし、民と共に同じ食を囲む。
我々は今、共に戦っているのだ。共に大王亡き交州を支えているのだ。
精神をすり減らしながら、その言葉を繰り返す。
少しでも言葉が曇れば、孫家から潜り込んでいる説客や間者に上げ足を取られてしまう。
だからこそ正面切って、逃げも隠れもせず、全ての言葉に答え続ける。
呼ばれればどのようなみすぼらしい家にも赴き、言葉を交わし、手を握り合った。
何日も、何日もだ。頬は削げ、目は獣のように光を放ち、衣服は砂や煤に汚れたが、それでも変わらずに胸を張る。
民の全てと言葉を交わしてやる。それほどの意気が僕にはあった。
陳時からの伝令が飛び込んだのは、さて、何度目の夜を越えたあたりであっただろうか。
☆
三日目の夜。
一度小手試しに、遠巻きに矢を射かけたり城壁に迫ったりしたが、対応はしっかりとしていた。
決して練度の高い兵の動きではないが、決してこの地を奪われてはなるものかという、士気は高い。
「歩隲将軍、総攻撃の指示を。あの兵の動きならば、必ず落とせます」
「駄目だ、被害が大きくなる。交州の弱兵と、孫家の精兵を、天秤にかけるべきではない」
むしろ、こちらの兵の方が苛立ちで士気が綻んでいる有様であった。
囲み威圧をかければ交趾は内から崩れ、門は開くと思っていた。
戦の経験のない、平和ボケした者達だ。この圧力に耐えられるはずもない。
「ふむ、まだ妖怪の力がこの地に残っているということか。あの小僧はいったい、どのような詐術を」
さほど高くはない城壁。堅牢でもない砦。
されど怪しく立ち上る勢いが、歩隲の軍の足を鈍らせる。
天下の片隅に潜んでいた妖怪はまだ、死んではいないのか。
誰もがそれを感じていたはずだ。
「まぁ……良い。どうせ我らは奇襲、陽動の役目にすぎん」
歩隲は若い校尉を数人集めた。
皆、戦意は溢れんばかりである。
江東の男達は、死地に向かって臆することがない。
この気性が、あの赤壁の勝利を呼んだのだと、歩隲は思っていた。
「お前達はこの地を離れよ」
「承知しました。目標は」
「合浦郡だ」
交州の要。南海貿易を掌握し、士燮の弟、士壱の守る地。
かの地には猛将「呉巨」も居る。最も攻略の難しい場所だろう。
ただ、士壱は文官で戦に詳しくはなく、呉巨は猛将でこそあれ、軍略家には程遠い。
「お前らはそれぞれ千。総勢で三千を与える。合浦の背後を取り、落とせ」
「命とあらば攻めますが、少し、兵が」
「三日の後。合浦に一万の兵が攻め入る。それに呼応するのだ」
「一万?」
確かに孫権の下から、呂岱の率いる援軍が来るという話は聞いている。
しかし、合浦郡に至るには、南海郡を抜けなければならない。
あの地を守るのは士一族の後継「士祇」と、能吏「頼恭」である。
そう簡単に抜けるものではなく、一族に組みする地元民による抵抗も大きいはずだ。
「であれば、我らは南海郡へ向かった方が」
「誰が陸路で来るといった」
「と、いいますと」
「海だ。船で、呂岱の率いる一万が急行している。それに呼応するのだ」
海からの大軍団。そのような作戦は、聞いたことがないものだった。
いつの間に海を進む大船を建造していたのだろうか。
しかし、歩隲は知っていた。
先の赤壁で曹操が組んだ要塞の様な船団。
その造船技術を盗み、そして改良し、海でも進める大船に進化させたことを。
天下に兵を進めんとする孫権の、意気の込められた船であった。
「分かったならば、行け」
「は、ハッ」
校尉達は素早く駆けてその場を離れる。
「戦に通じる男は、ここに封じている。果たして、それでも妖怪は手を伸ばせるか。見てやろう」
静かに、冷えた歩隲の呟き。
城門は未だ、固く閉じていた。
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それではまた次回。




