84話 妖怪の息吹
「もうそろそろ、約定の一月が過ぎる。どうだ、張昭。歩隲から何か聞いているか?」
「何かと色々、士一族は理由を付けて期日を伸ばそうとしているとのこと。しかし、歩隲はその全てを拒否し、履行を迫っています」
「彼らには酷な話だが、こちらにも色々と理由がある。歩隲は、適任であったな」
ようやく、周瑜は江陵から曹仁を追い出す段階に入ったという。
ただ、被害も大きく、あの周瑜も負傷をしていた。
やはり曹操配下の名将「曹仁」といったところだろうか。
しかし、その曹仁ですら周瑜は叩き伏せて見せた。
孫家の士気は高く、周瑜の名声は四方に轟き、天下への道も開き始める。
間違いなく周瑜は、亡き孫策の夢を掴み取る、その寸でのところにまで迫っていた。
「周瑜は、義兄だ。兄の夢を、私だって叶えたい」
勿論、周瑜の忠誠に疑いはない。
しかし情勢や、歴史というのは個人でどうこう出来るというものではないのだ。
本人の意思に関係なく、大衆の動きで情勢は容易く変わる。
そしてこの孫家は、その影響の強い体制にあった。
周家は、孫家よりも家柄も格式も高い。
そこにあの、逸材だ。多くの豪族や武将、名士は今や、自分よりも周瑜を主としている風潮がある。
あの周瑜が裏切る訳がない。しかし、その周囲は分からない。
周囲が動いてしまえば、如何な周瑜と言えど、それに乗るしかなくなる。それが、恐ろしかった。
「交州を押さえたという功績があれば、孫家の権威は増す。周瑜は今、戦場で命を削っている。それを邪魔してはならんのだ」
内側は、必ず自分が抑える。
周瑜には気兼ねなく、天下への手を伸ばしてほしい。
それが、孫策の、そして自分の夢にもなっていた。
「張昭、万が一、士一族が反旗を翻した場合の為に、兵を準備させよ。将は、呂岱。兵は一万」
「承知しました」
そうして、張昭が静かに一礼をしたとき、間者の一人が音もなく闇より現れる。
それを見て立ち去ろうとする張昭を留め、孫権は間者を促す。
「士一族の代表、士祇はこちらとの交渉を断り、自治権の譲渡には応じられないと宣言。歩隲様はこれを宣戦布告と受け、出兵の許可を求めております」
「……そうか、分かった。許可しよう。それと、士キンを逮捕せよ」
「ハッ」
かつてまみえた、あの不敵な少年の顔を頭に浮かべる。
ヤツは、このような悪手を取る様な、そういう男であっただろうか。
僅かな違和感を胸に抱え、闇に消える間者を見送った。
☆
「陳時、兵は集めたか」
「はい。交趾郡に二千、南海郡に三千、合浦郡に三千。されど……些か準備が早すぎるかと。まだ期日まで時間はありますが」
「これで良い。歩隲は、優れた将だ。蒼梧郡にあるのは精鋭といえど、五千のみ。この兵数でこちらを圧迫するなら奇襲以外にない、それは気づいてるはずだ」
期日までのらりくらりと要求を躱し、相手の気を逆撫でする間、着々と準備を進める。
交州は戦場になってこなかった分、守りに適した城砦を持っていない。奇襲にはとても弱いだろう。
対して相手は精兵。このハンデを埋めるには、入念な準備だけが対抗手段になり得る。
「奇襲だとしても、敵が訪れるのは恐らく、こちらの宣言を受けた七日後かと。歩隲は孫権の命令を待たねば動けません」
「いや、その日に来る。必ずだ」
慣れない戦の為か、陳時の口数は多い。いや交州の将兵の皆が同じだ。
ただ、不思議と僕の心は透き通り、平穏そのものだ。
「準備をしていれば、恐れるに足らず。将兵には敵兵は弱く、少数だと伝えておけ。民には、孫権は親父の喪に付け込んできたと広めよ」
「……何というか、若君は、大きくなられましたな。御屋形様を見ているようです」
「ん? そうか?」
「はい。危機に瀕して、楽しそうにしておられるように見えます。御屋形様も、そのような御方でした」
涙ぐむ岩の様な顔した男の顔は、どこかおかしく見えた。
僅かに鼻で笑い、肩を叩く。
「しっかりしてくれ。この交趾郡の大将は、あなただ。今からその調子でどうする」
「懐かしんでおりました。されど、もう涙は流しません。御屋形様の交州を、必ず守り抜きます」
「その意気だ。頼むぞ」
「ハッ」
陳時は去り、一人、空を眺める。
本当に、もう親父はここに居ないのだと、ひしひしと思い知らされる。
そして、もう雷華もここにはいない。
別れは辛いからと、俺に一つの書状だけを残し、いつの間にか旅立っていた。
とにかく、泣いた。
今まで張り詰めていた堰を切ったように、声を枯らすまで、全てを吐き出した。
そして、残ったのは明瞭な故郷の風景と、一つの書状だけ。
──心はいつまでも、貴方だけのものです。
短く、それだけが綴られた、震えた文字。
怖いのは僕だけではない。皆が同じなのだ。
雷華も、兄上も、叔父上も、この交州の民も皆。
「ならば、僕の心も、いつまでもアイツのものだ。それを認めてしまえば、やることは明確だろう」
悩むことはない。とにかく「交州」を守るのだ。
それだけを考えれば、さほど難しいことではない。
それに、戦を前にすればそれだけに没頭していられる。気も楽だ。
「ただ、悔しいし、怒りもある。孫権、お前は誰を敵に回したかを、よく考えると良い」
妖怪はまだ、死んでいない。
再び、闇より天下に手を伸ばしてみせる。
「さぁ、勝負だ。歴史を変えてやる」
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それではまた次回。




