83話 背負う者
敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
有名な、孫子の一節だ。
孫権が最も欲しているのは何か、そして自分の最も守るべきものは何か。
これを理解すれば、最終的な終着地点も見えてくるはずだった。
「兄上、僕は決めました」
「聞かせてほしい」
「実力行使もやむなし。されど、ひたすら守りに徹し、和睦に持ち込む。ここを互いの決着とします」
「戦を選んだか。叔父上が何か言いそうだが、まぁ、良い。決めるのはお前だ」
叔父上は戦になる様な事だけは避けたいとの考えだった。
確かに相手は、孫権。勝てる相手ではない。
しかし籠城戦や、防御に徹した争いであれば、それほど大きな損害は生まれないはずだ。
「それで、策は。和睦の内容は」
「孫権が今、最も欲しているもの。それは、権威です。今や江東は孫権ではなく、周瑜を慕う者が多いのが現状。これを何とか打開したいはずです。なのでこちらは、勝ってはなりません」
「なるほど。あくまで孫権に花を持たせる形にしなければならないと」
「はい。交州の地を力で奪い取るには、正直、費用がかかり過ぎます。維持まで考えれば猶更です。だからこそ、今後も自治権を我々が得ていくには、更なる益を孫権に提示する必要があります」
「朝廷と孫権への貢ぎ物から、さらに上乗せはこちらの負担が大きすぎる」
「朝廷への貢ぎ物を減らして、その分を上乗せしましょう」
「何!?」
苦しい策ではあるが、赤壁で負けた曹操に、交州へ手を伸ばす力はもうない。
ならば朝廷への貢ぎ物もそこまで重要ではなくなってきたのも事実だ。
「そんなことをすれば、士匡殿や、士幹はどうなる」
「士幹は今や、あの曹丕の側近。多少の事では揺らぎません。それに、士匡殿の人脈があれば、立場が危うくなる事態は避けられます」
「しかし……」
「いざとなれば、交州へ連れ戻します。ここは、あの二人を信じるほかありますまい」
「分かった。確かに、孫権からすれば無駄な徒労もなく、影響を強められ、得もする。ただ……弱いな」
「やはり……弱いですか」
何度も考えた策であるが、やはり、兄上の言う通り、弱い策だった。
決め手に欠ける。交州は一度、孫家に離反する姿勢を見せるのだ。
その面目を取り返すために、孫権は軍を動かす。和睦に応じさせるには、相当な期間、耐えないといけないだろう。
そうなれば僕が言った通りの条件だけでは、孫権は頷くまい。
必ず、僕か兄上の首を欲する。弱い、策である。
「少数ですが南蛮からの援軍、陸績殿に頼り、孫家の世論を動かすことも可能です」
「やはり弱いな。明確に、孫権が戦を中断する決定打にはなり得ない」
「僕が、人質として」
「馬鹿言え。それこそ思う壺だ。交州は成り立たなくなるぞ」
空気は、重い。
僕の出せる策はここまでだった。
後はもう、孫権の言う通りに頭を下げるしかない。
兄上は、眉を歪め、僕の肩に手を置く。
「気負うな。お前はよくやっている、一人でここまで策を導き出せるのだ。父上も喜ばれるだろう」
「されど、決め手に欠けるのでは、何もないのと同じです」
「……劉備を動かせば、仲裁となるか?」
思ってもない提案だった。
勿論、それならば戦は止められる。
しかし劉備には口を挟む理由がない。
はっきりとした内政干渉によって、孫権の機嫌を損ねるのだ。むしろ損でしかない。
「それは、そうですが、動くはずがありません。動く、理由がありません」
「されど動けば決定打となり得る。動けば、この広大で豊かな交州の民は助かる」
兄上が手を上げると、それが合図であったかのように多くの兵が部屋に満ち、僕の体を拘束する。
あっという間であった。予想外の事に、僕は身動きすることも出来なかった。
「あ、兄上、これは?」
「心配するな。お前に危害を加えるつもりはない。ただ、しばらく大人しくしていてほしい」
「分かりません。これは、何の真似ですか」
「最近、劉備を長年支えてきた側室の、甘夫人が亡くなったと聞く。それに、麋竺の妹である糜夫人も病に着いていると」
兄上は感情の籠っていない目で、窓の外に広がる青空を眺めている。
不安が、胸で暴れ、張り裂けそうになる。
「雷華を……いや、公孫蘭を劉備に送り、娶らせる。これにより、協力体制を築く」
「なっ、それは、それだけは何卒ご勘弁下さいっ! この身を如何に削っても構いません、だから、それだけは!!」
「これは雷華、彼女自身の進言だ」
「まさか……」
頭が、真っ白になっていく。
ただひたすらに、息が苦しい。
「士徽よ、お前の才は確かに優れている、父上にも劣らん。されど、自覚がない。もうお前は『士燮の息子』ではなく『交州の士徽』なのだ。交州の柱石だ。その自覚が、足りない」
「時間を、時間をください。必ず、誰も犠牲になることのない、完璧な策を編みます」
「俺は、この交州の主となった。完璧など存在しないし、情で思考を曇らせてはならないことを知っている。一人の女で交州が救われるなら、喜んで差し出そう」
「兄上!!」
「酷な話だ。しかし、頭を冷やせ。俺は、この女が自分の妻でも、娘でも、喜んで悪鬼に差し出すぞ。交州を守れるのならな。それがこの土地を背負うという事だ」
歯を食いしばり、必死に足掻けど、兵の拘束は解けない。
兄上が正しい。それは分かっている。しかし、それでも我慢は出来ない。
胸が張り裂け、体が爆発しそうなほどの怒りと、悲しみ。獣に似た声を上げるも、空しく響くだけ。
「丁重に、落ち着く閉じ込めておけ。あとは俺が全て手配する」
扉が閉じられていく。兄上の姿が見えなくなる。
「があああぁぁぁぁぁあ!!!!!」
叫びながら、流れる涙に気づいた。
あぁ、どうしてこれほどまでに、僕は気づくのが遅いんだろうか。
この怒りは兄上ではない、自分に向けた怒りであった。
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それではまた次回。




