80話 不可解な思惑
全ての民が、声を上げて涙を流した。
まるで山が海が空が震える様な、それほどの悲痛な叫びだった。
あの、いつもは岩の様に無口で無表情な陳時さんですら、地面を何度も叩き、声をあげて叫ぶ。
僕は今、底の見えない暗闇に叩き落されたような、そんな気分だった。
悲しみや怒りではなく、ただただ押し寄せる不安。潰されそうになる感覚。
親父の背負っていたものの大きさ。それが一気に、この身に圧し掛かる。
それでも、頭だけは回さなければならない。
僕には、悲しむ時間すら与えられてはいないのだ。
「丁さん、急に呼び立ててすまない」
「色々、大変な最中じゃ。いくらでもこの老骨を使ってくれ」
僕が建てたあの高級料亭で働いている、看板の一人。老婆の丁さん。
しばらく見ないうちにすっかり老けていたが、まだまだ溌溂とした元気さがあった。
「それで、やっぱり蓮さんは」
「あぁ、しばらく見てないね。たまに武昌へふらっと出かけはするんだが、その事前の連絡も聞いていない。少し、不安だったんじゃ」
「士キン兄上との間に出来た子供がいるって話も」
丁さんはゆっくりと頷き、溜息を吐く。
「色々と情が深くなって、いけないと思いつつも黙認していた。恐らく身籠ったことすら、旦那には伝えておるまい。自分は年増だと、卑下しておった。今思えば、儂が止めるべきじゃった」
「分かった。ありがとう。手がかりがあったらすぐに教えてほしい。それと、蓮さんが戻るまでは丁さんに店を預ける」
「さほど時間はかかるまい。交州内部の情報は、全てあの店に集まるでな。すぐに報告するよ」
刺客と、隠し子と。何かが繋がっているやもしれない。
常に最悪の想定を頭に描き、策を練る。やるべきことが、あまりに多い。
それが終わると、僕はすぐに士壱叔父上の下へ向かった。
今、臨時的に交州を統べているのは叔父上である。
本来の跡取りである士キン兄上は今、孫権の下に居て離れることが出来ない。
既に士祇兄上はそこに居て、明らかな怒りが満ち満ちていた。
初めて見せる激情なのではないだろうか。
いつもは自分の感情を、常に微笑みの下に隠しているような人であった。
ただ、叔父上は涼やかに、落ち着いている。
この人がこうやって腰を落ち着けているからこそ、交州は不安定にならずに済んでいるのだろう。
「座れ、士徽。兄より、遺言を預かっている。それをお前らには伝えねばならない」
僕は促され、叔父上の前に腰を下ろす。
親父が居ない。この静寂な空間に居ると、はっきりとそれを感じてしまう。
「まず、士キンは間違いなく戻らん。孫権の事だからだ。その為、この交州をこれより統べていくのは、士祇。お前だ」
「な……私には、荷が重く。それに今は、私は冷静ではいられません」
「それでも背負わねばならん。それに、お前しかいないのだ。私は歳だし、士徽は内よりも外に目を向ける質だ。だから、お前しかいない。これは兄の、お前の父からの命令だ」
「兄上を、戻すことは」
「諦めろ。士キンはそれを承知の上で、ここを発ったのだ」
はっきりと、言い切る。
兄上は涙を落とし、頭を下げた。
「士祇の後見人は、私だ。無理に気負うな。しばらくは私が支えていられる」
「はい」
「士徽」
「何でしょうか」
「お前は交趾を治めよ。陳時が補佐に着く。それと、対外的な方向性はお前が主導し、決める様に。勿論、私達も口を挟むが、決定権はお前にある。お前が、士燮に代わるのだ」
あまりに大きな名前であった。
それでも、やるしかない。
「承知しました」
「今、私は呉巨に命じて密かに軍を増強している。この不安定を押さえつけるには、力が必要だ。この軍も士徽、お前に指揮権を預けたい」
「……いえ、孫権に睨まれたくはありません。しばらくは叔父上の下に置いていてください。それに合浦郡は交州の中心。地理的にもそこに置くのが一番であり、海賊の取り締まりだと言い逃れも出来ます」
「そうか、分かった。とりあえず、兄が残していた命令に関してはこれだけだ。後はお前たちに万事任せると、そう言っていた」
親父らしいなとは思う。
最後の最後まで、面倒事は丸投げだ。まったく。
「士祇、刺客は何か吐いたか?」
「四肢を落とし、目をえぐり、ありとあらゆる責め苦を負わせていますが、何も。あれでは死んでも吐かないかと。それと、あの商人達は父上の言う通り関係なかったので、丁重に解放しました」
「親父の治療を行っていました華佗先生は、孫策暗殺に使われていた毒と同じものだったと。共通性があるかは、分かりませんが」
「孫策の死と、兄の死で、一番得をしたのは誰か……だな。犯人捜しより、その意図を探る方が先か」
「はい」
「何か思いつくことはあるか」
この二つの死で得をしたのは誰か。
真っ先に浮かんだのは、やはり孫権であった。
孫策が死んだことで孫権は江東の主に着き、交州に介入できる隙を生み出せる。
ただ、違うだろう。二つの死は、孫権にかかるコストが大きすぎる。
孫策が死んだせいで、今まで押さえつけていた豪族の力が増長し、孫家は力を失った。その苦労は、孫権が何よりも分かっている。
それと、交州に本気で手を伸ばしたいのなら、今まで何度も親父を殺す機会はあったのだ。
しかし、やらなかった。出来なかった。
殺すよりも、今は生かしておいた方が良いと思っていたからだ。
そう考えると、次に思い当たるのは。
「曹操側の誰か、でしょう。孫策の死で、曹操は官渡にて後方の脅威を一つ減らしました。交州を不安定にすることで、赤壁の後の孫権の目を、こちらに逸らしています」
「……朝廷の者達との交流はある。士匡もそこに居る。交州の評判は悪いものではないはずだ。曹操ですら好意的なんだぞ?」
「独断で、これを行った人物がいるという事です。天下に広く視野を持ち、奇抜な発想を持った鬼才が。それが出来るのは、評判を聞く限り、荀彧か、郭嘉のみ」
「そうか」
ただ、さっきも言った通り、犯人探しに意味はない。
それによって生まれる、裏の意図をくみ取るべきなのだ。
誰が、何をもって、どう動くか。
それを早く解明しない事には、意味がない。
「士壱様、今、よろしいでしょうか」
部屋の外から従者の声が聞こえた。
今は誰からの面会も断りを入れておいたはずだが。
「急用か?」
「歩隲様より、書状が来ています」
「すぐに見せよ」
従者は部屋に入り、書簡をこちらに差し出した。
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それではまた次回。




