77話 交州の妖怪
「殿、その、本当に良かったのですか? 雷豊は、得難き人材です。それに交州と言えば、孫権の支配域。いずれ、悩みの種になるやも」
「言うな、麋竺。俺は曹操の様に、人の本質を見極めきれぬ男ではない。アレは、大丈夫だ。誰かの下に付く器ではない」
「……私はともかく、弟は雷豊と親しくありました。これを聞けば、落ち込むでしょうなぁ」
劉備は雷豊の献策を良しとして、約束通り、褒賞を与えて雷家の商人達を帰還させた。
諸葛亮はしきりに異を唱えたものの、劉備は一喝し、雷家へ危害を加えることを禁止。
兵を付けて見送るなど、まるで賓客の様に礼を尽くした。
雷豊の功績は、それだけの価値がある。
赤壁での戦いにのみ視点を移せば、諸葛亮、徐庶に並び得るだろう。
「それよりも今は、南郡攻略だ。諸葛亮が既に細かい戦略まで描いている。軍議を開くぞ」
「承知しました。では、将軍方をお呼び致します」
「おう」
天下の流れが、変わりつつある。
曹操が負けた今、この中華はどのような未来を歩むのか。
足を止めてはいられなかった。
☆
赤壁の戦いは、曹操の敗北で決した。
その報告を聞き、腰の曲がった老人は柄にもなく小躍りして喜んでいた。
勝敗の決め手になったのは周瑜の力が大きいが、曹操に決戦を焦らせたのは、士燮の謀略に依るところが多かっただろう。
遼東と、涼州の不穏な動き。特に遼東は夏侯惇を抑えに残してもなお、曹操の不安を煽るに値した。
力は無いと言えど、袁煕という袁家の血筋はそれだけで意味を持つ。
更に公孫氏の手腕は、憎い程に厭らしい。
涼州軍閥や烏桓族をちらつかせ、平然と恭順の表情を見せながら、兵を集めたりする。
確かに夏侯惇は曹操の軍内では統治に長けた名将ではあるものの、公孫氏の方が一枚上手と言ったところだろう。
袁煕はこちらに恩がある為に動かしやすいが、今後は公孫氏の方に手を伸ばしておかないと、連携は難しい。
その為に今、魯陰を潜らせているが、期待道りになるかどうかは怪しかった。
「父上、お呼びでしょうか?」
「おう、士祇……ん? お前、また太ってないか?」
「腹が立つと、食事がよく進むのです。兄上の苦労を今、ひしひしと感じております」
南海郡にて交州の政治を担う士祇は、少し疲れた表情を見せながら微笑む。
段々と、やり手の商人というだけではなく、この地を担う士一族の顔になってきたと、士燮は密かに喜んだ。
「どうだ、政治の方は」
「頼恭殿によく助けてもらう日々です。豪族の異なる意見をまとめ、折衷案を出し、法を施行し、実行されているかを監査し、異民族に心を砕き。金の事だけを考えていた日々が懐かしいです」
「士キンはそれをよくやっていた。今も孫権の下で、武昌太守としてよく統治していると聞く。見習うのは良いが、代わりになろうとは思うな。お前にはお前の得意がある」
「承知いたしました」
「まぁ、面倒は士壱に投げておけば、万事解決だがな」
士燮は前歯の欠けた口を開いて、意地悪気に笑う。
今、為政者としての苦労を肌で感じているせいか、士祇は苦笑いだけを浮かべる。
「士徽も上手くやったらしい。数か月後には戻るとのことだ。アイツ、戦を仕切る軍師までやらされたらしいぞ」
「ほぅ、血を見るだけで卒倒する士徽がですか」
「まぁ、それよりなにより、士幹だ。ヤツは先の戦で功績を上げ、曹丕の側近となったらしい。大出世間違いなしだ」
「それはめでたいことですね。このまま曹丕が曹操の跡を継げば、交州の立場も重いものになるやもしれません」
「あまり中枢に関わると痛い目を見るから手放しでは喜べんが、そこは士匡が上手くやるだろう」
方々で、自分の子供達が大きく翼を広げようとしている。
親としてこれほど嬉しいことは無いと同時に、そんな士家の根付くこの土地をこれからも守らなければいけないと、強く心に感じた。
「あぁ、そういえば、今日お前を呼んだのは色々とそっちに持って行ってほしい仕事があってな。詳しくは陳時から聞いてはくれまいか」
「う、まだ、仕事が増えるのですか……承知しました」
「じゃあ俺は、少し用がある。先ほど、商船団を率いてきたお得意さんがウチに来ると聞いた。それを出迎えねばな」
「父上、その、前から申し上げてますが、せめて出迎えの際くらいは護衛を付けてくだされ」
「何を言うか。左様なことをすれば、相手が不快に思う。心配はいらん」
以前から士壱にも言われていることであった。
しかし、相手は不慣れな土地に訪れてくれた「客」なのだ。
こういった些細な心配りに、相手は何よりも感動する。互いに持ちつ持たれつで、交州は立つことが出来ていると言って良い。
屋敷の前、豪華絢爛な従者達を連れて待っていたのは、得意の取引先である胡人の者達であった。
士燮も、その胡人も大きく腕を広げて、歓迎の意を示した。
これ程の金を、動かせる力が士燮にはある。
このパレードに似た歓迎は、交州の者達にそういう宣伝をする意味もあった。
「さぁさぁ、どうぞ屋敷へ。大いに歓迎いたしますぞ」
商人の手を引いて、屋敷へ招く。
屋敷では大勢の客をもてなす料理や管楽の用意をさせている最中である。
そのときであった。
大勢の人間が居るにもかかわらず、一瞬の静寂が交州を襲う。
士燮の体が揺れ、膝から崩れ落ちる。
自分でも、何が起きたのかは分からない。
ただ、驚きだけがあり、自分の右肩に一本の短い弓矢が突き立っている。
遠く、見えるのは、弩を構えた青年。
顔は隠れてよく分からないが、知った顔ではなかった。
「油断、したなぁ……」
老いて細くなった体は倒れ、悲鳴が響く。
青年の姿は既に、遠くから消えてしまっていた。
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