67話 風の吹く夜
後方に控える「劉」の旗。
まさかあそこに、およそ二千の弱兵しか残っていないと聞けば、誰もが驚くだろう。
あの陣営に残っているのは、関羽が率いる二千の兵のみ。
しかしその威容は何万の精兵が控えているのと何ら遜色がない。
「関羽か。あれもまた、凡人と異なる類の男だろう」
周瑜を味方とも見ていない。まるで独力で曹操軍を相手にしてやろうかという気風。
恐らくあれが、関羽という男を如実に表しているのだ。
関羽を従えている。その一つだけを見ても、劉備という男の底の知れなさに興味が湧いてくる。
「周瑜様、こちらへ」
護衛兵に促され、周瑜は従者の様な変装をしたまま、小さな幕舎へと入る。
中には一人の老将が、全身に血の滲んだ包帯を巻き、痛々しい姿で横たわっていた。
「おぉ、小童か。誰にも見られておるまいな」
「細心の注意を払っています。それよりも、傷の方は如何ですか」
「見て分かるだろう。何十年と戦場を駆けてきたが、これほどの傷は受けたことが無い」
その老将は、名を黄蓋。将兵に最も慕われている、孫堅の代からの宿将であった。
そして彼をこんな姿にしたのは、他ならぬこの周瑜である。
苦肉の計。
内部分裂を装い、曹操を罠にはめる為の策だ。
ただ、その為には誰かが犠牲になる必要があった。
「申し訳ありません」
「ふん、暗い顔をしおって。これは儂と貴様で編んだ計だ」
「将軍は、最初は降伏の派閥であった御方。何故、ご協力下さったのですか?」
「思い上がるな小童。今でも儂は降伏した方が良いと思っている。されど、それは理想だ。武人は理想に踊らされてはならん。理想を信じるのは文官の仕事だ」
「と、申しますと」
「孫堅様の夢見た、漢室の復興はもう成らん。時代は変わったのだ。ここで負ければ、漢室は曹操に飲まれる。されど勝てば、孫権様が漢室を飲むやもしれない。儂は、後者を選んだ。それだけよ」
やはりこの策は、黄蓋にしか務まらなかった。
それは、今、この軍において最も失ってはいけない将軍がこの人であるからだ。
だからこそ曹操の骨を断てる。
こちらの最も痛いところを差し出しているのだから。
「黄蓋将軍、作戦決行の当日、決死隊を三百人与えます。偽って降伏した後、船に油をかけ、火をつけて回っていただきたい」
「任せろ。船上での戦いなら、儂らの独壇場だ」
「帰りの船はありません。死ぬまで、任務を」
「戦場に出るときは常にその気概だ。それと、甘寧を頼む。アイツは将として卓越しておる。難しい奴だが、大任を与えれば化けるぞ」
「承知しました」
「では、さらばだ」
幕舎を出て、静かに離れる。
あの名将の命と引き換えに、必ず勝利を。
自分に力が無いばかりに、あの将を殺すのだから。
「勝てば、軍功第一は黄蓋将軍だ」
周瑜は痛む胸を抑え、そう呟いた。
☆
その日は雲の流れが速い夜だった。
あれだけ兵が密集していたはずの城内が、急にガランとしてどこか物寂しい。
今、僕の目の前で茶を啜る糜芳さんもきっと、同じ心境なのだろう。
「静かですね」
「そうだな。殿も、気性の荒い将軍方も居ない。文官の多くはむしろゆったりしておられるよ」
「麋竺様は?」
「兄上は、ひたすら祈っておられる。殿の必勝を。昔は淡白な方だったのだが、殿と出会って明るくなられた」
湯呑を置き、湯気と共に溜息を吐く。
「私も、実を言えば戦場に出たかった。皆と共に、華々しく戦いたかった」
「留守というのは凡将には務まりません。才に優れ、忠義のある名将でなければ務まらぬ任です。これも劉備様からの信望の表れでしょう」
「ハハハッ、相変わらず口が上手いな。酒を飲まずとも、人を酔わせることが出来るらしい」
「いえいえ」
すると、僕ら二人だけが待機する一室に、一人の老人が入ってくる。
彼は僕が交州から連れてきていた医師の一人で、薬湯などの知識に優れた人物であった。
「御歓談の最中、失礼します。ただいま戻りました」
「ご苦労であった」
答えたのは、糜芳さん。
医師はただ頭を下げながら、どぎまぎと言葉を続ける。
「今しがた、劉琦様のご容体は落ち着かれました。このまま安静になされば、明日には食事もとれるようになるでしょう」
「それは良かった」
劉表の長男。現在の劉備軍の旗印である「劉琦」。
彼が居るからこそ劉備は「荊州奪還」の大義名分を掲げることが可能で、民の心を掴むことも出来ている。
ただ、劉琦は体が弱く、よく病に倒れていた。
史実でもあまり長くはない。そんな、少し寂しい人だった。
「先生、病状などはお分かりですか?」
「元来、体が弱いのでしょう。されど、その精神力は人の何倍もあります。その不釣り合いが故に体力を消耗しやすいのだと私は見ます。とにかく静かに、安静になさることが第一です」
「ありがとう御座います。今日は、もうお休みなさってください」
医師は頭を下げ、部屋を後にする。
再び、静かな時が流れる。
「今晩だそうだ」
「何が、で御座いましょう」
「殿の押さえている水路に、于禁の水軍一万五千が進んでおり、ここと今宵ぶつかる。于禁の軍は曹操軍でも最たる精鋭だ」
「やはり、襄陽は動きましたか。三万の内、一万五千を割いて。なるほど」
「やはり、ということは読んでいたのか? 流石だな。もしやすれば、軍師達に並ぶやもしれないな」
「からかわないで下さい」
ちょっとした意趣返しのつもりなのだろう。
糜芳は先ほどよりも少し明るく笑った。
ただ、どうも、少し引っかかる。
「しかし、少ないですね」
「何がだ?」
「于禁の軍です。襄陽の兵は三万。城の守りを考えるにしても、動くのであればあと一万くらいは多くても良かったのではないでしょうか?」
「それだけの水兵が調練できてないのではないか? 船も足りないだろう」
「それはまぁ、そうですが」
「そもそもここが動くこと自体が驚きだ。ただの後詰が、前線に出てくるなど。思い切ったことをする」
思い切ったこと。いや、しかしそれにしても中途半端だ。
動くならもっと力を注ぐべきだし、動かないなら固く守り本軍を支援するべきだ。
そのどちらでもない、まさに下策。
郭嘉はいったい何を。
僕は壁にかけてある地図をじっと眺める。
「……あ」
「どうした」
襄陽から夏口に至るまでの道筋は、何も水路だけではない。
遠回りではあるが、山岳を越え、「渭水」の流れに沿って南下する、陸路が一本通っている。
「──伝令です!!」
部屋の扉を破る様に兵が飛び込んでくる。
息も絶え絶えの様子で、彼は声を張り上げた。
「曹操軍が恐るべき速さで侵攻中! その規模、一万! 敵将は恐らく、張遼!!」
「なっ!?」
遠くから、重い馬蹄の響く音が聞こえた。
次回は、郭嘉の奇策の全容が明らかに。
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それではまた次回。




