56話 烏林の風土
「ふむ、夏口ね。良い場所に腰を据えたものだ。これも君の献策かな? 諸葛亮殿」
「左様。夏口は、襄陽と江陵の川の流れが合流する地。ここが取られてしまえば荊州はおろか、揚州まで飲み込まれます」
周瑜は煌びやかな装備に身を包み、風でその赤いマントが風に靡く。
隣に立つ諸葛亮はというと、くたびれて古ぼけた庶民の様な衣服を着ているのみ。
長江は広く、そして長い。
眺めているとその大きさに圧倒されてしまいそうだった。
「殿の説得、助かったよ。あの御方は少し気難しいからな」
「されど、賢明です。まるで老人の様な肝の据え方でした」
孫権は諸葛亮の説得を聞き、周瑜からの書状で抗戦に踏み切った。という姿を群臣に見せた。
ほとんどが降伏派に傾いている今、誰かの説得に応じたとあれば家臣は割れる。
しかし外部からの説得であれば、その恨みを諸葛亮に向けることが出来る。
本来であれば、判断力の欠ける君主と見られてしまう方法だが、群臣らはそうは見なかった。
これが、孫権。親の七光りではなく、しっかりと、自分の足で江東に立っている男の姿。
孫権が抗戦に踏み切ると、張昭は何も言わず、それに従った。予めここでも何か、裏を取っていたのであろう。
本来の器と、万全の裏工作。
狡猾と思えるほどに、老獪な政治的視野を持っていたのだ。
諸葛亮はただ、上手く使われただけ。それも分かっていた。
分かっていたからこそ、どこか少し、悔しかった。
「さて、戦だが、きっとぶつかるのは烏林であろう。どう進めるべきか、貴殿の意見が聞きたい」
「あの地は湿地であり、木々も多い。曹操軍最強とされる馬が使えません。陸で執拗に我が軍が曹操軍に迫り、時機を見て周瑜殿が船団を焼きます」
「良い策だ。火計は私も考えていた。しかし、まぁ、少し違う」
「違う、とは」
「曹操は総兵力を二十万としたが、果たして、そんな人数を乗せる船があるか? 荊州の船団のほとんどは前線の夏口に集中していたはずだ」
「では足りぬ船を造り、水兵を調練すると? しかしそれは、時間がかかりすぎる」
「その時は降参だ。だからこそ船が足りてない今に出撃させる必要がある」
「あの曹操を、軍略の天才を、引き出すと」
「その方法は貴殿に任せよう。いや、これは劉備殿にしか出来ぬ仕事だ」
「引き出せば、勝てますか?」
「勿論」
「ならば私も引き出して見せましょう。それと、貴方の独壇場だとも思わないでいただきたい。劉備軍にも、この諸葛亮が居ることをお見せしましょう」
「ほぅ、それは楽しみだ」
☆
うだる様な湿気が肌にまとわりつき、ハエや蚊の羽音が不愉快極まりない。
同行してくれている蝉が自家製の松明で煙を焚いてくれているから側には寄ってこないが、それにしても不快だ。
「こんなとこに陣営を敷けば、確かに流行り病も起きそうだ」
僕は今、徐庶さんの指示によって烏林の下見に来ていた。
護衛兵も多く、空気も非常にピリついている。
確かにもうここは、戦場だ。いつ曹操軍に出くわしてもおかしくはない。
同行してくれているのは、蝉の連れた護衛と、劉備軍の警護兵。
加えて複数人の医師達だ。
「蝉、この地に大軍が駐屯するとなればどうだ。何が敵を利することになり、どんな不便が生じる」
「どうだって言っても、うーん。俺に兵法は分からないっすけど、ここで馬を走らせるのはまず無理っす。連れてくるべきじゃない」
「まぁ、確かにな」
乾いた馬草は手に入らず、それに馬は定期的に走らないと駄目になってしまう。
踏めばぐちゃぐちゃと音が鳴る泥濘の地面では、馬も走れないだろう。
「あっちの、南岸でならたぶん大丈夫っすね。湿地じゃないですし」
「ならば、先に南岸を取っておく必要があるな。先生方は、何か気づいたことなどは」
不安げに辺りを眺める数人の医師。
戦場だからか落ち着かないのだろう。僕も同じ気持ちだ。
「そ、そうですね、気になると言えば、糞尿の処理についてです」
「あーなるほど」
長江という大きな川の流れがあるから、一度に集めた糞尿をそこに流してしまえば問題はない。
しかし、何十万という人間だ。そう完璧に管理できるわけではない。
兵の中には指定の場所で用を足さない者も出るだろう。処理を嫌がって仕事をおざなりにする兵も出るだろう。
そうなってしまうとたちまちに陣中の衛生環境が悪くなり、疫病が発生してしまいかねない。
「湿地がとても近いですので、土を掘っても水が湧きます。糞尿を容易に埋めることも出来ず、衛生面が悪くなりやすい環境です」
「大軍が布陣するにあたっては、あまりよろしくない土地だと。よく分かった」
恐らく史実の曹操も、そこで頭を悩ませたに違いない。
寡兵を、それも乾いた北方の土地で率いてきた彼にとって、この地はまさに未開の土地だという事だ。
魏と呉の国境の軍事行動では、よく疫病が発生しやすい。
後に諸葛恪が合肥へ攻めた際も大いに疫病が蔓延した。地元の揚州の民でも、病に倒れているのだ。
つまり、北方の民だからとか、風土に慣れていないとかいう理由で疫病が蔓延するわけではない。
大軍が一つの場所に留まり、衛生環境が悪くなるせいで、流行り病が発生するのだろう。
「じゃあ、すぐに戻ろうか。あまり長居できる場所でもない」
護衛兵に帰宅の旨を告げ、夏口へと急ぐ。
それにしても、長江は大きかった。日本ではこんな風景を見る事なんてできない。
広く、長く、果てがない。これが中華文明を支えてきた流れ。終わりのない流れだ。
「雷豊殿、軍師より言伝で御座います」
湿地を抜け、兵士の一人が声をかけてくる。
「はい、何でしょう」
「戻り次第、城の方へ行って頂きますよう。軍師は今、屋敷ではなく、城の方に居るとのこと故」
「承知しました」
少しずつ、戦に近づきつつある。
いつもより早い雲の動きを見て、僕はそう思った。
あ、そういえば、自分は「三国志解説」をメインとした動画チャンネルも持っているのですが、そちらの方で「交州」についての簡単な解説動画を出してみました。
もしご興味があれば、見ていただけると嬉しいです。
URLをここに貼るのはちょっと怖いので、マイページの方から飛んで下さいませ。
さて次回は、ついにあの三人目の英雄と、シキ(雷豊)が対面。
色々とツッコミどころの多い内容になってるかなぁ、なんて(笑)
面白いと思って頂けましたら、ブクマ・評価・コメントよろしくお願いします!
誤字報告も本当に助かっています!
それではまた次回。




