35話 大きな一石
とりあえず、華佗さんをこちらへ呼ぶ、という件は保留になった。
今は帰郷しているとはいえ、まだ曹操の従医であることには変わりない。
長期に有給休暇をもらっている他社の社員を勝手に引き抜いたら、そら怒られるよねっていう話ね。
袁煕への援助は他勢力が対象だからまだ、足を付かないようにすればいくらでも言い逃れは出来る。
でも、華佗の件は状況が異なる為に、一旦、親父からストップがかけられた。
曹操が完全に華佗を手放すときを狙うしかないだろう、ということだった。
でもなぁ、史実では手放すどころか、牢獄に入れて殺しちゃうんだよなぁ。
みすみすあの「神医」を殺すのは、人類にとっての大きな損失だ。
「だが、お前の言いたいこともよく分かった。医者の招致は認めよう。妖術と医学がどう違うのか、それを明晰に区分させる。優遇の話はそれが成立してから、であるが」
「分かりました。陳時さんと相談したうえで、詳細を決めていきます」
「うむ」
ただ、親父のこういう柔軟でしっかりとした思考を目の当たりにすると、この人の子で良かったなぁと常々思う。
比較する様で申し訳ないけど、シイツ叔父上だったらこうはいかないだろう。
あの人の官僚としての能力や知見の高さは恐らく親父を上回るが、僕のこういった提案は話すら聞いてくれないだろうから。
「あ、そうじゃ。シキよ。劉表への謀略の件じゃが、こっちで勝手に色々仕掛けてみたぞ」
「いつのまに……手が早いね」
「孫権から遅いだのとは言われたくないからな。それで結果じゃが、やはり、劉表は老いたな。あれではもう先も長くないじゃろ」
少し呆れたように、どこか寂しそうに、親父はそう言って笑う。
やはり、この交州の長年の仮想敵は、荊州の「劉表」であったのだろう。親父の頭の中では。
互いに見知った中で、表には出さないまでも水面下で動き続けた、長年の敵があっさりとこちらの仕掛けに食いついた。
その事実に、どこか落胆にも似た寂しさを感じているのかもしれない。
「まず蔡瑁じゃが、あれは完全に曹操と裏で通じておる。中々に顔の広い男よ。抜かりないというか、何というか」
「二人の姉は、一人が劉表に、もう一人は、荊州を代表する名士『黄承彦』に嫁いでいるとは聞いています」
「とにかく婚姻で顔を広げ、情報網は荊州に留まらん。曹操をとかく敵と見る劉備と馬が合わんのは、まぁ当然じゃな」
「それで、蔡瑁にはどのような謀略を?」
「お前の言ったとおりだ。呉巨と頼恭が荊州南部で、劉備陣営の囲い込みを始めていると見せかけた。蔡瑁は辺境だからと侮ったのだろう、真偽を確かめようとはせず、呉巨らの兵力の大半を寄越すようにと指示を出した」
「曹操に孫権、荊州は南方に力を割いている暇はない、ということですね。しかし、劉表はそれを見ているだけ、ですか?」
「だから言っただろう、老いた、と。未だに迷っているのだ。劉備に荊州を与え、曹操に抵抗するか、蔡瑁に荊州を与え、曹操に屈するか。迷っているから、蔡瑁に何も強く言えん」
昔は、温厚な仮面を被りながら、地元の豪族の首を躊躇なく跳ね、自分の兵力を増強するような狡猾で果断な策謀家であった。
しかし今は、自分の死後と、息子達がどうなるか、その不安に苛まれながら病床で横になることしかできない状態。
劉備も、蔡瑁も、抑え込む力はもうとっくになかった。
「それで、次じゃ。困ったのは呉巨と頼恭だ。ただでさえ交州はこの士家の力が強く、それに異民族も多い中、これ以上の兵力低下は勢力維持すら難しい。そこで二人に一つ、石を投げてみた。蔡瑁は裏で曹操と繋がっている、と」
「なるほど」
「二人は劉備派閥に近い考えを持っておる。これで余計に、蔡瑁の命には従えん。二人は蔡瑁の命を断り、これ以上の兵力削減を行えば勢力維持が難しいと返答した」
これで蔡瑁と呉巨、頼恭の対立は明確なものになった。
まさに今が「大きな一石」を投じる機会だろう。
そう考えていると、妖怪はその通りだと言わんばかりに、怪しく微笑んだ。
「もう、何か手は打ったのですか?」
「あぁ、何だと思う?」
「分かりません」
「……蔡瑁からの使者を、帰りの道中、密かに殺した。そして蔡瑁に、これは呉巨らの仕業と伝え、呉巨らにはこれは蔡瑁の自作自演だと、匂わせた」
なんてことをやってるんだこの人は。
これが、妖怪と言われる由縁なのか。あまりの意外な一石に言葉が出てこない。
まさかこの人は、交州に戦火を呼び込もうとしてるのか?
「そ、そのようなことをしては、戦になります。交州での、戦に」
「それを何とかするのがお前の仕事じゃろ。俺はもう、やるべき仕事は終わった、後は任せるぞ」
「え、えぇ……?」
「呉巨らの持つ兵力は、精兵なれど、乏しい。それに鬱林郡は半ば放棄しておるからな、蒼梧郡一つで対抗せねばならん。それに比べ荊州兵は数が多い。不安じゃろうなぁ」
「そこを煽って、降伏を促す、ということですね」
「まぁ、やり方は任せる。ただ、士家が後ろに付くとなれば、蔡瑁も果たして出てくるだろうか。まぁ、劉表があれじゃ。お前は好きにやれ。後の事はこっちで適当にまとめておくからの」
一歩間違えば、戦の舞台にならなかったこの交州に、死体が溢れる。
それだというのにこの親父は、へらへらと笑うばかり。
まだまだ、この人には届かないか。
僕は頭を下げて退室し、さっそく魯陰を呼んだ。
いよいよ荊州に不穏な影が。
交州が戦火に巻き込まれるか否か、という話に進んでいきます。
次回は、もう一人の英雄がちらりと姿を現します。
オマケで「最初の軍師」も、ですね(*'▽')
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それではまた次回。




