94話 士徽の夢
書簡には、見慣れた文字が綴られている。
あの震えた文字ではなく、溌溂とした、温かみを帯びた文字であった。
雷華は今、劉備の側室として迎えられたが、家宰のような日々を送っているらしい。
病で倒れている糜夫人の看病を行い、後の「劉禅」である「阿斗」の養育を行い、侍女集団に指示を飛ばす。
目も回るような忙しさで、でも、交州には必ず戻れると、劉備とも約束を交わしたのだとか。
あと何年かかるかは分からない。何十年という月日かもしれない。
ただ、また戻ってこれると。ハッキリとそう書かれている。
ならばまだ、この故郷を守り通さないといけないだろう。
それが今の僕の役目だ。
「龐統殿、どうもありがとうございました」
「いえいえ、公孫蘭様と共に複数の医師を付けてくださったのは、士徽殿の機転ですな? 主君は奥方の病が気が気でない有様で、深く感謝しておられました。主君に代わってお礼申し上げます」
「雷華は、いえ、公孫蘭様は少し気を張り過ぎる所があります。彼女がつまづかぬ様、気にかけていただけると幸いです」
「勿論で御座います。では、私はこれにて」
龐統は鼻先や耳を赤く染めて、ふらふらと去っていく。
小さな幕舎に残るのは、僕と、虞翻の二人のみ。
非公式に、二人で少し話がしたいと僕が誘ったのだ。
「……なるほどな、劉備を動かしたのはお前だったか。ここまで全て、展開は織り込み済みか」
「まさか。多くのものを失いました。かろうじて、何とか、孫権様の慈悲に縋ろうともがき続けただけです」
「ふん、だからお前は小物なのだ。小物で、阿呆で、馬鹿だ。身分不相応な願いを抱き、それを捨てない者を俺はそう呼んでいる」
酒を飲み、塩で炒った豆を口に運ぶ。
そして虞翻は言葉を続ける。
「ただ、歴史を変えてきたのはいつだって、そういう馬鹿だ。誰にも理解されない屑だ。俺はそういうヤツが、大嫌いだ」
「これはお手厳しい」
「何故、降伏しない。故郷を守り、一族を生かす。何も失わず、それは果たせたはずだ。なのにお前は愛する女を手放し、民に戦を強いて、天下を乱す」
「それを、ご相談したく、虞翻様に教えを請いたいと思っていました」
僕は頭を下げる。
少し驚いたように虞翻は目を剥いたが、すぐにしかめ面に戻った。
「聞こう」
「……私は、偽善者です。悪鬼に魂を売ってでも、交州を、いえ、心で天下を望んでいるのです。道理も、詭弁にすぎません」
「この中華の片隅の、辺境の流刑地から、天下を望んでいると」
「はい。不相応な野心です」
「だから、俺はお前を見た瞬間、気に食わなかったのだ」
吐き捨てる様に、ただ優しく諭す様に、虞翻の言葉には多分な情愛が含まれていた。
僕はずっと心の中で「天下の中心が交州であればいい」という夢を抱いていた。
文化と豊かさでもって、天下を牛耳るのだ。僕は、それが出来ると信じていた。
要するに、金融と、メディアだ。
この二つを握れば、兵がなくとも天下を動かせる。
中華は、あまりに広い。
数千年の歴史の中で国は分裂し、多くの人間が戦で息絶え、浮沈を繰り返す。
広すぎるなら、分割すればいい。魏、呉、蜀で。
そうすれば自国の管理が行き届かないという事例は少なくなる。
そして、南蛮、遼東、交州が三国の抑えとなり、その中心が交州となる。
こういった均衡を生み出せば、確かに戦は無くならないだろうが、大乱は無くなると思った。
鉱石を集め、銭を作り、知識人を集め、文化を作る。
それを商人や名士のネットワークで天下に広げ、交州が握る。
戦乱を終わらせないように。
均衡を保ち続けるように。
途方もない、壮大な野心。
その為にはこの交州を失う訳にはいかなかった。
「私は交州に天下を見ました。だから、失う訳にはいかなかった。ただ、今はそれが、誤りだったのではないかとも、思っています」
「ようやく、孫権様が貴殿に目を付けている理由が分かった。かつて曹操は劉備を友と呼んだ。それに似ている。孫権様は、貴殿に同じ夢を見ているのだろう。だからこそ憎み、心では欲している」
「孫権様が」
「此度の件も、交州が欲しかったのではない。本心は、貴殿が欲しかったのだろう。だからこそ、その野心の根城である交州を奪いたかったのだ」
同じ夢を。
天下を夢見ながら、天下は統一せずとも拮抗し、豊かさでもって争うべきだと。
恐らく孫権は、長江の流れを見て、それを願ったのだ。
「貴殿は、どうされたい」
「まだ、まだ死ぬわけにはいきません。やることは多くあります。されどその全てを軌道に乗せた後、自分はどう身を引くべきかと」
「天下を志し、身を引くことを既に考えているのか。途方もない傲慢だ。だが、その正直さは嫌いではない。まるで古の范雎の様だ」
「人は必ず死にます。私は常に、そのことを胸に置いておきたいのです。されど、どうすればいいかが、分からない」
雷華が戻ってきたとき、それが、僕の身を引くタイミングだろうと思う。
人は必ず死ぬ。しかし、歴史は常に紡がれていく。だから心配はいらない。
親父の死を目の当たりにして、僕が思ったことだった。
「ふん。その前に、此度の条約で、孫権様は貴殿の首を望んでいる。それをどうにかするのが先だ」
「しばしお待ちを」
二度、手を叩く。
すると影からぬらりと、一人の女性が姿を現した。
「魯陰、話してくれ」
「はい。まず、南蛮からの援軍二千騎ですが、それはこちらの流した誤報です。正しくは、百の兵と、二千の駿馬。駿馬は全て孫権様への献上の品です。加えて現在、遼東で公孫淵が亡くなり、袁煕が実権のほとんどを掌握。話を通していただければ、袁煕の援助を行っていた交州が、遼東を動かすことは容易になります」
「如何でしょうか、虞翻様。これで、孫権様の面目は立ちましょうか?」
あれほどしかめ面をしていた虞翻は、今度は大口を開けて笑い始める。
「十分すぎる。貴殿の首よりも価値があると喜ぶであろう。期待以上の利益が出てくるとは、揺すってみるものだな」
「ありがとう御座います」
「では、俺からも貴殿の質問に答えねばならん。来るべき日に向けて、人はどうあるべきか。どうすれば、自分に正直に向き合えるのかを」
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それではまた次回。




