第1章 少年探偵の夏
八月半ばのある日、新潟市内に位置する大鳥高等学校の校門は固く閉ざされていた。夏休み期間中とはいえ普段であれば、部活動に汗を流し、また、図書室利用目的で訪れるなど、日が昇っているうちは生徒の姿が学校敷地内から完全に途絶えてしまうということはない。だが、この日は違った。生徒はおろか、夏休み期間中でも仕事が山積しているはずの教職員も、ひとりも姿は見られない。これには理由があって……。
「学校に誰もいなくなるお盆休みを利用して、プールに忍び込んで撮影をしようだなんて、写真部部長さんも悪いこと考えるよな」
「まあ、真夏に誰もいないプールで撮影だなんて、こんな機会でもなきゃ無理だからな。高校の部活動じゃ、スタジオプールを借りる予算なんて捻出できるわけないし」
「確かにそうだ」
大鳥高校一年の安堂宗と長谷川尚紀は並んで歩道を歩いている。その足は彼らの母校に向かっていた。二人が目指す先は大鳥高校に間違いはなかったが、いつもの通学のように正門に向いてはいなかった。校門は施錠されているためだ。というのも、この日は大鳥高校が毎年お盆期間に設けている教職員全員の一斉休暇日で、それに伴い生徒たちも学校施設の利用、敷地内への立入の一切が禁じられているのだった。二人が目指すのは、校門とは反対の方角にある東側、学校敷地東に沿って南北に走るフェンスの一角だった。そこはフェンスの下一部が破損してドアのようにめくれるようになっており、これを知る一部生徒たちの中で通用口として利用されていた。フェンスを越えた学校敷地内は、すぐに生け垣となっており、屈んで入れば(出入口の大きさ上、そもそも屈ままければ通り抜けられないのだが)学校側から姿を目撃されることもないため、ここは正門や裏口など、正規の出入口を利用できないとき(物理的、心理的にも)のための「秘密の通用口」として代々の生徒たちに利用されていた。
宗と尚紀の二人も、学校敷地外方面に人目がないことを確認しつつ「秘密の通用口」の恩恵に与った、そのとき、
「こら! 何やってるんだ!」
女性のものと分かる鋭い声が浴びせられ、尚紀は「は、はいっ! すみません」と直立した。が、もう一方の宗は何食わぬ顔のまま、ゆっくりと立ち上がって、
「びびんな、尚紀」
「何がだよ、宗」
「今の声」と宗は校舎の方向に目を向けて、「あっちから聞こえたぞ」
「えっ?」
「今日は学校敷地内への立入は一切が禁じられているはずだ。それなのに、向こうから声が掛けられた、ということは」
「あ」
事情に気付いた尚紀は表情から緊張を消し、声が発せられたと思われる方向に目をやった。
「ばれたか」
数メートル先の生け垣がガサガサと動き、その向こう側に屈んでいた何者かが勢いよく立ち上がった。
「翠川さんかよ」
尚紀が名前を口にしたその女性は、無地のグレーのTシャツにベージュのホットパンツを履き、健康的に日焼けをしている、大鳥高校一年生、水泳部所属の翠川碧衣だった。と、その背後から、もう二人の人物が顔を出した。三人で生け垣の向こうに身を潜めていたらしい。
「皆本に間島さんも、もう来てたんだ」
今度は宗が新たに顔を見せた二人の名前を呼んだ。
「脅かさないでくれよ、もう」
冷や汗を拭う尚紀に向かって、
「悪かったな長谷川。翠川さんが、せっかく一番乗りをしたんだから驚かすのは特権だって、意味の分からないことを言い出すものだから」
そう声を掛けたのは長身の男子生徒だった。水泳部所属の一年、皆本航太。碧衣に負けないほど小麦色に肌が焼けている。
「俺たちは止めたんだよ。ねえ」
と皆本は、隣に立つ三人目の人物に声を掛けた。その女子生徒は、「は、はいっ!」と慌てたように返事をした。大鳥高校一年、間島郁美。彼女は他の二人のように水泳部所属ではない。碧衣、皆本とは対照的な真っ白な肌もそれを表している。背も高いほうではなく、皆本はいうに及ばず、女子高生の平均身長より少し上程度の碧衣と並んでも、頭半分は差がある。
「皆さんが一番乗り、ということは」と宗は腕時計に目を落として、「新聞部と写真部部長さんはそろって遅刻ですか。どういうことなんですかね。彼女たちのためにこうして俺たち集まったっていうのに」
生け垣の向こう「秘密の通用口」があるフェンスを見やった。
道中に宗と尚紀が話していたように、今回の集まりは大鳥高校写真部部長の主催によるものだった。いや、「主催」というよりは「依頼」のほうが正しい。
三年の写真部部長、稲垣梓は、このところ自身の卒業記念ポートレート用写真の撮影に精を出しており、「高校生の健康的な水着ショットもポートレートに加えたい」と考え、そのモデルとして自分が目を付けた生徒を指名した。その内訳が、今この場にいる水泳部の翠川碧衣、皆本航太と、間島郁美の三人だった。さらに、その情報を耳にした新聞部の唐橋知亜子が撮影の取材を申し込むこととなり、稲垣は、その取材をも自分のポートレートに取り込もうと、知亜子の申し入れを快諾したのだった。宗が写真部の稲垣梓と新聞部の唐橋知亜子がそろって遅刻したことに憤っているのは、こういった事情によるものだ。
そして、この場に、水泳部、写真部、新聞部のどの部活とも無関係で、モデルを務めるでもない安堂宗と長谷川尚紀がいる理由というのは(二人は帰宅部だ)、同じクラスの唐橋知亜子に取材と撮影の助手を頼まれたためだった。当初はその頼みを撥ね付けた二人だったが、新聞部と写真部が合同で部費からバイト代を出すという甘言に乗り、こうして足を運ぶことになった。お盆期間のため、どちらの部も助手として連れてくる部員の確保が出来なかったらしい。
「まあまあ」と碧衣は携帯電話で時間を確認して、「まだ約束の時間から五分しか経ってないんだから、いいじゃん」
現在時刻は午後一時五分だった。
「それにしても」と尚紀は額に浮かんだ汗をぬぐって、「よりによって、こんな真っ昼間の一番暑い時間を指定しなくても。もっと早朝の涼しい時刻にしてくれればよかったのに」
「はは、悪いね」と碧衣が、「全員の都合のつく時間帯が、ここしかなかったからさ」
「全員って、俺たちは予定とか何も訊かれなかったけど? なあ」
言いながら尚紀は宗を見た。宗も、こくりと頷く。
「そうなの? 知亜子からは、安堂くんと長谷川くんの二人はどうせ暇だから確認するまでもないって聞いてたけど?」
言い返せない二人は黙ったまま項垂れた。
「よっしゃ、そんじゃ、稲垣先輩と知亜子が来るまで、ウォーミングアップでもしてるか」
翠川碧衣が着ているシャツの裾に両手を掛けて引き上げると、シャツに隠されていた白く引き締まった腹部が除いた。
「ちょっ――ちょっと! みどりか――」
宗が言い終えぬうちに、碧衣はシャツを脱ぎ去った。そこには、
「下は水着でしたー」
ブルーのビキニトップス姿になった碧衣は、面白そうに笑みを浮かべた。普段着ている学校指定の水着とは布面積が全く違うため、胸から腹部にかけてに日焼けは見られず、彼女本来が持つ白い肌の色のままだった。
唖然としたままの宗、尚紀を前に、碧衣はホットパンツも脱ぎ、完全なビキニ姿となった。
「どう? この水着」碧衣はその場で一回転して、「せっかくだから先週、郁美と一緒に買ってきたんだ、ね」
碧衣は隣に立つ間島郁美にウインクした。郁美も宗や尚紀と同じように、水着姿になった碧衣を見て呆気に取られて固まったままだった。
「似合ってるよ、翠川さん」にこにこと笑みを浮かべた皆本は、「それじゃ、俺も」
と、シャツとハーフパンツを一気に脱ぎ去った。郁美は「ひゃあっ!」と一歩足を引き、宗と尚紀は「おお!」と息を呑んだ。
「俺はいつもと一緒だけどね」
競泳用水着一枚になった皆本は腰に手を当てる。
「す、凄い体だな皆本」
「かっこいいぞ」
宗と尚紀は、皆本の引き締まった体に賞賛を送った。
「水泳ってのは全身運動だからな。毎日部活で泳いでいれば、自然とこんな体になるって」
「いやいや、それにしたって、すげえよ」
宗が言うと、
「なになに? 二人とも、私よりも皆本くんの体のほうに興味があるの?」
碧衣がふくれ面で腕を組んだ。青いビキニに包まれた胸が揺れる。
「そ、そんなことは決して!」
「ないです!」
宗と尚紀はそろって翠川に向き直った。
「よろしい」碧衣は満足そうに微笑むと、「あ、もしかしたら、二人の本当の目的は郁美かな?」
モデルを務める最後のひとり、間島郁美に目をやった。
「ふえっ?」郁美は、真っ赤にしていた顔を碧衣に向けて、「わっ、私なんて、そんな……」
「郁美も水着を披露しろ! 私と一緒に買った、あの際どいやつを!」
碧衣は間島のTシャツの裾を掴むが、
「碧衣! 私、この下、水着じゃないから――!」
「あ、そうなんだ」
抵抗されて、あっさりと手を離した。乱れたシャツの裾を直しながら郁美は、
「こっ、ここで着替えるつもりだったから……」
「でも、郁美、ここで着替えるったって、今日は校舎には鍵が掛かってて入れないから、更衣室は使えないよ」
「……ええっ?」郁美は手に提げていた鞄を胸の前で抱きかかえて、「ど、どうしよう……」
「心配ないって、そこで着替えれば」と碧衣はこれから撮影場所となるプールの横を指さして、「誰からも見られないから。あそこの生け垣は他よりも高いし、プールの壁と挟まれてるから」
碧衣の言ったとおり、そこには背の高い生け垣とプールの壁との間に挟まれた狭いスペースがあった。
「ええー、で、でも……」
「生け垣が完全に目隠しになって、フェンスの外からは絶対に見られないし、着替えてる最中は私たちはプールの反対側に回って待ってるから。それならいいでしょ」
「うーん……」
「それに、まさか全裸になって着替えるわけじゃないでしょ。バスタオルを体に巻いて着替えれば、完璧。実を言うと、水泳部も更衣室まで戻るのが面倒なとき、結構あの場所使ってるんだよね」
「そうなの?」
「先生には内緒ね」碧衣は片目をつむってから、「それにしても、稲垣先輩と知亜子、遅いね……ねえ、郁美、先に着替えてくる?」
言いながら碧衣が郁美を向く。郁美が、「う、うん……」と返事をしかけたとき、
「あ、来た!」
宗が指さしたフェンスの向こうに、二人の女性が小走りで駆けてくるのが見えた。背が低く眼鏡をかけているほう――新聞部の唐橋知亜子――と、背が高く首からカメラを提げているほう――写真部部長、稲垣梓――は、そろって手を振ってから、屈み込んで「通用口」を抜けてきた。