上
あれは確か十二歳のときだ。
旦那様に養子にされる一年前。
私は落し物を拾った。
いや、正確に言うならば迷い人だった。
その日は雪が降っていて、白銀の髪に、透き通った水色の瞳の彼はまるで雪の精のようだった。
でもその人、大の大人のくせに、全然頼れない人で、しかも記憶がなかった。
置いていくには、ちょっとかわいそうだし、綺麗な人だったから、誰かにさらわれると思って拾った。
九歳の時、三年前に母が亡くなって、私は一人きり。
宿屋の一角に部屋を貸してもらい、そこの女中見習いとして働いた。
母の友人であった女将さんはいい人で、その人を置いてもいいと言ってくれた。
その人、何にも覚えてなくて私は勝手に、公明路で拾ったので、公明と呼ぶことにした。とても素直なその人は、大人なのに私の言うことを聞いて、毎日部屋でじっと帰りを待っていた。家にいてもらったのは、出かけるとあんまり綺麗だから人さらいに会うと思ったから。
女将さんからご飯をもらって部屋に戻ると、嬉しそうに笑ってくれた。
家にじっとしているのも退屈だろうなあと、休みの日は一緒に出かけようと思ったのに、ある日、公明はいなくなった。
女将さんも彼がいなくなったのを知らなかったので、きっと彼は人ではなく、雪の精だったのだろう……。
☆
「美凛?」
「陛下……」
夢を見ていたようだ。こんな時に。
私らしくない。
昨晩、陛下は南の宮にお渡りにきて、そのまま夜をお過ごしになられた。
後宮に入ってから一年。
初の務めの日に、夜伽を命じられ、十六嬪になった。
数年たっても呼ばれることもなく、女官として働き続ける女性もいるので、その時点から私は特別だった。
けれどもそれは当然のこと。
旦那様の養子になってから、私がどれほど努力をしたのか。
命じられたことをこなさなければ鞭が振るわれた。鞭を振るわれたのは一年ほどだったけれども、私は旦那様の鞭を見るたびに震えを覚えるようになり、必死に旦那様の命じることをし続けた。
妃となるための行儀、教養、歌や楽器などの芸能、夜の作法を頭と体に叩き込まれ、私は後宮に入った。
初夜から陛下のお渡りが何度もあり、とうとう八夫人になり、部屋を与えられた。
それから皇后様の下、四妃の一人ーー南の花梨が病死して、私が新しい南の妃に選ばれ、美凜と呼ばれるようになった。
後宮に入り一年で、四妃になるのは稀で、やっかみも酷かった。けれども、旦那様の鞭に比べれば、そんなもの辛くなかった。
皇后様にはまだ皇女しかおられず、私を含む四妃の誰一人として懐妊の兆しはまだない。
ほかの妃よりも、皇后様よりも先に、旦那様のために頑張らなければならないのに。
あんな昔の夢を見てしまった。
四年前の、まだ唯の女中だった時の、凛として自由だった時の。
「美凛?気分でも悪いか?」
陛下が口元に笑みを浮かべられ、その漆黒の瞳をこちらに向けていた。何事も見通すような強い瞳で、内心冷や汗をかきながらも微笑みを返す。
「いいえ、そんなことはございません」
「ならいいが。よい夢を見ておったようだな」
「ふふふ。覚えていませんわ。きっとよい夢だったのでしょう」
夢の中で別の男の人のことを考えていたなんて、知られてはならない。
私は陛下の所有物なのだから。
いつも通り精一杯艶やかな笑みを湛える。
陛下のことは正直言ってわからない。
あの瞳は何もかも見透かしているような気がするけれども、微笑みを浮かべたまま何もおっしゃらない。
結局陛下はそれ以上何も言わずに、部屋を出て行ってしまった。
「あらあ、南妃の美凛様に昨晩もお渡りがなかったのですか?」
これ見よがしと、庭から声が聞こえてきた。
四妃の一人である私には後宮の南殿が与えられている。陛下も来られる寝間を奥に、二つの部屋が左右にあって、左側がもっぱら食事をとる部屋で、日中の大半を過ごす居間が右にある。
居間にいて、お茶を飲んでいると耳障りな女官の声が耳に届いたのだ。
今の私ならば陛下に言い付けて、首にすることもできるのだけど好きじゃない。だから大概は無視をしている。けれども行動に移す輩はそれなりの罰を受けてもらう。それを知っているので、あの女官はいつも嫌味を言うだけなのだ。
あの女官、そう名前は蘭。後宮に入った時期が同じで、所謂同期にあたる。今では立場が大きく異なるけど、始まりは一緒だった。
本当は全然一緒じゃない。私は生粋の貴族ではなく、平民。養子縁組によって貴族の娘になった紛い物。
けれども私は卑屈になったりしない。だって、貴族が偉いなんて私には思えないもの。後宮に入ってしていることを言えば、娼妓の真似事。
陛下の気に入られるために、己を磨き、他者を陥れる。
なんて醜い場所、そしてそんな場所に入れるのは貴族の娘のみ。
蘭は一度だけ陛下にお情けをいただき、十六嬪になったけど、その後は何もなくて女官に戻った。二年以上お情けのない十八歳以下の女官は後宮を出て実家に戻ることができる。蘭は来年どうするのだろう。私が憎くてたまらないくせに、未だに尻尾を握らせないけど。
「蘭。美凛様に聞こえてしまうわ。口を慎んで頂戴」
庭の垣根から蘭の先輩女官の声も加わる。
彼女も注意しているようでわざと私に聞こえるように言っている。
とうに十八歳は超えているので、彼女は北の妃の手足になるために実家から命じられて後宮を離れないのだろう。
蘭もその道をたどるつもりかもしれない。私を陥れ、あざ笑うため。敵対する北の妃の女官であれば私と渡り合えるとでも思っているかもしれない。
「かしこまりました。香様」
気が済んだのか、それとも北の妃に私の気持ちをそぐように言われてきただけなのか、蘭と先輩女官の声はそれから聞こえなくなった。
「美凛様。角家より文が届いております」
実家の角家、旦那様の手足、女官でもある荀がお茶を下げながら、文を差し出してきた。
彼女は角家にいた時から私の世話役であり、先生でもあった。旦那様のように鞭を使うことはなかったけれども、その指導は冷たく厳しかった。
後宮には一人できたけれども、夫人の位から専属の女官を持つことが可能になる。それは実家から呼ぶことも可能で、一人なら許可されるので、私の願いということで、荀は角家から後宮にやってきた。
母はすでになくなっているけど、年齢的には母親くらいの歳のはずだ。
「美凛様?」
渡された文をいつまでたっても開かないので、痺れをきらしたのか、荀が問う。
声を出すのも億劫なので、黙って封を切った。
陛下の御渡りがなくなって、二週間経つ。
こんなことは珍しく、荀から聞きつけて、文を寄越したのだろう。
予想通り、文の内容は御渡りのことだった。
「美凛様、お返事はどうなさいますか?」
返事はいつも荀が代筆する。
旦那様が鞭を振るう様子を思い浮かべ、震えそうになる。まさか夢のことなど話せるわけがなく、御渡りがない理由には心当たりがないと答えた。
寝言で私は、何か口走ってしまったのか?
だから陛下は気を悪くしてしまったのか。
旦那様のお怒りを思うと体の芯が冷えていき、奥歯がカチカチを音を立てそうになる。
四年前、何も知らない私は、お世話になっている女将さんにも説得されて旦那様の養子になった。
女将さんはきっと旦那様の裏の顔を知らなかったのだろう。
だから、暮らしが楽になるからと背中を押してくれた。
宿屋で私の姿を見て、娘がいらっしゃらなかった旦那様は、私を養子にいれ、後宮にいれることを思いついたらしい。
あの人、公明とは比べものにならないが、私はそれなりに容姿が整っていた。皇帝領外の民族の血が流れているらしく、髪は漆黒であったけれども、瞳は青色で彫りも他の人より深くて、肌の色も白かった。
そして旦那様から教育を受けつつ、更に容姿に磨きをかけた。
荀の返事の後も旦那様は痺れを切らして、何度も文を送ってくる。だけど、私は答えられなかった。 原因はきっと、あの夢だろう。もしかしたら彼の名前を口にしてしまったかもしれない。
そんなことが知られたら私は旦那様に折檻、もしかしたら、殺されるかもしれない。
☆
南の妃である私は異例の出世を果たした娼妓と、他の妃から見下されている。北、東、西の妃たちは名門の貴族の生粋の娘たち。私と異なり本当の娘。
血を誇っているらしいけど、やっていることは私と同じ娼妓のようなもの。
何を誇るのだろうと、卑屈になったことは一度もない。
旦那様や荀からも謙る必要なないと指導されているため、御渡りがない中も、私はいつも通り過ごした。
内心は旦那様への恐怖でいっぱいだったけれども、悟られないように日々過ごした。
そうして三週間目。
茶会へ招待された。陛下からの誘いで、これで挽回しなければと己を叱咤し、茶会へ参加するため準備を整える。
参加者は、陛下と辺境である紫国の王。そして、皇后様と妃達だった。妃達は私にお渡りがないことを知っているため、勝ち誇ったような視線を向けるに違いない。皇后様は私と妃たちの諍いを楽しそうに見学なさる。そんな構図が予想できたけど、私はなんとしても陛下から再び寵愛をいただかなければならない。
私の武器はこの顔と体。だから精一杯化粧して、胸元を下品にならない程度に開き、着物を纏った。
お茶会の会場である桜花塔に到着し、扉が開かれる。
その瞬間、私は羞恥で死ねると思った。
誰も彼も、地味な着物を着ていて、私だけが浮いていた。
そして、陛下の隣にいたのは、なぜか公明で、私を見て凍りついたかのように驚愕していた。
なぜ、彼が?
妃達の抑えた笑い声が、私の耳に届く。
小さな笑い声なのに、とても大きく聞こえ、逃げ出したくなった。
けれども、脳裏に浮かぶのは旦那様の恐ろしい顔。
息を吸うと、いつもの笑みを浮かべる。
「遅れてしまいまして申し訳ございません」
陛下は私の格好に気分を害した様子もなかったが、私の席を彼の隣に指定した。妃達の視線が集中し、眩暈を覚えたが、堪えた。
陛下は彼を紫国の王と呼び、彼もそれに答えた。隣に座っていたが、彼が私を見ることはなかった。
地獄のような茶会が終わり、どうにか部屋に戻る。
化粧を落とし、着物を脱ぎ、いつもの地味な茶色の着物を身に着ける。
頭に浮かぶのは、妃達の見下した視線ではなく、彼の驚いた顔だ。
なぜ、彼が?
他人の空似。
ありえない。あんなに美しい人が二人も存在するはずはない。
そんなことを悶々と考えていると、宦官が部屋に訪れる。用件は陛下のお渡しの件で、胸をなでおろした。
これで旦那様に怒られないですむ。
私は、旦那様に養子にしていただいた。人は羨むけど、美味しい食事、美しい着物、最高の教育などいらなかった。
結局していることは、街の娼妓と変わらない。
「陛下が来られます」
宦官が前触れにやってきて、その後に陛下がいらっしゃる。
いつものことなのに、しかも望んだことなのに公明の顔がちらつき、落ち着かなかった。
足音がして、扉が開かれる。
懸命に気持ちを落ち着かせ、顔を上げた。
「こ、」
現れたのは、陛下ではなかった。
扉は固く閉められ、彼は言葉を失った私を寝台に縫い付けるように体を押し倒した。
咄嗟のことでわけがわからなかった。
「黙って。わかるね?」
人差し指を唇に当てられ、冷たい感触が伝わる。
その水色の瞳は灯籠の光で黄色にも見えた。
状況はわからなかったけど、ひとまず頷く。
「君は凛だろう?」
すると彼は私から手を離し、寝台に腰を下ろし聞いてきた。
白銀の長い髪に、透明な水色の瞳。睫が長くて女性みたいだった。
「は、い」
彼はやっぱり、公明だ。
なぜ、彼が紫国の王なのかわからない。だけど、凛と呼ぶのは、昔の私を知っている証拠。だから、公明に違いない。
「これは君が望んだことなの?」
唐突に聞かれ、意味がわからなかった。彼は何を知りたいのだろう。
「ごめん。もし、君が、後宮から出たいなら力を貸す。だけど、君がこのままいたいなら」
「いたくない」
反射的に私の口はそう答えていた。
驚いて口をふさぐ。
なんてことを。旦那様に殺されてしまうかもしれない。
「私は君をずっと探していたんだ。そして、角家を突き止めた。彼のことは心配いらないよ。皇帝陛下にも話してある。君は後宮から出たい?」
「はい」
出て何をするかはわからない。
でももう、娼妓のような真似はしたくない。
「わかった。私から皇帝陛下に伝える。安心して」
「公明。あなたは公明ですか?」
「そうだよ。君があの時助けた公明だ。君が拾ってくれなければ、記憶がない私はきっと、誰かに殺されていたかもしれないからね」
「殺される?」
「そう。私は、あの時はただの王子の一人にすぎなかった。遊学途中で、襲われて記憶を失ったんだ。あの当時、紫国は王位継承でもめていてね。私は関わりたくないから、国を出ていたのに。結局、皆が殺し合い、私だけが残ってしまった」
彼は悲しそうに笑う。
「まあ、私のことはどうでもいい。君をもっと早く見つければよかった。角家でも後宮でも大変な思いをしたようだね」
「そ、そんなことは。旦那様にはとても十分なものを与えられて、」
「でも、それは望んだことじゃないだろう?」
そう、私はそんなこと望まなかった。
街の娘として、女中のままでよかったから。
「君を解放してあげる。私を助けてくれたお礼だ」
彼は優しく私の頬に触れた。なぜか涙が出てきて、彼が拭ってくれた。
「遅れてごめん。もっと早ければ、」
妃だった女性が平民になることは少なくはない。けれども、どれも罪を犯して、身分を奪われる場合だ。私は後宮を出ることはできるけど、恐らく、いい暮らしはできないだろう。
だけど、旦那様の影におびえて、娼妓の真似をするよりはましかもしれない。
「凛。私は君をただ後宮から出すことには反対している。君が苦労するのがわかっているから。だから、私が貰い受ける形でいいか?」
「貰い受ける?」
「大丈夫。形だけだ。でも、紫国に来てもらうことになる。いいかい?」
「紫国?」
「辺境の土地だけど、いいところだ。命の恩人の君に不自由はさせない」
夢うつつの気持ちで、私はただ頷く。すると彼は嬉しそうに笑って、部屋を出て行った。
残された私は、夢を見ているような不思議な気持ちだった。