8話 初めての酒場ですわ
モモにはブレッドスター男爵の全てが詰まっている。それは、前世日本のしがない会社員だったという男爵の、突飛な記憶による経験まで、一切合切の全てがだ。
「モモ。アンと王子は、確かに恋人同士だったんだろう」
出発の前夜。
深く椅子に腰かけ、ろうそくの火を見つめながら男爵は言っていた。
「アンはモモが来てくれてからは――きちんと力を制御して、普通の令嬢として振る舞っていたはずだ。何者かが裏で手を引いた、そして追い打ちをかけるように王子にいらんことを言ったに違いない。そうじゃなきゃ婚約破棄なんて非常識な真似ができるはずがない。ましてや一国の王子が」
「しかし、相手は敵国の暗殺者だったそうですよ」
「敵国のスパイぐらい、いくらでもいるだろう。このご時世」
男爵は、両手をテーブルの上に組んだ。
「アンと王子が婚約破棄してうれしい女なんて腐るほどいるはずだ。その中に怪しいやつがいるかもしれない。国を離れる前に調査せよ」
「承知しました」
「アンは、どっかで適当に飯でも食わしとけば、その間に終わるだろう」
自分の娘にひどい言いようだ。
プランを頭の中で組むモモに、男爵は笑いかける。
「モモ、僕はね」
変態魔法研究家は、自分のもう一人の娘に向けて、
かっこつけて言った。
「女の子は多少太ってる方が可愛いと思うんだよ」
☆ ☆ ☆
「――絶対多少じゃない」
「なにか言った? モモ」
「いえ、なんでも」
酒場に入ったアンは、席に座るや否や「ドラゴン肉!」と満面の笑みで注文していた。華奢な令嬢時代はチキンに野菜、スイーツしか食べなかったくせに、あれ以来ジャンクでカロリーなごはんに目覚めてしまったらしい。
大いに責任を感じているモモは、心が痛い。
「これ、お嬢様ワンチャン呪いもかけられてますよね……一晩で100㎏はおかしい」
「さっきから何をブツブツ言っているのよ」
ざわめく男どもの目を一切気にせず、汁の滴る肉にかぶりつくアン。じゅるり、甘い脂が舌の上にあふれる感覚。アンは幸せだ!
「こんなに美味しいなら、わたくしもうおでぶでいいわ」
「諦めないでくださいお嬢さま。私が悪かったですから。まさか全部食べるなんて」
「いいのよ、感謝してるんだから」
「まさかお嬢さまが大食らいの才能を持ってるなんて思わなかったんです」
本気で自責しているモモに「いいのよいいのよ」とあっけらかんなアン。早くも食べ終わり、ぺろりと骨を舐めたアンに大柄な男が話しかけた。
「おお、お嬢ちゃん、さーっきから良い食べっぷりだな! おら、飲みなぁ!」
男がダンッ! と乱暴にテーブルに置いたのは、白い泡があふれ出そうな琥珀色の飲み物。アンは「まあ!」と目を輝かせた。
「これ、学園時代は禁止されてたエールじゃないの!」
「お嬢ちゃん貴族なのかい!?」
「もうわたくし、ほとんど追放されたような身でよ」
まんまるな頬を上げてアンはほほ笑む。
「エール、いただくわ!」
「やったぜ! おいお前ら、このお嬢ちゃんも混ぜて今日は宴だ!」
男が店に向かって叫ぶと、常連客達も盛り上がって「うぉーい!」と手を掲げる。
「お嬢ちゃん乾杯!」
「乾杯ですわ!」
ジョッキを掲げて、カチンと合わせる。そのままグイッとアンは喉にエールを流し込んだ。
ぐび、ぐび……ぷはぁ!
「まあ、なんて美味しいのっ!」
チープながらしっかりと薫る麦に、潤す爽快なのどごし、きめ細やかな泡、
どれも初めてで、アンは嬉しくて。
「いい飲みっぷりじゃないか!」
アンにハイタッチを求めてきた、酔っぱらいの男に、アンは軽率に手を合わせた。
その、ぷっくりとまるでパンみたいになっちゃった手を。
合わせると、
ズバァンッ! と音がした。
「――――えっ」
「あちゃー」
店が静まり返る。そして、視線が一点に集まった。
ハイタッチの勢いでアンに吹っ飛ばされた、酔っぱらいの男へ。
吹っ飛ばされて、壁にめりこんで「……ぐえっ」と瀕死の男へ。
「あっ、またわたくし……ちからが」
冷や汗をたらし、アンは苦笑いした。