老人と人魚
老人は崖の上を歩いていた。
空も海も寒々しい色をして、冷たい風が吹いている。辺りに人の気配はなく、怨みがましい風の音だけがしている。老人が海を見下ろせば、崖にぶつかり飛沫を上げては消えてゆく波が見えた。
ふと、老人は目を細めた。
波間に突き出した岩に何かが引っかかっている。よくよく目を凝らしてみれば、それは、人のかたちをしているようにも見えた。白い、風に翻る何かに包まれた。老人は崖下へと続く道を慎重に下りていった。
崖伝いに岸を渡り、岩が見えるところまで行く。すると大きな波が岩たちへとやってきて、白い何かは、岸へと打ち上げられてきた。
それはひとりの人魚だった。まだあどけなさの残る、若い、華奢な身体をした人魚の少年だ。一見しただけでは少女と見間違えてしまうだろう。白々とした髪を背丈よりも伸ばし、青白い肌に銀色の鱗をした、美しい人魚だった。老人は人魚を抱き上げ自宅まで連れて行った。
老人の家は崖の上にある。湯船にぬるま湯を張り、人魚を横たえると身体の汚れを拭ってやる。傷口からは青い血が滲み鱗はところどころ剥がれ落ちていた。爪は折れ、ひれはところどころ裂けて、哀れで痛々しかった。
やがて老人が湯を張り替え、人魚の手当てをしてやっていたときのことである。
「…………!」
目を覚ました人魚は怯えたよう老人を見つめた。うっすらと青みがかった銀色の瞳はちょうど今日の寒空のようで、ぼろぼろになったひれがビクンと跳ねる。しかし包帯と軟膏を持った皺だらけの手を目にし、瞳に異なる色が差す。
「大丈夫、わたしはあなたを傷つけはしない。あなたを、助けたい」
人魚はひとの言葉が分かるという。老人が身振り手振りを交えながらゆっくりと話すと、人魚の少年からは段々と怯えが薄らいでいった。代わりに顔を出してきたのはミルクで出来た水晶のような愛らしさだった。
やがて、老人は手当てを終えた人魚にあたたかな紅茶を与えながら言った。
「元気になるまでここにいるといい。元気になったら、海まで送っていってあげる」
人魚はマグカップに口をつけ、不思議そうな顔をする。
「それは紅茶というんだ。陸に生える植物の葉っぱで作られた飲み物だよ」
ずず、と小さな音を立てて紅茶をすすった後、人魚は老人をじっと見つめた。そして何かを口にしようとする。だが、小ぶりな唇は震えるだけで声を紡げはしない。
「大丈夫、無理はしないでいい」
老人は人魚の頭を撫でた。
浴室を出ようとした老人だったが、人魚はそれを嫌がった。少しだけだよ、としっかりと濡らしたタオルで人魚の腰下を包んでやり、自室に運ぶ。大きめのたらいにぬるま湯を張り、そこに人魚を入れて、老人も隣の籐椅子に腰掛けた。
「あなたは、海から来たのかい」
優しげに問うと人魚が頷く。
「怖い思いをしたんだろう。帰る場所はあるのかい」
人魚は首を横に振り、寂しそうに、うつむいた。握りしめた手の中ではあたたかな紅茶が揺れている。老人は、皺だらけのまなじりを細めると、椅子から立ち上がった。
人魚の傍らにしゃがみ込み、頭を、撫でる。潤んだ目を向けた人魚の唇がまた、震えると、老人の唇の端に皺が寄った。無理はしないでいい、そう、口にするように。人魚は目を大きく見開いて老人を見つめる。
そのときだった。潤んだ人魚の目からぽろり、と、何かが紅茶に滴った。
おや、と老人が覗いてみれば、茶液の中に不思議なかたちをした宝石のようなものがある。真珠とも、石ともつかないそれは、紅褐色の中で淡いミルク色を帯びていた。今度は老人が目を見開く番である。
「これは……」
いくらか色を変えた声に、人魚の耳ひれがヒク、と動いた。
老人は立ち上がり、棚の奥に大事そうにしまってあった木箱を手に取った。人の名前らしき文字と日付が刻まれたそれを、人魚の目の前でそっと開く。
そこには、縁がボロボロになった写真と。
ペンダントに加工された、今しがた人魚が落とした涙とそっくりな宝石が、わずかな光を帯びていた。
「これは、わたしの、息子だよ」
写真を手に取った老人が、優しく語りかける。
「いい男だろう。昔は船乗りをしていてね、人魚や鳥乙女の伝説をとても愛していた。自分で詩を書いたりもしていたんだよ」
人魚は写真の中の男を、食い入るように見つめていた。日焼けした笑顔が眩しい海の美丈夫、彼の胸には目の前のものと同じペンダントが光っている。
「いつだったか、息子が海で不思議な宝石を……これを拾ってきてね。ペンダントにしてたいそう大事に身に着けていた。だが戦争が始まって、アクセサリーなど身に着けてはいられなくなって……『必ずこの海に帰ってくるから』と、これをわたしに預けたんだ」
老人は皺だらけの手で、節くれ立った指で、人魚にペンダントを手渡した。人魚は紅茶のマグカップを置いてそれを受け取る。細く白々とした指で、宝石に触れ、爪が折れた指先が次第に震えだす。
「『この海』の意味を、わたしは深く考えなかった。また船乗りに戻る……そのくらいに考えていたんだ。だが、息子はもしや……あなたに会いに戻る、そう心に誓っていたのかもしれない」
突然、人魚は老人に抱きついた。すっかり薄くなった胸に顔を埋め涙をこぼす。淡く光る宝石たちがぽろぽろと床に散らばって、老人は、ミルク色が煌めく中で人魚の青白い背を、白く長い髪で覆われた背をさすってやる。
「息子はね……ついに戦地から戻らなかった。報せを聞いたときは悲しかったさ。怒りもした、どうしてあの優しい息子がと。彼が書いた詩を読みながら泣いたよ。海辺で出会った可愛らしい人魚と、再会の約束をした青年の物語を……」
いつかあなたが成長したとき、また、会いにおいで。歌うよう口にした老人の声には涙の色が混ざっていた。人魚を抱きしめ、語りかけるよう己に言い聞かせるよう言葉を紡ぐのだ。
人魚はついに、声なき声を上げて泣いた。
涙の、声の代わりに宝石たちがあふれる。散りばめられたそれらは雪のよう、白く淡い光を帯びて、床を埋め尽くしてゆく。
「あなたは人魚の掟を破って、大事なものを失ってまで会いにきてくれたのだね……。息子も天国で喜んでいることだろう。わたしは、あなたに、会えて嬉しいよ……」
窓の外では空も海も寒々しい色をして、冷たい風が吹いている。怨みがましい風の音は、なおも荒れ狂っていた。崖にぶつかり飛沫を上げては消えてゆく波の音が、遠くに聞こえている。
マグカップの中の紅茶は、すっかりぬるくなってしまっていた。
老人は、傷だらけの人魚の少年をただ、抱きしめていたのだった。
しばらくして人魚は眠りについた。
たらいの中で丸くなり、自らの髪にくるまれた姿は、雪を纏うようである。老人は籐椅子に腰掛けながら、人魚をじっと、見つめている。
「『いつかまたお会いできたら 二人で一緒になりましょう』……」
息子が記した物語は空想か、それとも。
お前はこの子を愛していたのかい、と、老人は写真の中の我が子に話しかけた。