第6章
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馬が足を止め、二人は降り立った。
ウスズミを駆っていたのはベルナールだ。初めて来る場所だったが、ベルナールは何の迷いもなくここまでまっしぐらに走らせていた。
目の前に、大きな真新しい城壁がそびえている。円筒の側防塔が設置された、最新の様式だ。先に降りたクロウが、見上げながら言った。
「これって、かなりでっかい城だよな。こんなの地図には載ってなかったけど」
クロウの言葉に、ベルナールが頷く。
「そうだ。ここは第五の聖域だからな」
「四つじゃなかったの?」
「シェーンブルクの聖域は、聖十字架ではなかったってことだ。あの地図自体が、騙しなんだよ。
表向きは、シュテルンブルン男爵の新たな居城ということなんだろう。だが、作らせてるのは、男爵じゃない」
とはいえ、そぐわなさもあった。城塞という建造物が本来持つべき警戒感が、まるでないのだ。跳ね橋は降りたままだ。矢を射掛けるための狭間もあまりない。そして、そもそも人の気配がない。
「なんだか、ようこそお越しくださいって言ってるみたいだ、城のくせに」
「まあ、実際そういうことなんだろうな。
せっかくのお招きだ、このまま行こう」
城門を抜けた先には、石積みの壁がある。外の壁と調和しているものの、それが一個の大きな建物であることは、みてとれた。
門もまた、開かれていた。頭上には、ラテン文字で何かが刻み込まれている。一読したベルナールは、苦い顔になった。
「あ、またオレにわかんない例の言葉だな?」
「いや、こいつはラテン語じゃない。イタリアでふつうに使われてる俗語だ。まあ、おまえにわからんことに違いはないが」
「で、なんて書いてあるんだよ」
「『この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ』」
「なんだ、そりゃ?」
「祝福じゃないだろうが、ここまで来て、これ見て引き返すバカもいないだろうな。さあ、行くぞ」
ベルナールは、先へと進んでいった。
「じゃあ、おまえはここまでだ。待っててくれよ」
クロウは、ウスズミの首を撫でると、ベルナールの後を追った。たちまちトキコが現れ、不安げに言う。
「これ、クロウ。やはり入っていくのか?
マロはどうも嫌な予感がするぞ」
「オレもそう思うけどさ、時間がないんだよ。
トリーが連れてかれてから、もうだいぶ経ってる。ベルナールが言ってた古代魔女の復活ってやつ、もう始まっちゃってるかもしれない。
あの慎重なベルナールのおっさんが、偵察も仕込みも何にもなしで入っていくんだ。それだけ事態は切迫してるってことだよ」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
クロウは、しばし呆然とした。城の中は、想像をはるかに超える場所だったのだ。
まず、広さが桁違いだった。高さは、都市の大聖堂にも匹敵するだろう。円筒状なのだが、その幅・奥行きもまた広い。そして、単なる大空間として作られている訳ではなかった。
目の前に、大きな池がある。対岸には崖があり、中央の天使像を挟む形で、左右に別れた台地状になっている。一方、自分たちのいる側は、すり鉢状の斜面だ。そして、こちらから対岸の台地の上へとは、木の橋がかけられている。さらに周囲の壁は、岩山が作られていた。その頂は七つだ。
ベルナールにとっても、想定外だったようだ。時折首を傾げながら、じっくりと観察している。
室内は薄暗い。眼が慣れてきたクロウは、あちこちの壁に何かが描かれているのを見つけた。
「なんだ?」
それは、レリーフだった。重い石を背負っている者、炎に焼かれている者、さまざまな苦役に服する者が描かれている。ただ、苦痛にあえいでいるというよりは、どれも嬉しそうな表情を浮かべているように見える。
ベルナールが言った。
「……ふーん、なるほどな。だんだんこの場所の意味がわかってきたぞ。ここは煉獄だ」
「なに、それ?」
「重罪ではない罪を犯した者が、死後送り込まれる場所だ。そこで罪を償うことで魂は浄化され、天国に行くことができるようになる。
頂きの数は、“七つの大罪”に対応しているんだろう。ということは……」
ベルナールは天井を見上げた。遮光されているものの、玻璃窓が幾層も重なっている。
「あの先に天国があるっていいたいんだな」
その時、採光窓の一部が動き、二人の正面を照らしだした。
「トリーがいる!」
橋の向こう側に見えた天使像は、よく見ると籠になっていた。その中にトリーが乗っていたのだ。後ろには、長い梯子が斜めに架けてあり、天井へと繋がっていた。トリーは籠の中に跪き、祈りを捧げている。
「おーい、トリー!」
クロウの問いかけにも答えない。
橋の中ほどまで来た時、クロウは気がついた。
「ってか、あれ縛られてるじゃんか!」
祈りを捧げるように見えたのは、両手を縛られているせいだったのだ。とはいえ、そこに跪いていることは、トリー自身の意志のように見えた。
頭上から、声が響いた。
「ようこそ、我が“神曲”の劇場へ」
デュランだった。
左手の高い場所に設けられた露台に、デュランはいた。開いた採光窓からの光で、鮮やかに照らされている。
「この城塞に気づいてくれるとは、いやさすがは名うての異端審問官だ。期待を裏切らない」
「主のお導きだ」
「はは、愚かな民衆たちに向けての言葉は、必要な時だけにしたまえ。私たち知恵を持つ者は、真実で語るべきだ。
測地をしたのだろう? 君ほどの男であれば、アラブ流の優れた測量術も知っているだろうからね」
ベルナールは片頬で笑った。
「長く旅をしてると勘が働くのでね。3つ目の場所に行った時にどうもおかしいと気づいたのだよ、十字の3点目にしてはずれているとね。
測量したのは、それからだ。五芒星の三頂点ということに気付くまでは少しかかったが、実際第四の聖域がぴったり符合した。残る最後の頂点として、ここへ直行できた」
「観察し、仮説を立ててから、実証する―そう主張したのは、君の同業者だったな、フランシスコ会修道士、ロジャー・ベーコンか。
だが、愚かな連中は真実をなかなか理解してくれない。あわれ、フラ・ロゲリウス。教皇が変わったら、異端扱いで幽閉だ」
デュランは手すりにつかまり、軽く身を乗り出した。
「私の言葉を覚えているだろう、ベルナルドゥス。あれは本心だった。新しい秩序をともに作るべく、私は君に手を差し伸べたのだ。
この封国は、愚かな連中ばかりだ。民衆だけではない。領主、司祭、騎士、どれも取るに足らん。ベルナルドゥス。私は嬉しかったのだ。久しぶりに知的な会話を楽しめる相手と対面できたのでね。
だが君は、私の手を弾き返した。実に残念だよ」
ベルナールは首をすくめた。
「では、説明していただこうか。この趣味の悪い遊園地は何なのだ?」
デュランの表情に得意げな色合いが浮かんだ。
「神の国を作ってみたのさ。天国、煉獄、そして地獄をね。
私は、堕落した教会が唱える世迷い言とは異なる本当の神の物語を、いつも考えていた。だが、本に書いたところで、愚かな連中には届かない。だから、こうやって形にしたのだ。
採光窓がさらに開き、広間の中が明るくなった。レリーフに描かれているのは、古代ギリシャの賢人たちだ。皆、絶望に打ちのめされた姿で描かれている。
「今君たちがいる場所は地獄の第一階層、辺獄だ。罪はないものの、主の恩寵に浴することもできなかった者が、いっさいの希望を奪われたまま永遠に時を過ごす場所さ。
しかし君たちはじゅうぶんに罪深い。そこにいるべきではないな」
不意に橋が揺らいだ。次の瞬間、水面に向かって落下した。叫び声を上げる間もなく、橋桁が音を立てて着水、筏のように広がった。
「そう、そこがアケローン川。筏は、冥府へと渡る渡し船だ。
だが、君たちは対岸へ向かう必要はない。なぜなら」
デュランの薄笑いが消えた。
「地獄は下にあるからだよ」
作動音がすると、今度は池の水位が下がり始めた。筏はさらに大きく揺れる。一方で、トリーを乗せた籠は、反対に上へと昇って行く。
「地獄は九層に分かれている。罪の深さに応じて、ふさわしいところまで堕ちて行くのだ。そして、穢れなき魂は昇って行く。同じく九層を持つ天上界へとね」
クロウは水面下を覗き込んだ。水は澄み切っていて、下の方まで見通すことができた。階層と階層との間には、背丈の倍ほどもの段差があるようだ。ただいちばん底はあまりに深く、暗くて見ることができない。
そのとき、トキコが叫んだ。
「い、嫌じゃ! マロは水になど近寄りとうないッ!」
「だったらおまえ、クサナギに戻ってろよ」
トキコは水場を怖がる。どうやら嫌な思い出があるらしい。全力でクロウにしがみついている。姿が見えない者にとっては、クサナギをとめる紐が首や手に絡みついているようにしか見えないだろうが。
もっともベルナールはそんな様子など見ていなかった。受けた感銘を隠そうともせず、この仕掛けに魅入っている。
「なるほど、水位が下がるごとに、ゴンドラが上がっていくわけか。
どういう仕組なのか、ぜひ確かめてみたいものだ」
「おい、確かめるのはいいけど、こんなの落ちちまったらもう上がれないぞ!」
「だいじょうぶだ。すぐには落とされん」
「なんでわかるんだよ」
「ああいう手合は、手を下す前に必ず演説をするからな。それに、ここの説明だってまだたっぷり残っている。当分はだいじょうぶさ」
ベルナールは、池の上を改めて観察した。浮かんでいるのは、7つの橋桁だ。ただ、それぞれの間隔は大きく開いていて、普通なら渡れそうにない。また、トリーのもとに行くためには、高さが問題になる。そう、あくまでも「普通なら」だ。
「クロウ、ここなら例の技、できるだろ?」
「そりゃ跳べるけど、高いとこ行くのは無理だよ。もっと水面が暴れてないと」
「水面を暴れさせるのか……」
改めて周囲を見渡すベルナールの視点は、岩山の一角で止まった。戦いの経験が豊富なベルナールは、ここにある防御の備えも、既に見破っていたのだ。
ベルナールは、高いところにいるデュランを見た。
「となれば、あいつを逆上させるのがいちばんだな」
ベルナールは、デュランに向かって一歩進み出た。
そこからの態度は、デュランにとっても意外なものだった。高位聖職者の皮をあっさりと脱ぎ捨て、これまでとは違う、俗な口調で話し始めたのだ。
「おまえさん、坊主相手に喧嘩を売るんなら、相応の覚悟はできてるんだろうな。
そう、情報は誰かの独占物じゃない。おまえさんが前に言ってたその言葉、そっくり返してやろうか、元フィレンツェ共和国副統領、ダンテ・アリギエーリ」
一日おいての反撃は、少なからぬ動揺を与えたようだ。しばらくの沈黙をはさみ、絞りだすような声で、デュランが言った。
「それがどうした。私にとってそんな名前は、履き潰した靴にすぎん」
昂然と睨みつけるベルナール。ところが、その表情が一転した。にやけ笑いになったのだ。そして、下卑た調子で言った。
「ならば、十五歳の時の美しい思い出も、一緒に履きつぶしておくべきだったな。美しい娘と出会って一目惚れ、運命の出会いと信じ込んでありったけの情熱を傾けた、若き日の思い出だよ」
訝しげな顔つきでベルナールを見ていたデュラン。だが、何かを思い出すと、表情ががらりと険しくなった。顔色もたちまち紅潮していく。デュランは、絞りだすように言った。
「……下衆がッ!」
「教会の情報力を侮るな、アリギエーリ。主要国家の公職に就いていた人間なら、たいていのことは記録済みだ」
いったんは真顔に戻ったベルナール。しかし、すぐに前にもまして品のない笑顔になって、からかうような口調で話を続けた。
「彼女、ベアトリーチェって言うんだろ? イタリア式の通称ならビーチェか。そう呼んでたのか? おお、愛しいビーチェ、とか。
だが、残念なことに、彼女の方は、呼び返してはくれなかった。ダンテ様、お慕い申し上げておりますとか、言って欲しかったよな。いやあ、残念、残念。
でも、そいつはおまえさんに問題があったんだ。周りも見えずにひたすら夢中になって、恋文を山ほど書いたんだろ。なあ、ダンテ。彼女はちゃんと拒絶の意思表示をしてたのに、おまえさんときたら、それも全部照れてるって思い込んで、せっせと愛の詩まで書き続けては、発表してたんだ。フィレンツェ中に笑われていることも気付かないままにな。でも、俺も読ませてもらったよ。なかなかの名文じゃないか。あんな恋文が十五にして書けるなんて、たいしたものだな。おまえさん、天才だよ。
ただ残念なことに、教会の資料には、詩の方までは書いてなかったんだ。頼むよ、ここで朗読して聞かせてくれよ。世が世なら、歴史に名をとどめたかも知れない天才文学者の若き日の愛の詩を、後学のために聞いておきたいんだよ」
「黙れ、黙れ黙れ黙れーっ!」
大小様々の岩が降り注いだ。人工の水面が、たちまち激しく波立っていく。水面上の筏が、激しく揺れた。
ベルナールがクロウに言った。
「どうだ、いい波だろ?」
「……ベルナール。悪いけど、オレも下衆だって思うよ」
「これで助けられるんだから、文句言うな! つべこべ言わず、さっさとあの子を解放してこい!」
筏は大きく揺れている。クロウは慎重にその周期を見計らっている。
「よし、行くぜ!」
筏が大きく沈み、戻る時だった。
「はーッ!」
クロウの体が宙に舞った。筏の揺れに合わせて、跳んでいるのだ。
揺れを利用して限界を超えた跳躍を行う―それはクロウの一族に代々伝わる秘技、“ハッソートビ”だった。内陸部で育ったクロウは、疾走する馬を使った術を基本にしているが、本来は舟から舟へと跳び移る戦いのための技術だったという。
複数の筏を軽快に飛び渡ってきたクロウは、ついに最後の一つに飛び乗った。
「やーッ!」
掛け声とともにこれまでになく高く跳び上がったクロウ。その頂点で手を伸ばし、籠を掴んだ。ついにトリーのいる籠へと取り付いたのだ。
籠の外側にぶら下がっている状態のクロウは、くるっと体を入れ替え、籠の中に入った。そして、左腕から刀を振り出した。ロープを切るためだ。
「さあ、トリー。迎えに来たぜ」
だが、トリーの返事は以外なものだった。
「……あっちに行ってて」
「はあ!?」
「あっちに行っててよ! 来てくれなんて、あたし頼んでない」
「おい、そんな言い方……」
トリーの顔を見て、クロウは言葉を止めた。今にも泣き出しそうだったのだ。
「わからないのよ。あたし、どうしたらいいのか。
クロウの言うこともわかるよ。魔女なんて、生き物の調和を乱す、不自然な存在よね。あたし、もう魔女になんかなりたいって思わない。
でも、父様を悲しませたくもないの。父様は、あたしが魔女になることを望んでいらっしゃる」
最後は叫ぶような、悲痛な声だった。
ベルナールが、ゆっくりと言った。
「お嬢さん。君を傷つけたくなかったが、そっちのおっさんがそれ以上に傷つけちまった今となっちゃ、そうも言ってられん。
君は今、生け贄にされようとしているんだ」
トリーは顔を上げ、ベルナールを見つめた。驚愕の表情が浮かんでいる。
「娘に余計なことを話すな!」
手すりから身を乗り出すようにして叫ぶデュラン。だがベルナールは一顧だにせず、トリーだけに話し続けた。
「君自身は聞かされていないようだが、その男は、父親じゃない。
イタリアの有力な都市国家フィレンツェに生まれた彼は、幼い頃から神童と呼ばれ、街中から注目される天才だった。それが十五歳のとき、一人の少女と出会い、熱烈な恋に落ちた。結局その恋は実らず、彼は生涯の純潔を誓いつつ、再び勉学に励んだ。やがて能力を認められ、若くして市政の中枢を任されるようになった。
だが、ある日、成長した少女が嫁ぎ先で亡くなったことを知った。そこで、かつての恋を実らせるため、築き上げてきた全ての地位を捨て、残された幼い娘を引き取り、放浪の旅に出たんだ。
娘には、母親の名前がそのまま与えられた。つまり君だ。ベアトリーチェ、それが、幼い時まで使っていた、イタリア式の呼び方だ」
「じゃ、あたしって、母様の代わりだったの!? でも、生け贄って……」
「人間は、魔女にはなれない。魔女が復活するときの依代にされるだけだ。その男アリギエーリがやろうとしているのは、君の体を依代にした、古代魔女の復活だ」
トリーは明らかに動揺していた。幾つもの事実が、僅かな間に続けざまに明かされた。そのひとつひとつですら、打ちのめしうるほどに大きいのだ。そして全てを足した時に導かれる答えは、絶望へと繋がるものだった。
「ほんとうなの、お父様」
「いいかい、よく聞きなさい。確かに、今のままというわけではない。でも、それはおまえが消えてしまうということではないんだ。新しく生まれ変わるということなんだよ。
そればかりではない。生まれ変わったおまえは、もう年老いることもない。若い姿のままで、いつまでも生きていくことが……」
言葉を遮って、ベルナールが叫んだ。
「アリギエーリ、目を覚ませッ!
そこにいるのは、ドイツ育ちの知的で快活な少女、ベアトリクスだ。おまえさんがどんなに望もうが、イタリアの令嬢ベアトリーチェじゃないんだッ」
デュランが何か言おうとした。だが、向けられた刺すような視線に、目をそらすことができなかった。視線の主は、言うまでもなくトリーだった。
「ほんとうだったのね……」
トリーは膝立ちになった。そしてクロウの抜身の刀にぶつかっていった。
「おい、何するんだよ!」
思わず叫ぶクロウ。だが、次の瞬間、トリーは力強く立ち上がった。足元に、切れたロープがはらりと落ちる。
「クロウ、あたし、あなたと行くわ!」
デュランは手すりから身を乗り出して叫んだ。
「待ちなさい、ベアトリーチェ!」
「あたし、そんな名前じゃないッ!」
トリーの言葉に、デュランは露台の上で、がっくりと膝を落とした。
クロウはトリーを抱きかかえ、筏に飛び降りる。背中のクサナギを外し、鞘に巻きつけられていた紐をほどいて、ベルナールに投げた。
合流した3人は、対岸に筏を寄せ、デュランが言う“地獄の第二層”へと、上陸した。
デュランは、露台でうずくまったままだ。ベルナールは、時間を待った。長い時間が経過し、デュランがようやく立ち上がってから、おもむろに語りかけた。
「取引しようじゃないか、アリギエーリ。俺の仕事は、魔女を狩ること。はっきりいって、田舎の諸侯国がどうなろうが、知ったことじゃない。
この地はこれまでどおりおまえさんが治めればいい。あの道化師じみた男爵など、追放したって誰も文句は言わんだろう。必要なら、教皇庁のお墨付きをやってもいいぞ。異端の振る舞いでもない限り、教会は咎め立てたりはせん。
そのかわり、おまえさんが持ってる魔女の血は、俺に引き渡せ。それが条件だ。悪い話ではないはずだが」
デュランは、手すりにつかまって立ち上がった。その様子は、弱々しいものに見えた。だが、上げた顔には、まだ戦う意志が宿っていた。
「私は負けたようだ。だが、世界の仕組みを変える計画に必要不可欠なものは、依然として私の手の内にある。魔女の血だけではない」
力強く言い切ると、とたんに力を落とす。そして、吐き出すように言った。
「もう少しだった。もう少しで、私の夢は叶うはずだったんだ。
ベアトリーチェ、それも十五のときの思い出の姿のままでずっといるベアトリーチェが、私のものになるはずだった。
ベルナルドゥス。おまえは私からいちばんたいせつなものを奪った。その罪、断じて許せぬ」
ベルナールたちのいる反対側、煉獄台地の土台部分に、扉が出現した。中から現れたのは、完全武装の男たちだった。
トリーが叫んだ。
「あの人たち、イェーガーだわ!
前に街に集められて、最初の魔女退治に行った人たち。全員死んだって聞かされてたのに」
出で立ちはまちまちだ。ただ、流れ者なだけあって、どれもとにかく目立つ服装をしている。様々な色の布で飾っている者もいれば、髑髏をあしらっった防具で固めている者もいる。総じて言えばならず者の一種で、秩序の守護者の側にはとても見えない。そんな連中が、地獄第二層の狭い平地を、左右から歩いてくる。
ところが近づくに連れ、奇妙なことが明らかになった。
「あいつらあんな動きで魔女と戦ったのか?
勝てるわきゃねーだろ!」
クロウが指摘したとおり、どのイェーガーも、動作が緩慢だったのだ。また、どこか奇妙なぎこちなさもある。
訝しげにその様子を見ていたベルナールが、やにわに顔を歪めた。
「屍人使いにまで堕ちたか、ダンテ」
デュランは冷ややかに返答した。
「魔女は、鳥や獣を使い魔として使役する。ならば人にもできるのではないか、それが私の仮説だった。そして錬金術師の助けを受けながら、様々な研究を行った。今、こうして実証できたというわけさ。当初の構想とは、若干異なるがね。
彼らは、復活させた古代魔女との交渉で、私の身を守るための担保となるはずだった。ここで消耗してしまうのは確かに惜しい。だが、また作ればいいだけの話だ」
ベルナールは落ち着かない様子で、押し寄せる死体をひとつひとつ見ている。やがて、軽く安堵の息をついた。
その様子を見ていたクロウが言った。
「ベルナール、もしかして今あのおばさん探してた?」
「知ってる顔がいたら、寝覚めが悪いだろ」
「まあ、いなくてよかったじゃないか」
ベルナールは肩をすくめた。そして、元イェーガーたちに向き直し、肩越しにクロウに言った。
「ざっと三十人か。どうだ、クロウ」
「どうってことないな。こんなのすぐ終わっちまうよ」
「左側を俺がやる。おまえは右側だ。今度は間違えるなよ」
「まだ根に持ってるのかよ!」
クロウは、イェーガーに向かっていった。
完全装備の相手に対する攻撃方法は限られている。斬撃用に作られている左手の刀は、本来の使い方では効果がない。装甲板のつなぎ目、そして鎖帷子の補強していない部分を狙い、クロウは刺突した。
ところが、戦い始めてすぐに、異変に気がついた。イェーガーの行動が、全く変わらないのだ。急所であるはずの部分に突き立てても、血の一滴すら出てこない。
「こいつら、刺しても全然効かねーぞ!」
「だったら、得意の拳でもくれてやるか?」
「今、嫌味で言ってるだろ」
「どっちかっていうと、自虐だ。俺のメイスは、もっと効果がない」
ベルナールの方にも、イェーガーが迫ってきている。
「そして、斬ろうにも斬れる場所がない。完全武装だからな。だが、今この場だからこそとれる方法もある」
ベルナールは体を捻り、右側に隙を作った。すかさずイェーガーが踏み込んでくる。だが罠だった。ベルナールはそのまま体をコマのように旋回させ、メイスの一撃を腰のあたりに叩き込んだのだ。打撃を受け、イェーガーは体勢を崩した。
激しい水音がした。全身を装甲に包んだイェーガーたちは、もがく間もなく沈んでいった。
「なるほどね、こいつはいいや」
クロウもベルナールにならい、全身の力を込めて、蹴りを入れる。通路の両側で、大きな水音が次々と上がった。ほどなく最後の一体が、水に消えた。
「ったく、意外と手こずらせるぜ」
その時、トキコが叫んだ。
「クロウ、たいへんじゃ!」
「どうした、トキコ」
「あの亡者ども、水の底を歩いておる!」
「なんだって!?」
それは異様な光景だった。人間なら溺れてもがくはずなのに、イェーガーたちは地上にいるときと同じように、水底を歩いているのだ。階層の間の大きな段差も、手がかりをみつけてはそのままよじ登ってくる。
やがて、最初の一体が水面から現れ、上陸した。
デュランの声が頭上から響いた。
「ようやく気づいたようだね。そう、死者はもう死なないんだよ。たとえ水に落ちたとしてもね」
焦燥は、ベルナールの方も同じだった。苦り切った顔で、水中のイェーガーたちを睨みつけている。
「ベルナール、焼くってのは?」
だが、苦々しい顔で、首を振った。
「一人か二人で燃料切れだ。口から火吹けるわけじゃないんだぞ」
上から、デュランの声が響いた。
「ベルナルドゥス。悪いが、君の法術とやらは、既に見切っている。もっともらしく見せかけているが、全て種も仕掛けもある手品にすぎん。いいかな、知識は教会だけの独占物ではないのだよ。東方錬金術の知識なら、私だって持っている」
おもむろに、ベルナールがメイスを投げ出した。
「だったら、“本物”で勝負するさ……今度は長くなるが、クロウ、また頼むぞ」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ベルナールのとった行動は、ある意味最も彼らしくないことだった。僧侶としての儀式だったからだ。
ふところから取り出したのは、礼拝のための道具だったのだ。香油を振り撒き、ランタンを取り出した。
その姿をみて、デュランが嘲笑する。
「ミサでも始めるつもりか。それとも、死を前にして、ようやく自分が聖職者であることを思い出したのかね」
だがベルナールは答えない。ランタンの鎖を伸ばし、ゆっくりと左右に降り始める。何もしていないのに、灯りが点った。ゆらぎのない、強い灯だ。
詠唱が始まった。
「et vidi et ecce ventus turbinis veniebat ab aquilone et nubes magna et ignis involvens et splendor in circuitu eius et de medio eius quasi species electri id est de medio ignis」(我れ見しに、視よ、烈き風、大なる雲および燃ゆる火の団塊、北より出きたる。また雲の周囲に輝光あり、その中よりして火の中より、熱たる金族のごときもの出づ)
目を閉じ、瞑想しているかのように見えながらも、口からは絶え間なく言葉が唱え続けられている。やがてランタンの振幅が大きくなり、ついには円を描くようになった。
「おっと、見とれてる場合じゃねえよな」
既にイェーガーが近づいている。クロウは左腕の剣をかまえ、切り込んでいった。
ベルナールの詠唱は、間断なく続いている。
「iunctaeque erant pinnae eorum alterius ad alterum non revertebantur cum incederent sed unumquodque ante faciem suam gradiebatur」(その翼は互いに相つらなれり。その往くときに回らずして、各々その面の向ふところに行く)
回転するランタンは、ベルナールの正面に光の輪を作っていた。全く力を加えている様子がない。にも関わらず、猛烈な速度で回転し続けている。
イェーガーたちも、黙ってみているわけではない。次々と、ベルナールに襲いかかろうとする。その都度クロウが間に入り撃退していく。詠唱の声に、イェーガーたちが落水する水音が混じった。
「本物って、長いんだよな」
荒い息をつきながら、クロウが言った。
「やべえぞ、体力もつかどうか……」
敵の数は、事実上無限だった。落としても、すぐに上がってくるのだ。そして、どこから来るのかもわからない。最初出てきた時は縦一列に愚直に並んでいたが、今は好きな場所から上陸してくる。油断すると、足元をとられるおそれすらある。
手こずるクロウの様子をみていたトリーが叫んだ。
「クロウ、あたしも戦う!」
トリーは、床に投げ出してあったベルナールのメイスを手にとった。
「え、うそ! こんなに重いの!?」
ベルナールは片手で振り回していたが、今持ってみると、両手でも持ち上げるのがやっとだったのだ。
「でも、素手っていうわけには、いかないのよねっ!」
力を込め、どうにか両手で振り上げたトリー。ただこれで戦いになるとは、どうしても思えなかった。
その時だった。足元から声がした。
「これ、トリーとやら。マロを使うがよい」
いつも見るような、恐怖におののくトキコではなかった。口をへの字に結び、真摯にトリーを見据えている。
「これからマロは“クサナギ”に戻る。棍棒のつもりで振り回せ。その短いのよりはましなはずじゃ。
そもじは力もなさそうだが、とにかく振り回してぶつけることじゃ。
ただし、決して抜いてはならんぞ!」
「ありがとう、トキコちゃん!」
幼児の姿がふっと消え、一振りの剣に変わった。トリーは恐る恐る手にとった。ずしりと重い。だが、力を入れて持ち上げた時、すっと重量が抜けた。戦うことは、クサナギ自身の意志でもあったのだ。
「構えとか、そういうのわかんない。でも、いわれたとおりにすればいいのよね。だって、剣自身の希望なんだもの」
トリーは、クサナギの鞘をしっかりと握って、高く振り上げた。そこに、イェーガーが襲いかかる。
「えいっ!」
打撃はほんの軽いものだった。だが、ぶつかった瞬間、電撃がほとばしった。イェーガーは弾き飛ばされ、もがきながら水へと落ちていった。
ベルナールの詠唱はまだ続いている。周囲は騒がしい。だがベルナールには、もう何も聞こえないようだ。
「et aspectus rotarum et opus earum quasi visio maris et una similitudo ipsarum quattuor et aspectus earum et opera quasi sit rota in medio rotae」(その輪の形と作りは黄金色の玉のごとし、その四箇の形は皆同じ、その形と作は輪の中に輪のあるがごとくなり)
ベルナールが両手を横一文字に広げると、光輪は二つになった。もうベルナールは、手を動かしていない。なのに、光輪の回転は衰えることがない。
一方、クロウは戦い続けている。縦横無尽に移動しながら、敵を倒し続けている。
トリーたちも善戦していた。もう何体もの敵を叩き落としていた。ただ、クサナギからほとばしる電撃の度合いは、次第に弱まっていった。最初の頃は一撃で弾き飛ばしたのだが、今はたじろがせる程度だ。その分、トリーも力を込めなければならない。要領は飲み込めてきたものの、体力も底をつきかけていた。
何体目かの敵を叩き落とした後、トリーはがっくりと膝をついた。
「トリー、だいじょうぶか!」
「……だめかも」
その時、詠唱の調子が変わった。
「et audiebam sonum alarum quasi sonum aquarum multarum quasi sonum sublimis Dei cum ambularent quasi sonus erat multitudinis ut sonus castrorum cumque starent dimittebantur pinnae eorum」(我れその行く時の羽音を聞くに、大水の声のごとく、全能者の声のごとし。その声音の響きは軍勢の声のごとし。その立どまる時は翼を垂る)
光輪は、四つになった。別れ出ても衰えることはなく、むしろその力を増している。より早く、より明るく。やがて目も開けられないほどに強く輝いた。薄暗い広間の全体が明るく照らしだされた。
眩しさに目を覆いながら、デュランがうめいた。
「ば、ばかな! これが、真の法術だというのか……」
不意に詠唱が止まった。ベルナールは大きく息を吸い込んだ。そして、眼を見開くのと同時に、叫んだ。
「merkava!」
ベルナールの開いた腕が、前に振り出された。同時に、四つの光輪が動き出した。
それはあらゆるものを蹂躙する、神の戦車だった。閉ざされた広間の中を、メルカバは疾走していく。亡者となったイェーガーたちは軽く吹き飛ばされ、ばらばらになって散った。そればかりではない。煉獄の台地、七つの大罪の岩山、この空間にしつらえてあったことごとくが、破壊されていった。
破壊することによって、メルカバは力を増していった。今やその対象は、建物そのものとなっていた。壁沿いを旋回しては、この建物を内側から打ち壊していたのだ。
想像を超える猛威を前に、デュランがつぶやいた。
「こんな、こんなことが……」
メルカバの軌道が、高さを増していく。デュランの姿がかき消されるように消えると、露台もまた粉砕された。
やがて、建物全体が揺れだした。ついに石積みが破壊されたのだ。
「ねえ、クロウ。あたしたち、ここにいてだいじょうぶなの?」
「神様が守ってくれるのかな」
力を使い切り倒れていたベルナールが、絞りだすように言った。
「……ばか、言ってるんじゃない。“祈るより逃げろ”だ……」
轟音が起こり、壁はついに粉砕された。支えを失った天井が、容赦なく落ちてくる。
ベルナールを背負い、逃げようとするクロウ。だが、思わず叫んだ。
「あんた、重すぎるよ!」
ベルナールは、ほとんど気を失っていた。自ら力を入れることがない大柄で頑強な体躯は、とても運びきれるようなものではなかったのだ。
「見て、クロウ!」
土埃の中、走り寄ってくる影があった。ウスズミだった。
「ウスズミ、ベルナールを頼む!」
クロウは、渾身の力でベルナールを背中にのせる。トリーも懸命に押し上げた。なんとかベルナールを乗せると、ウスズミは駆け出していく。クロウたちも後に続いた。
門を抜けると同時に『一切の希望を捨てよ』の文字が崩れ落ちた。続いて、建物全体が崩壊した。土埃が起こり、走って逃げていく全員を追いかけ、覆い尽くした。