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第5章

          5



 朝の光が、部屋の中に差し込んでいた。

「なんか、落ち着かねーな」

 クロウがつぶやいた。ベッドからはとっくに這い出しているし、左腕には義手が装着されている。ただ、今やることは何もなかった。

 ベルナールは、夜明け前に出発していた。要は、留守番ということだ。ただ、戻り次第出動することになるかもしれないから、休日と割り切ることもできない。

 トキコはいない。今はクサナギに戻ったままだ。

 敷物の上に大の字に寝るクロウ。天井を見ながら、つぶやいた。

「遊びってのを憶えた方がいいのかな、ベルナールの旦那みたいに。それとも、本でも読んでみるか?」

 激しく扉を叩く音がした。

「クロウ!」

 トリーだった。これまで見たこともないほど焦燥している。

「どうしたんだ」

「リーゼがいないの。

 きっとあの子、魔女のところに行ったのよ。

 あたしがあんなこと言っちゃったから……あたしのせいだわ」

 今にも泣き出しそうな顔だ。

「落ち着けよ。何があったのさ」

「昨日のこと、あの後リーゼに細かく話したの。

 クロウには内緒にしてたけど、あたし、こっそりあの聖堂の中に入ってたの。魔女も見たわ。ちょうどクロウたちを追い詰めてたところだった。女イェーガーに殺されちゃうところまで、高いところから見てた。

 あたし、魔女に会って、どうやったらなれるのかを教えてもらおうと思ってたの。だけど、お話なんてすることできなかった。これで魔女も最後の一人になっちゃったって気づいたら、動転しちゃって。そのことをリーゼに愚痴っちゃったの……」

「それで、あのオチビさん、オレたちに駆除される前に魔女に会いに行ったってことか?」

 トリーはうなずいた。周囲をせわしなく見回すと、言った。

「修道士様はいないの?」

「ベルナールの旦那ならでかけてる。ウスズミも一緒だ。だけど探してる暇はなさそうだな」

 クロウは背中にクサナギを背負った。

「場所はわかるよな」

 トリーはうなずき、羊皮紙を差し出した。

 外に出ると、前にも乗った馬車がいた。引いているのは、栗毛の馬だ。

「トリー、こいつ名前なんて言うんだ?」

「え、ハンスのこと?」

 クロウは周囲をぐるりと回り、全身を観察した。やがて馬の前に経つと、首を撫でながら話しかけた。

「ハンス。おまえ、けっこう脚ありそうだな。どうだ、オレたち乗せて走ってみないか?」

 馬は少し首を下げ、大きく口を動かせてみせた。


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 クロウとトリーは、力強く駆ける馬の上にいた。馬の名はハンス。ついさっきまで、トリーの馬車を引いていた馬だ。

「はあ、はあ、この子、こんなに、走るなんて、はあ、全然、知らなかった」

 操っているのはクロウだ。背中にクサナギは背負っているものの、甲冑は付けていない。すこしでも重さを減らすためだった。トリーは、クロウの前に抱きかかえられるようにして乗っている。

「トリー、喋んなくていい、舌噛むぞ!」

「はあ、喋るぐらい、してないと、はあ、怖くて、泣いちゃいそう!」

 今にも振り落とされそうな気がしていたのだ。

 ハンスは、ふだん馬車を引いているとは思えない、見事な走りを見せていた。装具を外しただけだから、鞍や(あぶみ)はない。並の乗り手なら、単独でも振り落とされてしまいそうだ。トリーを抱きかかえながらでも疾駆させていることが、クロウの卓越した騎乗技術を物語っていた。

 走るに連れ、周りの風景が変わっていった。草原に林が混じるようになり、森になった。そして、次第に濃く黒い森へと変わっていった。

 やがて、明らかに他とは違う領域に到達した。馬の足も、そこで止まった。

「よくがんばった、偉いぞ」

 たてがみをなでて馬をねぎらうと、クロウは馬から降りた。その広げた腕へ飛び降りるようにして、トリーも降り立った。トリーは、息を整えながら言った。

「ねえ、この子馬車馬なのに、なんでこんなに走れるの?」

「馬ってのは、走るのが好きなんだよ。だけど、仕事にも忠実だ。だから、好きだけど、してなかった。

 それと、力いっぱい走ったのは、君のことが好きだからだ。こんな森の奥まで来てくれたのもな。馬は怖がりだ。怖いのをがまんして、君のために走ったんだ。

 だけど、ここから先は無理だ。それに、こんな森の中に一頭だけで置いとくわけにもいかない。君から言ってやれ、もう帰ってもいいってさ」

「だって、あなたの馬は……」

「ウスズミは別格だよ。あいつは馬だけど、一人前の勇者だからな」

「そっか……この子、あたしのためにがんばってくれたんだね」

 トリーは、馬に歩み寄った。やさしく顔をなでながら、言った。

「ありがとう、ハンス。気をつけて帰ってね」

 馬もトリーに顔をすり寄せてくる。やがて来た道を歩き始めた。名残惜しそうにトリーたちの方を見ていたが、トリーが手を振ると、そのまま進んでいった。

 足音が、やがて駆け足のそれになり、次第に小さくなって、聞こえなくなった。静かになった森の中で、クロウが言った。

「じゃあ、先に進むけど、その前に聞いてくれ。

 オレに手伝えるのは、リーゼを探すことだけだ。魔女と話するつもりなら、手は貸せない。いいな」

「うん、わかった。

 でも、一つ教えて。なんでそんなに魔女を嫌うの?」

 しばらくの沈黙が流れた。トリーが、質問したことを少し後悔し始めた時、クロウが答え始めた。

「故郷の話、少しだけしたろ。ワジンの郷。

 あれ、もうないんだ。魔女に全滅させられた。親代わりに育ててくれた人も幼なじみも、もう誰も残っていない。

 だから、やつらは敵だ。オレは戦えるから、敵と戦っている」

 さりげない口調の中に、重い事実があった。クロウが続けた。

「でもさ、ただの復讐じゃないぞ。そういう気持ちなら、もう決着はついてる。オレがこうしてイェーガーを続けてるのは、やつら魔女たちが許せないからだ。とりわけ、使い魔ってやり方がさ。

 動物にだって、幸せってもんがあるんだぞ。本来は自然の調和の中で生きてたんだ。それを魔女たちは、自分の都合だけで一方的に魔物に変化させちまう。そして、道具のようにこき使う。ひどい話じゃないか」

 トリーは、目が覚めた思いがした。自然は調和している……これまでそういう発想をする人と会ったことがなかったからだ。だが、なぜ自分がそう思えなかったのかが不思議なほど、腑に落ちた。

「司祭様は、こうお説教するの。“鳥も獣も草木も、神様が人間のために作ってくださったものなのです、神様に感謝しましょう”って。なにか釈然としなかったんだけど、今のクロウの話聞いて、自分の感じてた違和感の理由が、少しわかった気がする」

 クロウはうなずいた。

「君は、馬にだって素直に感謝の気持ちが伝えられた。そう思って当然さ」


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 森の中で、クロウはいつにない居心地の悪さを感じた。濃厚な魔女の気配がある。なのに、どの方向にいるのかがわからないのだ。すべての方向にいるようでもあり、どこにもいないようですらある。

 落ち着かない気持ちを押し殺しながら、進んでいった時だった。

「小僧の方だけか」

 不意のできごとだった。何の気配も感じさせないまま、突然後ろから声がしたのだ。

 反射的に振り返るクロウ。魔女がいた。さっきと同じ(しわが)れた声が、言葉を続ける。

「なんとまあ、張り合いがないことだ。坊主とまとめて片付けられるものと思っていたが」

 だが、瞬間的に上がったクロウの警戒水準は、これまた急速に下がっていった。ある意味“失望”と同じかもしれない。既にトリーをかばいながら身構えていたが、その行為すら滑稽に思えるほどだった。

「また古いのが出てきたな……」

 そこにいたのは、昔からの伝承どおりの魔女だった。腰の曲がった醜悪な老婆だ。頭髪は薄くて縮れた白髪で、ところどころ緑がかっている。皮膚は土気色で、無数のシワが刻み込まれている。何より、品というものがない。顔つき、立ち居振る舞い、その全てが下卑ている。

 クロウが、後ろのトリーを振り返って言った。

「さっきはああ言ったけど、どうする?」

 トリーは無言で頭を振った。昨日一日で築き上げられた魔女像があるとすれば、今無残に打ち砕かれていることだろう。

 そんなクロウたちの態度に、魔女が声を張り上げた。

「あたしを見くびるな。他の連中とは違う」

 構えを解いたクロウに、魔女が続けた。

「あたしはずっと昔からこの森にいた。流れ着いたわけじゃない。そして住み続けた間、森自体を好きなように変えても来た。ここに入ってきた以上、おまえたちに明日は……」

「おい、化け物のばーさん」

 クロウは魔女の言葉を遮った。魔女のこめかみが、ぴくりと動く。だがクロウには遠慮する気はなかった。

「オレたちは急いでるんだ。ひとつだけ教えろ。今朝、小さな男の子はここに来たか」

 魔女の表情が歪み、にやりと笑った。

「ほう、おまえたち、あの坊やの知り合いか。残念だったねえ、あたしの使い魔たちが、美味しくいただいた後さ!」

 邪悪な笑みだった。だが、クロウたちは魔女の期待するような反応をしなかった。

「へへっ、ベルナール流の“カマかけ”って、結構役に立つもんだな。語るに落ちるって、このことだ。この嘘つきババアめ」

 魔女の顔が醜く歪んだ。

「……小僧、見かけによらず策士だね」

 だが、クロウはもう聞いていなかった。トリーを促し、来た道を引き返しはじめる。

 トリーが決まりが悪そうに、小声で言った。

「ごめんなさい、クロウ。あたしの早とちりだった」

「行方不明ってことに変わりはないんだ。馬は帰しちまったけど、探しながら歩いてきゃいいさ」

 魔女が忌々しげに叫んだ。

「小僧、待ちなッ!」

「今日のところはもうてめーに用はねえ。改めてぶっ殺しに来てやるから、覚悟しとけ」

 肩越しに言うクロウ。魔女は言い返す。

「さっきのあたしの話、何も聞いてなかったようだね。おまえたちは、もう帰れないんだよ」

「うるせ、邪魔すんじゃねえよ。今、殺すぞ!」

 左腕を振り上げながら、魔女に向かって一歩進んだ時だった。

 すぐ後ろで大きな音がした。梢がこすれ合うような音だ。振り返った時、クロウは目を疑った。樹木の壁が、視界いっぱいに拡がっていたのだ。すぐそこにいるはずのトリーの姿は、全く見えない。

「わかんねーことしやがって。

 年寄りだからって容赦はしねえぞ。思いっきりぶん殴ってやる」

「殴りたいのかい。じゃあ殴らせてやるよ。あたしに追いつけたらね」

 五六歩ほど先のところに、魔女がいる。だが、足を進めた瞬間、樹木の壁が進路をふさぐ。そして、先ほどまで塞がれていた場所が、今は開いている。

「迷路遊びなんかやる気はねえぞ」

「そうかい」

 すぐ後ろだった。振り返る間もなく、頭部に痛撃が加えられた。

「ぐはッ!」

 老人とは思えない打撃力だった。

 よろけたものの、なんとか踏みとどまり、体勢を立て直すクロウ。だが、振り返ってもそこには何もない。

 今度は慎重に周囲を探るクロウ。一つの方向だけが開いている。警戒しながら進んだ時だった。

 またしても、痛撃が加えられた。

「ぐふッ!」

 今度は腹だった。そして、自分を打ち据えていたものの正体が見えた。太い枝だったのだ。

「なんだ、こいつ……」

「いっひっひ、どうにもならないようだね」

 目の前にまた魔女がいる。

「おまえ、“魔女を狩る者(ヘクセンイェーガー)”なんだろ。だったら、魔女の習性だって、ちゃんと知っておくべきなのさ。魔女とくれば、使い魔。そうだろ?」

「ババア、何が言いたい!」

「まだわからないのかい。この森がそうなんだよ。そんじょそこらの魔女は、鳥や獣を使い魔にする。だがあたしは違う。この森の樹々が、あたしの使い魔なのさ」

 クロウの足が止った。

「おまえの可愛いガールフレンド(フロインディン)は、今頃怖くて寂しくて、泣いてるだろうねえ。若い娘の怯える声、なによりのごちそうさ。小僧、さっさとおまえを殺して、そっちを味わいに行くとするかねえ」

 みぞおちのあたりがずしんと重くなるのを感じた。まるで、鉛の塊を呑み込んだような感覚だった。この魔女は、これまで対決したのとは全く異質な敵だったのだ。

 クロウは、大きな声を張り上げた。

「トリー!」

 だが、反応は何も聞こえない。それどころか、まるで声が虚空に吸い込まれていくかのようだ。

「無駄だよ。この森じゃ、音は届かない。霧が出ているときに先が見えないのと同じように、音も聞こえなくしてしまうのさ」

「……調子こいてんじゃねーぞ、ババア」

 言いながら、クロウはそれが強がりにすぎないことを自覚していた。


 何度目の打撃だろうか。数えきれないほどの樹木の痛撃を、クロウは受けていた。

 反撃はできなかった。逃げようとしても、無駄だった。前進した次の瞬間、背後は樹木の壁によって詰められてしまうのだ。そしてクロウには、倒れることも許されなかった。倒れかかった先から、次の打撃がやってきてしまうのだ。

 人間をはじめとする動物は、動ける方向が決まっている。攻撃も防御も、全てその前提で行われる。だが、植物相手には、通用しなかった。樹木には、決まった向きというのは、ないのだ。

 朦朧とする意識の中で、クロウは誰とはなしに話しかけていた。

「そうだよな、師匠の言うとおりだった。相手をなめてかかっちゃいけないんだ。見かけで判断するなんてさ、考えてみりゃこのオレがそんなことして許されるはずないよな……

 ベルナール? そうか、あのおっさんがあんなに慎重なのも、そうなんだよな。しっかり偵察して、罠とか仕込みとかすっげえ熱心でさ。

 オレはダメだよ。教訓にして生かしたいけど、どうやらここまでみたいだ……」

 その時、クロウは妙な感覚を感じた。

 声だった。いや、厳密には声ではなかった。声と同じように感じられるなにかだった。

「誰なんだ?」

 問いかけへの返事はない。だが、返事がないことで、その間隔は次第にはっきりしてきた。

「師匠が……教えてくれてた?」

 ワジンの郷での修行、それはただ体術を鍛えるだけではなかった。西方世界(エウロペ)にとって、本来彼らは異邦人だった。故地から持ち込んだ風習は、もう大部分が消えている。しかし、精神的な部分では、濃厚に引き継がれていたのだ。“魔女を狩る者(ヘクセンイェーガー)”としての活動で忘れかけていたそういう面が、今クロウの中で蘇りつつあった。

 自分の奥底から浮かび上がってくる感覚に、クロウは戸惑った。だが、それが理解できるようになるまでは、どれほどの時間もかからなかった。

 クロウの様子を見て、魔女は勝ちを確信したのだろう。樹木による打撃がやんだ。

 勝ち誇った魔女は、クロウの眼前に現れた。生臭い息を吹きかけながら、嘲りを浴びせてきた。

「いっひっひ、おまえたち人間にはわからないだろうね。

 木にだって、命がある。そして、意志だってあるのさ。

 今、こいつは、おまえを殺したくて殺したくてうずうずしてるんだよ」

 クロウの目の前に太い枝が現われた。たちまち葉や小枝が落ちる。そして、鋭く尖った杭に変化した。

 一本だけではなかった。何本もの枝が現れ、みるみるうちに葉を落としていく。そして鋭く尖った杭になっていく。幹のように太いものもあれば、針と見まごうような細いものもある。

「ほら、小僧。これが見えるかい。

 さっきまでおまえを打ち据えてたのは、ただの枝だよ。でも、次はそうじゃない。これさ。

 おまえは、串刺しにされるのさ。

 心臓を一突きなんて、楽な死に方を夢見るんじゃないよ。腹をえぐってやる。両足もだ。動けなくなったところで、文字通りの串刺しだ。太い幹を口から突っ込んで尻まで貫いてやる」

 クロウは眼を閉じた。

「……オレにはわかるよ。木や草だって、命を持ってる。そんなの、当たり前だ」

「小僧、気でも狂ったか!」

 魔女が叫ぶ。だが、クロウにはどうでもいいことだった。

 視覚が閉ざされたことで、他の感覚がいっそう研ぎ澄まされてくる。その昂ぶりの中で、クロウは明らかな“意志”を感じとっていたのだ。

「この世に生けとし生きるもの、そしてそれを支えるもの―山、川、海。ひっくるめて、森羅万象って呼ぶ。そのことごとくには命がある。

 何かを収穫するってことは、命をもらうってことだ。だから尊敬し、尊重する。恵みを与えてくれた森に感謝し、大切に守りもする……オレの一族は、昔からそういう生き方をしてきた。森羅万象を愛し、一体となり、時には神として敬う、そんな生き方だ。

 だから、悲鳴だって聞こえるんだ。この森全体が、助けを求めてるってこともな。

 ババア、おまえは招かれざる支配者だ。おまえのせいで多くの仲間が殺されたって、ここの木々は言ってる。確かにこの森には、喜んでおまえの使い魔になった樹木がいる。だが、大多数の木はそうじゃない。今この森の木々はな、呪いをかけられながらも抵抗して使い魔にならなかった仲間のことを思っているんだ」

 クロウは眼を開いた。

「串刺しはおまえの方だ。でも安心しろ。俺は心臓を一突きしてやるから」

 全てが一瞬だった。クロウは大きく踏み出すと同時に、左腕を振り上げ、義手の中に仕込まれている刀を振り出した。茂みの中を、クロウの刀が一直線に貫いた。

 茂みはゆっくりとひとがたに変わる。そして、胸を貫かれた魔女が現われた。

「ば、ばかな……なんで」

「言ったろ。森の樹木が教えてくれたんだよ」

 魔女はその場でくずおれた。クロウは肩で大きく息をついた。

 しばらくすると、音がよみがえってきた。木々のざわめく音だ。クロウはそれが、森が奏でる喜びの歌のように思えた。

 ふと気付くと、その中に異質の音が混じっている。

「馬の足音……?」

 そう気付いた直後だった。耳慣れた声が、クロウの名を呼んだ。

「クロウ、そこにいたのか!」

 ウスズミに騎乗したベルナールだった。佇むクロウ、そして倒れている魔女を見ると、事態を理解したようだ。

 クロウが言った。

「……すまねえ、ベルナール。血が流れちまった」

 ベルナールは馬から降りると、クロウのもとに進み、肩をたたきながら、言った。

「仕方ない。そうしなければ、お前自身が殺されていただろう」

 ウスズミもまたクロウに近寄り、顔をすり寄せてきた。

 ベルナールが、周りを見回しながら言った。

「しかし、この森はどうなってるんだ?

 ついさっきまで、全く先の見通しが効かなかったんだが」

「魔女のせいだよ。この森に住み着いていた魔女は、森の樹木を使い魔にしていたんだ。そのせいで、森全体が禍々しくなってたのさ。音が聞こえなかったのも、そのせいだ。

 だけど、森の全部じゃない。大多数の樹木は、嫌々従わされてたんだよ。

 今、魔女が死んだ。使い魔として手先になってた樹木は、支援を失った。人間どうしなら、仕返しとか始まるんだろうな。でもここから先は、彼らの問題だ」

 ベルナールは、軽く頭を振る。

「正直、俺には理解しきれないところもある。だが、ここはおまえの話を受け入れよう。また後でじっくり聞かせてくれ。

 ところで、俺が来たとき、森が濃くなる際のところに、立派な鞍を付けた葦毛の馬が繋がれてたんだが、おまえが乗ってきたのか?」

「……葦毛? いや、オレたちの乗ってきたのは栗毛の裸馬だけど」


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「クロウ、どこなの!?」

 トリーは、繰り返し大きな声でクロウを呼んでいた。

 突如たちはだかった樹木の壁で分断されてから、何度声を出したのかわからない。

 この森は異様だった。音すらも飲み込んでいる。邪悪な森というものを、これまでトリーは想像すらしたことがなかった。今、ひしひしとそれを感じている。

 クロウの姿は全く見えない。だが、はっきりとわかっていることがある。魔女と戦っているということだ。それも、自分のせいで。

「クロウ、返事してーっ!」

 声も嗄れかけた頃だった。トリーの目の前で、樹木からいきなり剣が飛び出してきたのだ。

「クロウ!?」

 だが、そうではなかった。木を切り裂いて現われたのは、大きなつばの帽子だった。

「迎えに来たよ、ベアトリクス」

「お父様!」

 手には抜き身の長剣が握られている。ずっと森を切り開いてきたのだろうか。

「さあ、もう行こう。こんな場所にいつまでもいてはいけない」

「でも、クロウがまだ……あたしのせいで、魔女と戦ってるの」

「いいのだよ、彼らは」

 デュランはトリーの肩を抱いた。強い力が込められていた。

「戦いは、専門家に任せておけばいい。私たちには他にするべきことがある。さあ、行こう」

 デュランは再び剣を振りかざし、道を切り開き始めた。おびただしい量の木を切り刻むと、ようやく森の際へと出た。

 そこには、葦毛の馬が繋がれていた。


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 廟所は、既に開けられた後だった。しかも、どれほどの時間もたっていない。おそらく、クロウが戦っている間にそれは行われたのだろう。

「これってやっぱり家宰さんの仕業?」

 クロウの問いかけに、ベルナールがうなずいた。

「あのお嬢さん(フロイライン)も、一緒に連れて行ったはずだ。何にせよ、もうここに長居する必要はないな」

 帰り道の森を何事も無く抜ける。やがて森が草原に変わるあたりまで戻ったところで、ベルナールは立ち止まった。まだ昼にもなっていないというのに、突然焚き火をすると言い始めたのだ。

 焚き火の炎が赤々とあがったときだった。

「クロウ、左の刀を出せ」

 そういって腕ごと掴むと、燃え上がる炎の中に、刀身部分を容赦なく突っ込んだ。金属製の義手に、たちまち熱が伝わってくる。

「あちちち、ベルナール、すっげえ熱いんだけど」

「もう終りだ。騒ぐな」

「こんなことする必要、あるのかよ」

「念のためだ。理由を聞けば、もっと強い火が欲しくなるぞ」

 そう言うと、クロウの方を向き直した。

「そもそもおまえは異教徒だったな。魔女契約について、どんな話を聞いている?」

「悪魔ってのを呼び出して契約するって話だろ? 死んでから魂を譲り渡すことを条件に、魔女にしてもらうってことだよね」

 苦笑をひらめかせながら、ベルナールがうなずいた。

教会制度(カトリック)の隅っこの方には悪魔学者ってやつらがいてな、悪魔の名前や階級に支配関係とかを事細かに妄想してる連中だが、“魂と引き換えの魔女契約”ってヨタ話も、そいつらが勝手に言い出したことだ。

 ただ、教皇庁(ローマ)も積極的な否定はしなかったから、ずいぶん広まってしまい、今ではどこの司祭も同じことを言っている」

「なんで否定しなかったの?」

「真実を隠すために好都合だったからだ。

 これから話すことは、他言無用だ。この西方世界(エウロペ)の中でも、ごく僅かな人間しか知らない、いわゆる機密ってやつだからな」

 クロウがうなずく。ベルナールが、声を抑えて話し出した。

「魔女ってやつは、身体そのものは人間と同じだ。なのに、人間にはない力をあれこれと持っている。その秘密を握っているのが、血だ。やつらは血で魂を繋ぐ。血の中に、自分の魂を乗り移らせるんだ。

 むろん、怪我して流れる程度の血は関係ない。問題なのは、命そのものを奪うような血だ。例えば心臓を一突きしたとする。身体は動かなくなり、やがて腐っていくだろう。だが肝心の魂は、流れ出る血の方に移っている。大量ならそのまま意識すら残ってるし、少量の血でも、時間をかければ再生できる。

 その血を受け入れる者、つまり依代(よりしろ)となる人間の体があれば、魔女として復活することができるんだ」

 クロウの表情がこわばった。

「それで、あんた“血を流すな”ってうるさいんだ」

「そうだ。魔女の血が流された土地が穢されるってのは、呪われるとかそんな意味じゃない。その土地に、魔女の魂が潜伏することになる、そういう意味なんだ。

 だから教会は捕らえた魔女に対して必要なことをやってきた。生きたまま、炎で灼くことだ。残虐だが、しかたない」

 クロウは、さきほど焼かれたばかりの刀が収まっている、自分の腕を見た。そう聞くと、確かに今ではもっと強い炎で焼いたほうが良かったような気がしてくる。

 ふと、セバスチャンやコンスタンツァの顔が浮かんだ。

「そんな大事な話、なんで内緒にしてるんだよ。あの連中だって、知ってりゃ……」

 ベルナールはクロウの言葉を遮って続けた。

「それが情報戦ってやつなんだよ。おまえさんが思っている以上に、重用なんだ。『知っていることを知られない』のがな」

 どこか不満げながらも、納得はしたようだ。クロウが言った。

「じゃあ、魔女契約ってのは、全然意味がないのか……」

「魔女にとってはありがたい話だろうな。やつらが復活するためには、依り代としての人間が必要だ。魔女志願者なんてのは、釣り舟に魚の方から飛び込んでくるようなものさ。

 もちろん、志願者にとっちゃ、何一ついいことなんてない。魔女になれると言われて、魔女の血を体内に受け入れる。だが、最初から騙しだ。魔女の血は、その人間を中から乗っ取っていく。最後には、身体は完全に魔女のものにされてしまうんだ」

 うなずきながら聞いていたクロウが、やにわに立ち上がった。

「ちょっと待てよ。じゃ、家宰さんが聖遺物集めてたってのは……」

「よく気づいたな。そうだ。もし本物の聖槍なら、付いている血は人畜無害だ。だが、魔女を殺すときに使った道具ならどうなる?

 家宰デュラン・フローレンツ、やつは、古代魔女の復活を目論んでいる」

 ベルナールも立ち上がった。足で焚き火を消すと、荷物を担ぎなおした。

「東方にこそ、力のある魔女がいた。いま西方世界(エウロペ)のあちこちにいる魔女なら、俺たちのような者でも、個別でなんとか対処できる。だが、強大な力を持った古代魔女、それが復活するとしたら……」

 苦々しい表情で、言った。

「今の教会(カトリック)に、立ち向かう(すべ)はない」


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 トリーは、デュランの駆る馬に乗っていた。

 朝、クロウに抱きかかえながら乗ったときと比べると、乗り心地は雲泥の差だ。速度が違うし、何より鞍がある。しかし、今の方がなぜか不安だった。

 後ろから、デュランが言った。

「ベアトリクス。こうして二人で馬に乗るのなんて、何年ぶりだろうね。きっと前はまだほんの子供だったころだろう」

 トリーは無言でうなずいた。と同時に、微妙な違和感も感じていた。その頃、父と一緒にいることが、ただそれだけで楽しかった。今はどうだろうか。むろん、父親の姿を見るのは好きだ。てきぱきと政務をこなしている姿、書斎で写本を読んでいる姿、どれも誇らしく感じる。だが、生身の父親には、前のようには飛び込んで行けなかった。どこか拒んでいる自分がいたのだ。

 そんな思いを知る由もなく、デュランが続けた。

「おまえはずいぶん綺麗になった。お母さんの若い頃とうり二つだよ。そんなおまえを放っておいたなんて、父親失格だね。

 でも、もっと大事なことは、ちゃんと気づいていたよ」

 トリーは、はっとした。続くデュランの言葉は、その懸念を裏付けるものだった。

「魔女になりたい、そう思っているんだろう?」

「お父様、あたし……」

「いいんだよ。おまえは間違っていない。

 魔女が悪魔の眷属などというのは、無能な学僧たちの世迷い言だ。魔女になるということは、決して神に背くことではないんだ。なぜなら、魔女もまた神の被造物の一つなのだからね。

 ただ一つだけ、おまえも間違えていることがあるね」

「間違えていること?」

「頼るべき相手だよ。それは、旅の修道士なんかじゃない」

 トリーは思わず振り返った。すぐ近くにあるデュランの顔。だが、それは幼い頃、父親に抱きついている時がいちばん楽しい時間だった頃の顔とは、決定的に違っていた。

「ベアトリクス、おまえは私のことをよく知っているはずだろう。父様は何でも知っている、昔よくそう言ってくれたね」

 話しながらも、デュランは正面だけを見ている。帽子の大きなつばが作り出す大きな影が、おぞましさすら感じさせた。

「私にはわかるんだ。魔女になるための秘儀を既に見いだしている。

 いいかい、ベアトリクス。おまえは、念願の魔女になれるんだ。しかも、そこらにいるような下級魔女じゃない。強大な力を持った、上位の魔女に、だ。

 おまえの夢を、私が叶えてあげられるんだよ」

 トリーは、ここに来て、自分の向かっている先がシェーンブルクではなく、全く知らない場所であることに気がついた。

 初めて見る大きな城塞が視界の中に入ってきていた。


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