鎌鼬と雨上がり
「何故……、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故!?ボクはッ、最強の鎌鼬だ! それなのになんで斬れないッ!なんで死なない!なんなんだお前ッ!」
あまりの不可思議かつ不可解な事象を前に、鎌鼬は半狂乱気味に声を荒げた。
マスターも唖然としたままその場に立ち尽くし、風圧で吹っ飛ばされたアタシも、腰を抜かして大将を見つめる。
「そんなはずはないッ! そんなことがあってたまるものかッ!!斬る、斬る!斬るッ!」
鎌鼬は目にも留まらぬ速さで妖刀を振り回し、幾度となく大将を斬りつける。
しかしその身は切り裂け果てる所か、傷一つつかない。
当たっていないわけではない、しっかりと刃物は大将の身を捉えている。
かといってすり抜けているわけでもない、鎌鼬にも斬った手応えはあるはずだ。
それでも、大将はそこに無傷で立っているのである。
「……お前、包丁と刀の違いって何だと思う?」
苛立ちと恐怖と疑問と寂しさと慌てと怒りと殺意、感情の何もかもがしっちゃかめっちゃかのスパゲティになりながらも、ひたすらに刃物を振り回す妖怪とは対照的に、すこぶる落ち着いた声色で板前は質問を投げかけた。
「ハァーッ、ハァーッ……!なん……で? どうして斬れないんだお前をッ!なんでなんでなんでッ!ボクはッ…!ボクはッ! この、この妖刀は間違いなく最強なのにィ……ッ!」
「……刃物を道具だと思うな、刃物は己の魂だ。……テメェには、その手にある声が聞こえねえみたいだな」
柳葉は酷く冷たい目で、酷く冷たい声で、酷く悲しい背中で、懐から長包丁を一本取り出した。
「包丁……?なんだソレはァッ! そんなものでボクと戦うつもりかッッ!ボクは鎌鼬だ! 最強の刀の達人だぞ! そんな……ッ、"そんな包丁なんかが刀に敵うワケない"だろうがァッ!」
妖刀を揺らめかせ、これまでとは比べ物にならない殺気と怒りが込められた一撃が、寿司屋の板前に襲いかかった。
目で捉えることなど不可能、直感が働くよりも前に動く刹那の一刀、何をも切り裂く無双の刃、当たれば即死、振るえば必中、故にそれはまさしく一撃必殺の剣也。
「今、包丁と刀を比べたな……?」
正に人智を超えた究極の一撃、無名の妖怪がそれを振るうよりも早く、鎌鼬の柳葉は唯の一振りで眼前の悪鬼を斬って棄てた。
肉裂き、骨断ち、命を刈る、静かな刃物の通る音。
降り注ぐ雨の音にすぐ掻き消されたその音は、どこまでも冷たく、どこまでも悲しく響く音だった。
「……え? あ……れ、なん……で……?」
ぱたりと力なく地に倒れた小さな妖怪は、全身から噴き出す紅い血潮を見て、理解が追いつかぬままこれからの自身の行く末を想像した。
指の一つも動きやしない、大きな傷口は熱く、時の進むごとに酷く痛み、声を荒げようにも出やしない。
視界もみるみる暗くなり、呼吸も満足に出来ず、意識も薄れて自分が消えてゆく。
そうだよ、斬られたら普通こうなるんだ。
一体ボクは何で、何を相手にして敗北したのだろう?
ああ、嫌だなあ……、こんなことになるなら、初めから生まれてこなければ良かった。
地に流れた真っ赤な血は、降りしきる冷たい雨の中、段々と混ざって色を失っていく。
小さな妖怪はその寒さに震え、自分の身体が凍える死へと向かっていく孤独に恐怖した。
「……人を斬りたくねえっつってる刀で、人が斬れるワケねえだろ……」
柳葉はべっとりと血のついた包丁を拭うと、酷く悲しそうにため息を吐いた。
柳葉は究極の包丁技術をもった職人である。
これまで刃物で刈り取った命の数など数えきれず、これまで振るった刃物の数など計り知れない。
人を斬りたくない刀とは、それはなんだろうか。
包丁は人を笑顔にするための刃、刀は人を殺し、力を示すための刃。
彼女は果たして本当に妖刀だったと言えるだろうか?
刀と包丁は全く違う、違うというのに、"刀の方がよく斬れる"など比較した時点で敗北していた。
あの妖怪が例え刀使いとして百点の腕前だったとして、柳葉は包丁使いとして百億点満点だ。
比べてはいけない領域、次元の違うステージで、そこを極めた座に至っているのである。
もし両者の握る刃が刀でなく、仮に包丁であったのだとすれば、自称鎌鼬よりも上手の通称鎌鼬、あやふやになった妖怪鎌鼬の定義が誰になるかなど、最早語るまでもない。
「包丁は人を殺す道具じゃねェ、余計なモン切らせんなっての」
柳葉は雨と泥に汚れた妖怪を見て、両目から涙をこぼした。
その顔はあまりに悲しく、折れた刀と倒れた妖怪と、その手に握られた妖刀だけがその顔を見ていた。
その中に、その傷だらけの身体が血に汚れ、雨で流れゆく姿に見覚えのある者がいた。
ああ、まさか。
そんなことがあっていいのだろうか、
だとすれば、だとしたら、私は……、
ヤナギバ、まさかお前は、あの時の……。
……そうか。
私は、ちゃんと助けていたのか。
私は、間違っていなかったのかーー。
それは、よかった。
妖刀が雨に濡れて滴っていく。
とめどなく溢れる涙が頬を濡らすように。
抑えきれない感情が震える少女のように。
自称鎌鼬の手からゆっくりと離れたそれは、もはや妖刀などと呼べるものなど何もなく、
ただそこに居たのは、目と顔を真っ赤にしたまま涙を流す少女の姿だった。
「マキラ!」
すかさず大将は包丁を投げ出して少女に抱きついた。
冷たい雨とは違って少女の身体はあたたかく、鉄とは違ってやわらかく、弱い力でこちらをきゅっと抱き返す。
妖怪鎌鼬が、刃物を投げ出した。
そこに鎌鼬などもはやどこにも居らず、ただ泣きながら抱き合う二人の姿だけがそこにあった。
今とは比較にならない大雨に襲われ、悪逆とした川に攫われ、死の直前まで呑まれた少年を救ったのは、一振りの刃だった。
その刃は自身を顧みず、ただ一心不乱に少年を抱くと、迫る木も岩も水流も死も、何もかもすべてを切り払った。
その姿はあまりに尊く美しく、その行いはあまりに潔く格好良く、少年の心と身体に刻まれた。
刃物に憧れたのは、紛れもなく自分を救ったヒーローだったからだ。
ここまで刃物を振るってきたのは、そんなヒーローになりたかったからだ。
だから、あえてよかった。
命の恩人、ぼくのヒーローに。
しっとりと降る雨も勢いを弱め、雲がゆっくりと晴れて太陽が顔を覗かせる。
ほの明るい陽光の中、静かに降る雨は朝焼け空に幻想的な風景を映し出した。
「……見ろマキラ、虹だ」
「ああ……、とても綺麗だ」
それはとても美しい真っ直ぐな虹。
穏やかな風が頰を撫でると、私の胸はすうっと軽くなっていく。
鉄の身体が、鉄の心が、降り止まぬ雨で錆びついた私を全て洗い流す、綺麗な虹だった。
一振りの太刀のように伸びたそれが照らし示す未来は、きっとシアワセに繋がっているのだろう。