刃物と板前
トントントントン――。
刃物が小刻みに木板に当たる、心地よい音と共に目が覚めた。
頭は重く、まぶたも重く、両肩も腰も足先も鉄のように重く、まばたきの度に擦れ合う金属音が頭の中で反響する。
いつも通りの最悪の寝覚めだ。
いつもと違うとすれば、やや懐かしくも忌々しい夢の記憶が脳裏にこびりついていることと、おふとんに身を包めていることぐらいだろうか。
そこまで考えて、そしてすぐに飛び起きた。
そうだ。こんな事をしている場合ではない、見つけたのだ、ついに見つけたのだから。
記憶が混濁としていてここが何処なのかも分からない、だがここに居るべきではない。
一刻も早く追いかけねばならんのだ。
「オウ、起きたか?おはようさん」
すると、ふすまをカラカラと開けて一人の男が顔を覗かせた。
うすぼんやりした記憶の中でも彼の顔は覚えている。
昨日傷だらけで倒れ臥した私を介抱してくれた人間の一人だ。
「昨晩は迷惑をかけたな……すまなかった」
「まあ気にするな、そンな事よりまた無理しようとしているだろ? あっしは医者じゃないがやめときな。今度も助かるとは限らねえぞ」
彼の優しい声とは対照的な、何かを威嚇するかのような冷たい視線に当てられて、私は少しだけ物怖じした。
だが、だからと言ってここで足踏みするつもりなどはない。
……ようやく見つけたのだから。
「生憎だが一刻を争う事態なのだ、忠告は感謝するが、こうしては居れんのだ」
「なるほど、たしかにまだ寝ててもいい時間だしな、疲れてるンならもう少し寝てるといい」
「違う、そうじゃないのだ。私は……!」
ぐうぅ〜〜。
そこまで言おうとしたところで、私の口ではないところから音が響いた。
私と男はどちらも呆気にとられ、私は目を見開いて声も出さずに口を何度か開閉したのち、そのまま顔を床に向けて押し黙った。
「……そうか、スマン。おじさんが悪かった。お前腹が減ってるんだな?大丈夫だ、朝食の用意は今してるからもう少し待っててくれ、な!」
声の調子を少しだけ落としてそう言われ、私は拳を軽く握りしめて、全身をぷるぷると震えさせたまま下唇を噛み締めていた。
「違う……、違うのだ……!わ、私は……」
二度目の音を聞くも前に、私は羞恥と情けなさで顔を炉にくべられた刃のように真っ赤にさせて、思わずほろりと涙を流した。
頬を伝った粒はそのまま刃となって溢れ落ち、お布団に静かに突き刺さる。
ぐう。
二度目の音が聞こえた途端、私はもう布団を被って縮こまっていた。
何も聞こえてない何も見ていない何もしていない何も起きてない、そうだ私はまだ起きていないということにしといてくれ。
そう、きっとこれは全部夢、私は今夢の中に居るのだ。
起きたら私は十二歳、朝のラジオ体操に向かうために、眠い目をこすりながら頑張って早起きする夏休みの初週の水曜日。
そういうことにしておいてくれ……!
そうして私が布団の中で現実を放棄して沈黙していても、男は私を笑うでもなく、かといって慰めてくれるわけでもなくただそこに座していた。
「……木こりのジレンマってやつだ。どんなに優れた技術があろうと、どんなに素晴らしい斧だろうと、刃こぼれを直す暇などないと振るい続ければ、当然効率は落ちるし斧もダメになる。急がば回れ、腹が減っては戦は出来ぬ、色々言い方はあるが、焦って踏み外せば後悔は大きくなるぞ」
落ち着きのある彼の声はおふとんをかいくぐり、驚くほどすんなりと私の耳にまで届いた。
急がば回れ……、か……。
思うところはある。躍起になって勢い勇んで盲目的に駆けずり回り、自分が自分に知らせる危険信号にたくさんの嘘を重ねてきた。
焦りや戸惑いに追い詰められていたのだと言われれば、一言たりとも否定などできようもない。
「生きることは大会じゃねえんだ。万全の備えをして、あらゆる状況下で勝てないような試合はするべきじゃあない。……まあとりあえず、ご飯を食べてから考えても悪くないだろう?」
続けてそう言った優しい声を聞いて、私の鉄で覆われた胸の奥に、まるで熱い炎が灯ったかのような錯覚に襲われた。
気がつけば、鋭く尖った両目からうっすらと涙が流れていた。
その涙は先程の小さな刃物などではなく、確かにあたたかな雫であった。
そう言えば、こうして会話をするのはもう何年振りのことであろうか。
人に助けてもらうなど、かつてあっただったろうか。