第6回:消されかけた絵師(評伝・海北友松)〈2〉
2
武士の子としてうまれながら「芸家に身をやつした」とされる海北友松の前半生は、つまびらかではありません。
狩野派に入門していたのはたしかなようですが、いつ入門したのかも不明です。
かれののこした画稿のなかに、聚楽第壁画の粉本があることから、聚楽第壁画の壁画制作に参加したのではないか? とか、天正14[1587]年に即位した後陽成天皇の皇太子時代に、友松が絵の手ほどきをしたようだと云う記録ものこされていますが、いずれも確証をえません。
狩野派における友松の師承関係は、狩野派関係画伝書類から永徳師事説、海北家諸資料から元信師事説のふたつがあります。
元信師事説をとると、友松はすくなくとも27歳以前に狩野派へ入門していたことになります。
しかし、狩野派関係の画伝書『本朝画史』には、永徳の指導によって画工となった友松は、しばしば、師である永徳の仕事をてつだっていたため、永徳の画風だったとしるされていますし、げんざい確認されている友松の初期の画風には、元信以降の狩野派的要素がみとめられます。
では、なぜ、海北家諸資料には、永徳ではなく、元信師事としるされているのでしょうか? どうやら、友松と永徳には確執があったようです。
狩野派の口伝と云うエピソードが、江戸時代中期の妙心寺『正法山誌 三』にのこされています。
永徳風の絵がうまかった海北友松は、しばしば、永徳の作品をもとめにきた者たちへ、永徳にはないしょで自分のえがいた絵を「永徳画」といつわってあたえていたと云うのです。このことを知った永徳は激怒して、かれを破門したとつたえられています。
当時、多忙な絵師は、信頼のおける弟子に代作させることもありました。しかし、永徳にないしょで代作していたと云うことは、絵の代金も友松がこっそりくすねていたことになります。だとしたら、おこられてもしかたないかもしれません。
もちろん、本当のところはわかりませんが、江戸時代後期の『画事備考』にも「後年儀絶」とあるように、海北友松が狩野派を破門されたことはじじつのようです。
海北友松は狩野永徳よりも10歳年上です。10歳年下の師匠に破門されたと云うのもはずかしいので、海北家諸資料には元信師事としるされているのでしょう。
狩野派から独立したのではなく破門されたことで、海北友松は桃山画壇から黙殺されようとしていたようです。
しかし、友松は桃山画壇にその足跡をのこすことができました。なぜか?
天正18[1590]年に狩野永徳が、そして文禄元[1592]年に、その父である狩野松栄が、あいついでこの世をさったからです。
つまり、この時点で、海北友松は桃山画壇の最古参となりました。すくなくとも、年齢的には最年長の絵師でした。永徳の目をおもんばかって、友松をつかうにつかえなかった者たちも、障屏画制作などにかれを起用しはじめます。
『華頂要略』文禄3[1594]年の条に「青蓮院尊朝法親王に五明(おうぎ)2本進上。」としるされています。これは友松の在世中にかれの名をしるしたもっともはやい史料ですが、この時すでに友松は62歳でした。
かれの画業をつたえる現存最古の作品は、慶長2[1597]年にえがかかれたとされる、建仁寺禅居庵障壁画『松竹梅図襖』(重文)です。かれが65歳でえがいた作品と云うことになります。
そして、慶長4[1599]年。かれは建仁寺本坊大方丈障壁画(けんにんじほんぼうだいほうじょうしょうへきが)(重文)の制作をおこないました。大方丈内部5室にわたって展開する計50面の障屏画群は、質・量ともにかれの代表作とよぶにふさわしいものです。
こののち、桂宮智仁親王をはじめ皇族、公家、教養ある武家などの支持者がふえました。もっとも、かれが重用されたのは、作品の質もさることながら、その年齢にも起因するのではないかとかんがえています。
「人生50年」の時代に、60歳すぎでブレイクした絵師なのです。現代の感覚で云うと、100歳でブレイクした画家が、大作をガンガンえがきまくるのに、にているかもしれません。
長生きしているかれの作品と云うだけで、すでに縁起もので「ありがたい」のです。しかし、そう云ったかずかずの注文が、かれの創作魂に火をつけ、70歳をすぎてもそれまで手がけたことのないさまざまな画題に挑戦していきます。
葛飾北斎も40代でブレイクしたおそ咲きの苦労人でしたが、かれが傑作『富嶽三十六景』をえがいたのも70代であることを思えば、絵師の70代はまだまだ最盛期なのかもしれません。
慶長7[1602]年には、因幡国鹿野城主・亀井茲矩のために『飲中八仙図屏風』をえがき、おなじ年、八条家のもとめにおうじて『山水図屏風』をえがきました。
また、桂宮家に伝来した『浜松図屏風』や『網干図屏風』は最晩年の作例ですが、これらの作品は友松がかつて挑戦したことのない大和絵的主題にもとづく金碧画です。
友松は最晩年にいたるも、あくなき挑戦と研鑽をつづけました。こうして、かれは元和元[1615]年、83歳の生涯をとじるまで、悠々自適の個人制作をつらぬきとおしたのです。