第6回:消されかけた絵師(評伝・海北友松)〈1〉
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海北友松。そのよみかたは「うみきたともまつ」ではなく「かいほうゆうしょう」です。まちがっても「とも松」などと云う7人目の『おそ松さん』ブラザーではありません。「とど松」ともべつじんです。……などと云うじょうだんはさておき。
海北友松(天文2~元和元[1533~1615]年)は、桃山時代の画壇において、ひじょうにユニークな存在と云えるでしょう。
当時、日本でもっとも勢力のあった狩野派門下だったとされながらも、その画業が歴史のおもて舞台にあらわれるのは、ふつうの人であれば「晩年」とも云われる60代になってからです。
友松と云えば、勇壮な『雲龍図』などで有名ですが『丹青若木集』と云う狩野氏系図に「新意ヲ出シ墨画ヲ作ス」としるされたように、狩野派からも一目おかれるほどの作品をのこしています。
かれの息子・友雪や、その孫・友竹も絵師として腕をふるっていましたが、その画風が継承されたとは云いがたく「海北派」と云う一派をなしたかどうかについては異論がのこります。
かれの衣鉢をつぎ、さらにそれをのりこえる者があらわれるまでは、江戸中期、曾我蕭白の登場をまたねばなりません。
海北友松は、桃山画壇の異端であり、前衛でした。しかもそうとうなおそ咲きです。今回はかれの生涯をふりかえるとともに、その独自性あふれる画業にせまってみたいと思います。
海北友松(天文2~元和元[1533~1615]年)。近江国湖北郡出身。名は紹益。友松は字です。
かれの父は、戦国大名・浅井長政の家臣で「浅井家中第一の剛の者」とうたわれた海北善右衛門綱親です。斉藤内蔵介利三や、わかき日の豊臣秀吉に軍法を教授したとも云われています。
このことから、しばしば、海北友松の作品は「武人的」と評されてきましたが、友松の父・海北善右衛門綱親が亡くなったのは、天文4[1535]年1月10日。浅井亮政の多賀貞隆邸ぜめにおいて討死したとつたえられています。
友松、この時わずか3歳。しかも、かれは母親のもとをはなれて東福寺へあずけられていたそうです。
たしかに、友松は武人の血をひいているかもしれませんが、なにも武家的な環境でそだてられたわけではありません。父親とまったく接点のない環境でそだてられた友松を、その出自だけで「武人的」と評するのは早計でしょう。
また、かれの息子・友雪がえがいた『海北友松夫妻像』(重要文化財。画賛は孫の友竹。画そのものも友竹がえがいたと云う研究者もいます)の賛にはこうかかれています。
「余は是れ源氏の嫡流なり。誤って芸家に落つ。願わくば運に乗じて武門を起こし父祖の志しを継ぎ、以て子孫に伝えん」
友松は武門再興をゆめみていたのだから、とうぜん「武人的」と評されるわけですが、友雪のえがいた絵そのものをみれば、そこになくてはならないものが欠けていることに気づくはずです。
なにがないのか? それは刀です。武門再興をこころざす者のかたわらに刀のえがかれていないことが、じつはすでにおかしいのです。
たとえば、江戸時代の絵師、葛飾北斎も武家の出です。かれほど生涯を絵画にかけた絵師ですら、自画像のかたわらに刀をえがき入れることをわすれてはいません。
友雪の時代から、およそ100年の時をへだててもなお、武士にとって刀のもつ意味は大きかったのです。
もしも、友雪が『海北友松夫妻像』の賛にあるような、父の武家としての矜持をくみとっていたのであれば『海北友松夫妻像』には、その背景に刀がえがかれてしかるべきなのです。
はたして、その息子にすらつたわっていない武家としての矜持が海北友松にあったのかどうか? かれの作品が真に「武人的」であったのかどうか?
かれの出自や画賛だけで、かれの作品を「武人的」と評するのは、いささか短絡的と云わざるをえません。
とどのつまり、桃山時代の絵画には、そうじて「武人的」な豪快さがもとめられたのです。いわば、時代の気風であり、流行のスタイルだったにすぎません。狩野永徳にしろ、長谷川等伯にしろ、じゅうぶんに「武人的」な作品をのこしています。
海北友松『禅宗祖師図』(慶長18[1613]年)などをみれば、およぞ武人らしからぬやさしさやユーモラスな感性がつたわってきます。かれが「武人的」であったかどうかなど、どうでもよいのです。