第5回:カモナ、マイハウス(家紋「卍巴」)
画面上部にかかげてあるのが『水羊亭画廊』のシンボルマーク〈鳩に卍巴〉です。
〈卍巴(万字巴とも書く)〉は、全国約2万5千種の家紋を網羅した『日本家紋総鑑』や『家紋大図鑑』『家紋総覧』には掲載されていませんが、れっきとしたわが家の家紋です。
べつにネオナチの信奉者とか危険思想のもちぬしではありません。〈鉤十字〉とはまったくのべつものです。
〈鳩〉も古くからある日本の家紋です。かわゆいので〈卍巴〉にあしらってみました。
家紋の歴史は平安時代にさかのぼります。平安貴族が当時流行していた紋様のなかから好きなものをえらび、調度品や衣装や牛車などにつけたのがはじまりと云い、孔雀、唐草、蝶、巴、牡丹、木瓜、浮線綾、うちわ、亀甲紋などがあったそうです[図2]。
源平の合戦をきっかけに、家紋は武家のあいだにもひろがっていきました。敵味方を判別するためだけでなく、さまざまなところから集まった武士団の氏素性をつまびらかにするためにもちいられたかんたんな記号が、やがて家紋へと発展しました。
『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などの軍紀物語に、武蔵の武士団・児島党の〈うちわ〉、足利氏の〈二つ引〉、熊谷次郎直実の〈鳩に寓生〉、佐々木高綱の〈三つ目結〉と云う家紋の記述が見られます[図3]。
鎌倉時代中期には、おおよそ武家の家紋がでそろったと云われています。天皇や主君から氏姓とともに家紋を下賜される風習もうまれ、家紋が権威の象徴へとかわっていきました。
家紋における権威の象徴は、TV時代劇『水戸黄門』の終盤を見ていれば、端的にしめされています。「この紋どころが目に入らぬかっ!」と云うわけ。閑話休題。
シロウト目には、危険思想のもちぬしか? とうたがわれかねない、わが家の〈卍巴〉ですが〈卍(万字とも書く)〉も〈巴〉も記号としての歴史は家紋よりもはるかに古くからあります。
〈卍〉も〈巴〉も太古のむかしから世界各地で、太陽や宇宙をあらわす〈聖なる記号〉としてあがめられてきました。
その歴史と呪術性ゆえに、悪名高いナチス・ドイツは〈卍〉をアレンジして〈鉤十字〉を旗じるしとしてかかげたのです。
第二時世界大戦後、日本へやってきた浅学な進駐軍兵士が、浅草寺の屋根についている〈卍〉を見て「なぜ、歴史的建造物にナチのマークが?」とかんちがいし、おどろいたそうです。……そりゃあ、気もちもわからなくはありませんが。
日本における〈卍〉は仏教と関係がふかく、〈巴〉は神道(水神信仰や勾玉)とふかい関係にあります。
〈卍〉は仏教伝来とともに日本へもたらされました。そのため〈卍〉はインド発祥の記号と云うイメージがつよいのですが、世界へ目を転じると、古代アッシリア、バビロニアでも、はやくから神聖な記号としてあがめられ、ギリシアやローマでも、王族の墳墓や遺物にきざまれているそうです。
一般的には、太陽(の光)を表現していると云います(そこから派生して〈火〉の意味でもちいられることもあります)。
シンプルな記号だけに、どこぞの国や文明を起点として世界中につたわったわけではなく、偶然おなじような意図をもって、それぞれ独自に発案されたもののようです。
〈卍〉は、梵語でSvastika(寒縛忝底迦)と云います。円満、宇宙、無限と云う意味で、吉祥のしるしです。バラモン教では、太陽神ヴィシュヌの胸の旋毛と解しているそうです。……胸毛?
中国でも、唐の則天武后が、則天文字と云う新文字をつくらせたときに〈右卍〉を〈日〉の字にあてて神聖視しました(〈卍〉は〈+〉記号から左に横線をひくので、基本的に〈左卍〉と云います。〈右卍〉はそれを反転させた記号です[図5])。
一方〈巴〉の歴史も古く、十字や卍とともに世界共通の記号でもあります[図6]。中国・周代の楽器などに〈巴〉が見られると云います。
〈巴〉と云うよびかたは、弓をひく時、弓手(左手)のひじにまきつけて弦がふれるのをさけるためにもちいた革具の〈鞆絵〉にカタチが似ているからと云う説が一般的ですが、
玉井(玉霊)がなまって「ともえ」になったと云う説もあります。どちらの説もイササカ強引な気がしないでもありません(笑)。
〈巴〉は、水のうずまきや蛇(竜)を表現したものと云われています。水神(竜神)信仰から雷の象徴ともされ、轟音をとどろかせる雷神の太鼓の皮部分に描かれることも多くあります(〈雷〉と云うべつなカタチの家紋もあります)。
日本最古の〈巴〉は、恵心僧都源信の作とつたえられる『聖衆来迎図』(高野山金剛峯寺所蔵)に描かれた太鼓もようだそうです。屋根がわらにほどされた〈二つ巴〉や〈三つ巴〉は水をあらわすだけに火難除けの呪符としての役割があります。
また〈巴〉は、勾玉にも似たそのカタチから、人間のたましいと解釈されることもあります。蛇足ですが「三つどもえの戦い」などと云う時の〈三つどもえ〉は、この家紋からきています[図7]。
〈巴〉は、丸から先ぼそりする尻尾のでているカタチをしています。紋章上絵師を本業とする直木賞作家・泡坂妻夫『家紋の話』(新潮選書)によると、丸を描いてから尻尾を描くので、尻尾が左をむいているものを、古くから〈左巴〉とよぶそうです。[図6・7]。
〈卍〉を〈左卍〉とよぶのとおなじ理屈です。しかし、とある未熟な研究者が〈巴〉のむきをまちがえて喧伝したため、丹羽○二などの著作には注意してください。閑話休題。
このように太古のむかしから日と水を象徴する〈卍〉と〈巴〉二律背反的要素をあわせもつのが、わが家の〈卍巴〉です。
「いやいや、それってただの〈卍〉で〈巴〉のエッセンスなくない?」とかんがえる人がいるかもしれません。ところがギッチョン。ただの〈卍〉とは、クラシックとジャズくらいちがいます。
〈卍巴〉は一見〈卍〉に見えますが、すべて均一の太さの線で描かれているわけではありません。中心にある正方形を、4つの長方形でかこむように描かれています。
中心の正方形は一辺が全体の3/5。長方形はみじかい辺が全体の1/5、ながい辺が全体の2/3と云う比率になっています[図8]。
家紋における正方形や長方形のことを〈石(石畳)紋〉と云います[図9]。この記号は江戸時代に歌舞伎役者の佐野川市松が好んで衣装にもちいたことから人気を博し〈市松もよう〉とよばれるようになりました。
この〈市松もよう〉すなわち〈石(石畳)紋〉があらわしているのは、地上にしきつめた四角い石です。これは神社のしき石を意味しています。一見、お寺(仏教)の記号に思える〈卍巴〉は、ふしぎなことに神社(神道)を暗示しているのです。
丸に尻尾のついている〈巴〉のように、〈卍巴〉では中心の正方形から長方形の尻尾がでているととらえることができます。それが〈卍〉を擬しているため〈卍巴〉とよぶのでしょう。
いやはやステキなネーミング、スバらしいデザインです。……もっとも、シンプルすぎておもしろみに欠けるきらいはありますが。
わが家の葬式は仏式ではなく神式です。かくれキリシタンのように、神道であることをかくすために仏教風の家紋にした可能性もかんがえられますが、そもそも、日本人が神道であることをかくす必要はどこにもありません。
しかし、かくれキリシタン、と書いて思いだしました。私の先祖は福岡藩士だったと云うはなしを。
福岡藩初代藩主・黒田長政はスパルタンX……ではなく、キリシタン大名です。慶長18[1613]年の禁教令後は、棄教してキリシタン弾圧へ転じますが、当初は彼のもとで多くの藩士や農民たちがキリスト教に改宗していました(ちなみに、黒田長政の家紋は〈黒田藤巴紋〉です)。
あざといほどに神仏習合の究極とも云える家紋〈卍巴〉は、神道でもなければ仏教でもない、もうひとつの信仰をかくすための家紋だったのかもしれません。〈卍巴〉のなかにはキリスト教の記号である十字架がかくされているからです[図10]。
だとすると『日本家紋総鑑』ほどの大著に掲載されていない理由もわかります。〈卍巴〉は、暖炉の石のうらにかくされていたシータの飛行石のペンダントみたいに、ひっそりとうけつがれてきた家紋だったりして(『天空の城ラピュタ』参照)。
〈日〉と〈水〉と云う相反するものの象徴であり、神道、仏教、キリスト教のイメージを内包した〈卍巴〉は、とにもかくにも不可思議な〈魔術的記号〉なのです。
ま、どっとはらい。
〈おわり〉
※この文章は2008年2月1日にWebサイト『水羊亭画廊』に掲載したものを加筆修正しました。