第3回:ぶりゅっとひりだす魂のカタチ(アウトサイダー・アート)
いつぞや、近所の幼稚園のそばをとおった時、幼稚園の壁にはられていた絵を見て、オドロいたことがあります。
それは、ほとんど太い線だけで、棒のように描かれた動物(おそらくは恐竜)の絵でした。動物の身体が、赤茶色なのはわかります。しかし、うしろ足が目のさめるような紫色でした。なんて大胆なのでしょう。スゴイ色彩感覚です。
思わず「ほしい!」と思うような絵ではありませんでしたし、赤茶色に紫色と云うくみあわせが、白地の画用紙に美しいかどうかは、またべつの話です。
それでも、私は幼稚園の塀ごしガラスごしに、その絵をながめながら「こーゆー感性がほしいなあ」と思いながらとおりすぎました。
かつて、パウル・クレーは「幼児の描くような絵が描きたい」と、無垢な感性をおいもとめました。また、正規の(職業的な)美術教育(訓練)をうけず、既成の美術概念にとらわれず、魂の衝動そのままに制作された原始的で力強い作品を、ジャン・デュビュッフェは〈生の芸術〉と名づけて、積極的に評価しました。英語圏では〈アウトサイダー・アート〉とよばれています。
権威ある職業画家を夢みながら、自己流で描きつづけ、かれの望みとは「まったくちがうカタチ」で高い評価をえた、下級税関使の〈素朴画家〉アンリ・ルソーは、西洋美術史上はじめて評価された〈アウトサイダー・アート〉の芸術家だったかもしれません。
日本でもっとも有名な〈アウトサイダー・アート〉の芸術家は、映画(TVドラマ)『裸の大将放浪記』のモデルになった貼り絵画家・山下清です。
『裸の大将放浪記』に登場する山下清は、旅先で作品を制作しますが、実際のかれは、旅先でスケッチを1枚も描くことなく、帰宅後、驚異的な記憶力で、旅の風景を描きました。
〈アウトサイダー・アート〉の芸術家には、知的障害や自閉症、そのほか精神的疾患をかかえている人も少なくありません(山下清も、かるい言語障害・知的障害をかかえていました)。
日本でも〈エイブル・アート〉と呼称して、芸術性の高い知的障害者の作品を紹介する活動がおこなわれています。
そのため〈アウトサイダー・アート〉は「精神障害者(?)の芸術」と認識される傾向が強いように思われます。
先日、東京・新橋の松下電工 汐留ミュージアムで『アール・ブリュット/交差する魂』と云う展覧会を観てきました。
そこで紹介されている日本人作家はすべてて知的障害者であり、海外作家のほとんどが、精神病院などの施設で、その才能を開花させた経歴をもっていました。
作者が知的障害者であることを加味しつつ観賞すべき作品がある一方、作者の経歴など関係なく、強い衝撃と感動をあたえてくれる作品もあり、〈アウトサイダー・アート〉における「障害者の芸術」と云う側面が強調されることで、かえって作品のもつすばらしさを、偏見でおおいかくしてしまう危険性があるようにも思いました。
ヴィレム・ヴァン・ヘンクの都市を描いた作品は(以前にも観たことはありますが)、絵本作家・スズキコージの作品にも通底する雰囲気があって「1枚ほしいなあ」と思いくらい大好きですし、レイノルド・メッツの描くドン・キホーテの「絵本」は、全部観てみたいと思うほど、色彩の美しい作品でした。
初期の松本大洋(マンガ家)をほうふつとさせる筆致で、空想の風景を俯瞰で描く辻勇二の作品にも感嘆しました。私はあんなにうまく描けません。
喜舎場盛也の、漢字を書きつらねた作品は、私の好きな石川九楊の書をほうふつとさせますし、本岡秀則の、電車を押し鮨のように描きならべた作品も「スゴイなあ」と嘆息しました。
澤田真一のトゲトゲ仮面や奇妙な怪獣のオヴジェの迫力には圧倒されました。私も石塑粘土で卓上狛犬など制作していますが「(私の作品なぞ)フツーすぎてツマラン」と、心底おちこみました。
坂本チユキの作品は、私の嗜好とは異なりますが、フツーに「現代抽象絵画」です。銀座の画廊や現代美術の展示で、似たような作品を目にすることもあるでしょう。
かれらのゆたかな作品を世に問うのに、はたして〈エイブル・アート〉とか〈アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)〉なんてカッコ(分類)が必要かなあ? と首をかしげたくなりますが、まだまだ現代美術をプロデュースするがわに、ある種の偏見が根強くのこっているのかもしれません。
「20世紀のアンデルセン」と称される幻想小説家のジェイン・ヨーレンは『夢織り女』(ハヤカワ文庫)の中で「芸術とは、心と魂を目にみえる形にしたものでなくて何だろう」と書きました。〈アウトサイダー・アート〉は、まさに心と魂を目にみえるカタチにした、大変「純度の高い」作品と云えるでしょう。
表現者とはかくありたい、と思います。
〈おわり〉
※この文章は2008年6月15日にamebaブログ『水羊亭随筆 Classics』へ掲載したものです。