第2回:贋札と芸術のワレメに〈3〉
アメリカには、模造紙幣作家のボッグスと云う人がいるそうです。かれはお札の一部を変更しながら絵筆で精緻に描くと云います。
たとえば「ONE→FUN(冗談)」「TEN DOLLERS→TIN(錫)DOLLERS」のように。ただし、これらの作品が模造紙幣として使用されてしまうと、ボッグス自身も偽造犯として逮捕起訴されたり、紙幣模造とりしまりの規制に抵触するおそれがあるため、作品の販売はしていないそうです。このあたり、赤瀬川原平よりも慎重です。
千円札裁判から数年後、赤瀬川原平は『美術手帖』「ダレにも出来ない楽しい工作」で、半分にした千円札の表裏を墨1色で刷り「このキリトリ線をていねいに切り取ると犯罪につながります」と書きました。しかし、これをイタズラで使用した者があらわれ、またも書類送検となります(この件に関しては不起訴)。
つくづく「贋札芸術」道は、茨の道です。また、赤瀬川原平は、千円札裁判直後に「0円札」を発行し、昭和63(1988)年には『贋金つかい』と云う題名の小説も上梓しています。ころんでもタダではおきません。
結果として、有罪判決をうけた赤瀬川原平は、千円札裁判を「お金の権威に対する不敬罪、あるいは猥褻罪のようなものだ」と、ふりかえります。
お金の権威とは、ようするに「国家権力」です。「おそれおおくもカシコクも国家の権限で発行している尊く神聖なお金とおなじようなものをキサマラ下賤の者どもがつくろうとは不埒千万ケシカランケシカラン」と云うわけです。
だから、偽造はもとより、模造すらゆるしません。また、世の中にふつうにあるものを「つくって見せてはいけない」と云う意味において、贋札は「性器」に似ています。どちらもアカラサマに表現することはタブーとされます。ただし、贋札はもっていてもイケマセン。
2000年以降の日本の贋札は、98%がパソコンによるものだそうです(ちなみに、日本初のパソコンによる贋札は、平成8(1996)年に、陸上自衛隊の1等陸尉が偽造したと云います)。
赤瀬川原平のように、いくつもの印刷所をたずねあるき、製版や印刷を依頼すると云う手間をかけずとも、お札を「今週のビックリどっきりメカ」さながらのプリンタスキャナ複合機の上におき「ポチッとな」とするだけで、印刷までできてしまうくらいお手軽なのですから、パソコン偽造犯には、罪の意識も、芸術としての意思や覚悟もないにちがいありません。
仮に、贋札を興味本位、あるいは、ただ知人をおどろかすためにつくったと云うのであれば、せめて、あからさまに「贋物」である部分をつくっておくべきでしょう。
たとえば「日本銀行券」を「目本銀行券」にかえるくらいの一手間はほしいものです。そうすれば「つかう気はなかった」と、ささやかな云いわけにもなりましょう。
しかし、この程度の一手間では、罪をまぬがれないことが判明しました。日本の法律では、欧米やユーロ圏のように、成文化された複製の許可条項はありませんが「紙幣とまぎらわしい外観」を有するものを製造したり、販売したりすることを禁じています。明確な基準はないと云うから困ったものです。
もっとも、フツーに生きていく上で、お札の複製をしなければならない局面に立たされることはないはずなので、個人的に困ることはありませんが、国家ひいては財務省の危機管理意識・能力のひくさを棚上げし、疑わしきはすべて罰すると云う態度はいただけません。
お札の複製は、縮小の場合、縦横各辺が、7/10(面積にして1/2)以下、拡大の場合は、1.5倍以上とするのが「慣習」なのだそうです。
カラー印刷で複製する場合には「見本」の文字を明瞭に加刷することが要請され、白黒での片面印刷による場合でも、原寸大での複製は極力さけるよう、財務省が行政指導していると云います。
「紙幣とまぎらわしい外観」にたいする明確な基準がないため、これは相当ひろく解釈できます。どんなに悪意がなくとも、どんなにささやかな特徴であろうとも、1度「紙幣とまぎらわしい外観」ときめつけられてしまえば、罪をまぬがれることはできません。法律にひそむタブー、おそるべし(佐藤清彦『贋金王』(青弓社・1997年)に、実例が列挙されているので、興味のある方は、そちらをお読みください)。
実物と極端な大きさのちがいでもないかぎり(1.5倍の「魔術銀行券」でも書類送検された例があるそうです)「紙幣とまぎらわしい外観」をもつものは、かたっぱしから贋札偽造・模造として処罰されてしまう可能性があるのです。「点数」のほしい怠惰な警官のよいカモにされてしまう可能性大です(しかし、警察、自衛隊、マスコミ、役人、政治家の信用できない「国家」ってなんでしょね?)。
また、現在のお札だけではなく、過去に発行された(現在では流通していない)銀行券であっても、いまだ法的に有効なお札があります。
明治18(1885)年発行の兌換銀券(武内宿禰)の1円券などが、それにあたります。古銭・古札の世界では高値でとりひきされているのでしょうが、コンビニなどで使用すれば「1円」としての価値しかありません。
そのため、複製する時は、縮尺変更と「見本」の文字を忘れてはなりません。「昔のお札だからよいか」などと気軽な気もちで作品化すると、切ない思いを味わうこととなります。
贋札と芸術のあいだには、ふかくてアヤしいワレメが存在します。 贋札芸術製作をこころみようとする人は、くれぐれも慎重に。ご利用は計画的に(笑)。
〈おわり〉
※この文章は2005年4月13日にWebサイト『水羊亭画廊』へ掲載したものを、のちにamebaブログ『水羊亭随筆 Classics』へ転載したものです。