第2回:贋札と芸術のワレメに〈2〉
さて、お札にまつわるトリビアをかるく披瀝したところで、ここからが本論です。
基本的に、贋札は「貨幣として悪用する」目的でつくられます。しかし、貨幣としての悪用を前提としていない贋札と云う「かわりダネ」があります。
これを「偽造」ではなく「模造」と云います。そして、真札が存在する以上、芸術としての贋札は、基本的にパロディなのです。
ただし、あまりにも精巧にできた手製の贋札が、その技術力のたかさゆえに「芸術」とされることもありました。
1900年代に登場した米国のプロの偽造犯、エマニュエル・ニンジャーは精巧な贋札を手描きしました。彼に贋札をつかまされた店の店主が、贋札のできばえに感動し、額に入れて店頭に飾ったと云う逸話ものこされています。
そもそも、手描きの贋札では、手間に見あうだけの利益はえられないと云われています。手描きの贋札でなくとも、莫大な利益をあげるのは大変なのだそうです。
そのため、手描きの偽造犯は、実利目的ではなく、愉快犯的傾向が強いと云います。突出した技術は、ささやかな悪意をとびこえ「芸術」として昇華します。
おそらく、史上最初の「贋札芸術」は、1818年にイギリスで販売された 、G・クリックシャンクによる『絞首刑反対紙幣』でしょう。
当時のイギリス紙幣は、大変粗雑で偽造が容易でした。その上、銀行員ですら真贋を見きわめることがむずかしかったと云います。
そのため、アメリカから最新技術で制作されたお札の見本が提示されたり、イギリスの王立美術協会がデザイン案を提示してみましたが、頑迷固陋なイングランド銀行当局は、それらをことごとく拒絶しつづけながら、偽造・変造・行使にたいする刑罰のみをきびしくしていたのです。
偽造犯が絞首刑であるのは当然のことながら、贋札であることを知らずに使用した人も、死刑またはオーストラリア植民地への流刑と云う重い刑罰をうけました。
下流階級の人々はお札をあつかうことが少なかったため、だまされた上で死刑にされると云う災難にあうことも少なくなかったそうです。
この悪法を痛烈に批判したのが『絞首刑反対紙幣』です。
まず描かれているのは、絞首台から吊り下げられた11人の偽造犯人の男女です。絞首刑の男女の上には「規制銀行券」その下には「容易にまねされる銀行券の発行されるあいだ、そして現金支払の廃止または死刑の刑罰廃止まで死刑を実行することを約束する」 と云う飾り文字が踊っています。
4隻の囚人運搬船とドクロにかこまれた紋章の女神ブリタニアは、鬼子母神よろしく子供を食べていたりします。太い黒枠で描かれた囚人運搬船の窓から見える偽造犯人たちの図のまわりには、絞首刑用の麻紐でポンドの文字「£」が描かれています。
お札の発行人のサインは「J・ケッチ(J Ketch)」。死刑執行人の俗称です。また、このお札は「銀行券見本」と印刷されており、あくまで「贋物」ではないことも強調されていました。
こう云った社会風刺や批判にさらされつづけた悪法は、1832年にようやく廃止されました。しかし、イングランド銀行当局は、その後もお札の改造には、なかなか首を縦にふらなかったそうです。困ったものです。
日本における「贋札芸術」で忘れてならないのは、赤瀬川原平の千円札裁判です。昭和39(1964)年に起訴され、昭和45(1970)年、最高裁での上告棄却により、懲役3月執行猶予1年の有罪判決をうけました。
赤瀬川原平と千円札作品とのかかわりは、昭和38(1963)年、第15回読売アンデパンダン展に出品された千円札拡大模写作品『復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)』にはじまります。
この作品の製作中に、印刷された千円札模型のアイディアが生まれたそうです。彼が最初に制作したのは、クラフト紙に墨刷りされた模造千円札の個展案内状です。
表に千円札が印刷されていて、裏が個展の案内文になっているものを、関係者に現金書留で送ると云うこった趣向でした。
その後、印刷千円札模型による梱包作品が登場します。それらの印刷された千円札模型が「通貨及証券模造取締法違反」として起訴されたのです。
とは云え、紙質にまったくこだわらず、墨1色で表側しか印刷されていない千円札の「模型」です。贋札として使用する目的でつくられたわけでないことは明白でした。当初は不起訴になると云われていましたが、事態は思わぬ急転をむかえます。
朝日新聞が社会面で事件をゆがめて報道したのです。実は当時、世間では「チー37号事件」と云う精巧な贋千円札事件がつづいていました。朝日新聞は、それとの関連を示唆するような記事をデッチあげたのです。
犯人の手がかりにとぼしく、あわや迷宮入りかと思われていた事件の被疑者が見つかれば、これはもうスクープです(実際に「チー37号事件」は迷宮入りした)。
TVマスコミなど他の報道各社も、裏をとらずにとびついて、そのままうその情報をたれながしました(朝日新聞および報道関係各社は、さいごまで正式に赤瀬川原平へ謝罪しませんでした)。
一夜にして「自称前衛芸術家・赤瀬川原平(克彦)の贋札」は、世間の耳目をあつめることとなり、検察も起訴にふみきりました。
「チー37号事件」の真犯人を検挙することができなかった警察および検察は、国家の秩序と威信にかけても、贋札偽造が悪質な犯罪であることを喧伝するひつようがありました。犯人にたいする恫喝もあります。
そのため、赤瀬川原平の件が、世にでたことは「わたりに船」でした。赤瀬川原平は、ていのよい生贄羊、いわば「見せしめ」として起訴されたのです(日本の警察がいかに無能で、弱者を食いものにしてきたかよくわかります)。
事件は会議室でおきているのではなく、現場でおきているそうですが、この件に関して云えば、会議室と無責任なマスコミによって捏造されました。織田裕二ではなく、真矢みきが正しいのです(笑)。