第2回:贋札と芸術のワレメに〈1〉
お札の歴史は、そのまま贋札の歴史でもあります。世界初のお札は、997年頃に北宋で発行された「交子」が嚆矢とされています。
当初から、それなりに偽造防止策はこうじられてきましたが、欲にかられた者たちの暗い情熱は、それをやすやすととびこえてきました。そのつど、あらたな偽造防止策がこうじられ、そのつど、あらたな贋札がでまわると云うイタチゴッコは、現在もなおつづいています。
日本初のお札とされる「山田羽書」は、1600年頃、伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で発行されました。形状は、幅4.2cm、高さ23cmの短冊形と云うから、かなり細長いものです。
今、私たちは「お札」と云うと、横長のデザインのものを思いうかべますが、もともと、中国や日本は文字を縦書きする文化です。したがって、昔の日本や中国のお札は、縦長のデザインが一般的でした。
また、発行当初から、文字だけのお札は少なく、さまざまな意匠がほどこされていました。「山田羽書」にも、券面上部に大黒天の絵が印刷されています。このデザインは、神道のお札の形状をまねたと云われています。
そもそも「山田羽書」を発行したのは、伊勢神宮の御師(伊勢神宮の神職で、参詣者の案内や、祈祷・宿泊を生業とした)でした。つまり〈お札〉は、もっとも現世利益あらたかな〈お札〉なのです。
寛文元(1661)年、福井藩で全国初の藩札「福井藩札」が発行されると、藩札の発行は全国にひろまります。幕府が発行権を独占していた金・銀・銅貨が流通していたのは、江戸・大阪・京都の3ヶ所くらいだったと云うからおどろきです。
……と云うことは、諸国を行脚して、さまざまな悪をこらしめている水戸黄門御一行は、地方ごとに異なる藩札を使用しているのかもしれません。
「え、この藩札、ここじゃつかえないの?」なんて会話があればおもしろいのですが。閑話休題。
藩札は、技術的にも非常にすぐれたものでした。贋札防止策として、紙層のあいだに印刷した紙をはさみこんだり、すかしを入れたり、かくし文字や梵字、神代文字、オランダ語を印刷するものもありました。
鳥取藩藩札などは木版2色刷りです。また、司馬江漢は足守藩(岡山市)の藩札を腐食銅版画で制作したことでも知られています。
「山田羽書」登場以来、ずっと縦長のデザインだったお札が、横長のデザインに変更されたのは、明治6(1873)年の国立銀行紙幣・旧券からです。アメリカの印刷会社に発注制作されたことから「アメリカ札」とも云われます。
その前年には、ドイツの印刷会社に発注して制作された「ゲルマン紙幣」と云うお札もありましたが、それはまだ縦長のデザインでした。日本では「アメリカ札」以降、横長のデザインが定着します。
一方、世界に目を転じると、現在、世界に流通するお札で、表裏とも縦長のデザインなのはスイスだけです(※2005年現在)。また、表あるいは裏の片面だけが縦長のデザインと云うお札は、スペイン・ブラジル・エジプト・オランダほか数ヶ国に存在します。ただし、それらの国のお札すべてが片身がわり(表あるいは裏の片面だけが縦長のデザイン)と云うわけでもありません。
これまで世界で発行されたお札で、もっとも大きなサイズだったのは、明の漢武8(1375)年に発行された「大明通行寳鈔」だそうです。幅22cm、高さ33.8cm。A4とB3の間くらいのサイズです。
むろん、財布におさまる大きさではありません。藁と桑の皮の繊維でつくられているこのお札は、紙質が弱いため、折りたたむこともむずかしく、当時の人々が、このお札をどのようにあつかったのか、なぞとされているそうです。
ちなみに、もっとも大きな単位のお札は、1946年、超インフレに見舞われたハンガリーで発行された10垓ペンゴ札です。10垓とは「1,000,000,000,000,000,000,000」。0が21個ならぶと云うとほうもない単位です。
額面は数字ではなく言葉で「EGYNILLIAD B-PENGO 」(10億京ペンゴ。すなわち10垓ペンゴ)と書かれていました。現実は「1億円札」などと云う冗談よりも、よほどスケールが大きく、よほど皮肉と云えます。