第7回:美術の右利き左利き〈4〉
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文章をよむ方向が、多大な影響をおよぼしたゲージュツは、ほかにもあります。絵巻物、あるいは、マンガです。
「マンガに登場する人物のかおは左むきがおおい」と、まえにのべましたが、これは日本語の文章の「たてがき」にゆらいします。
絵巻物やマンガは「たてがき」にそくして画面やページが右から左へながれていきます。端的に云えば、左がわにあるものほど、時間的にのちのできごと(未来)になります。
画面の進行方向が左なので、時間的空間的に準ずるのであれば、どうしても左むきのかおにならざるえません。そのため、マンガに登場する人物のかおは、左むきがおおくなるのです。
複数の人物が登場するばあいも、会話(発言)じゅんに、右から左へならばせたほうがスッキリします。
フキダシの文字が、この文章のようによこがきだと、絵のむきはぎゃくになります。かつて、欧米で翻訳された日本のマンガは、絵を左右反転させて出版されていました(マンガで日本文化にふれた欧米の人たちは、マンガの登場人物がほとんど左利きなので、日本人は左利きがおおいと誤解されたかもしれません)。
現在は、マンガが日本文化(芸術)としてひろく認知されたこともあり、欧米で翻訳されて出版されるとき、絵が反転されることはなくなったそうです。
それでも、フキダシの文章の方向と反対にページをめくっていかなければならないので、なれるまですこし違和感がのこるとおもいます。
絵巻のみならず、日本絵画は、ふるくから書と画が緊密なかんけいにあるため、画面のもつ方向性(時間のながれ)が「たてがき」によって、右から左へと強調されてきましたが、西洋絵画は画中に文章をかくことがすくないため、日本絵画ほど画面の方向性は意識されていないようです。
その伝統は欧米のマンガにも連綿とうけつがれています。欧米のマンガでは方向性が強調されるときこそ、右むきのかおであるにもかかわらず、ふつうにたっている場面やかおのアップともなると、右利き偏重の性で、とたんにかおが左をむくこともすくなくありません。
おそらく、欧米のマンガの絵を反転させてみれば、わたしたち日本人はかなりの違和感をおぼえることになるでしょう。たかが「マンガ」にさえ、文化の差異はあらわれます。
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さいごに日本の禅宗における頂像(僧侶が悟りをえたあかしとして、師匠からあたえられる祖師の肖像画)についてかたろうとおもいます。
じつのところ、頂像は右むきのかおがおおくえがかれています。しかし、これは手(身体)の思考や、目(脳)による美意識とはかんけいありません。やはり「たてがき」ゆらいなのです。
頂像における右むきのかおは「たてがき」のもつ右から左へのながれをうけとめます。すなわち、見る人の視線をうけとめ、むかえいれるようすをあらわしています。これはえがかれた祖師が見る人よりとおとい存在(霊的に高位)であることをしめしているのです。
「ちょっとまて。左むきのかおの仏画もおおいぞ」なんて、もの云いをつける人がいるかもしれません。
しかし、神仏はさいしょからふつうの人間とはことなる図像でえがかれているため、ことさらかおのむきでとおとさを強調するひつようがないだけのはなしです。
よしんば、左むきのかおでえがかかれた『不動明王像』を観て「あ、おとなりの田中さんだ」と云う人がいたら、それは田中さんのふりをしている不動明王だとおもってまずまちがいありません。
もっとも、背中に炎をまとい、剣や羂索をもった田中さん(不動明王)が「夕食つくりすぎちゃって。よかったらたべて」なんて、肉じゃがをおすそわけしてくれるともおもえませんが。
〈おわり〉




