第6回:消されかけた絵師(評伝・海北友松)〈3〉
3
海北友松は茶人でもありました。戦国大名でもあった茶人・古田織部のもとで茶の湯をたしなんだ友松は「古織の四哲」のひとりに名をつらねるほどです。
おなじ古田織部の茶の湯の弟子には、豊臣秀吉の家臣・石田三成もいました。かれは慶長3[1598]年に友松をともなって筑紫へ下向しています。とちゅうで宮島の厳島神社へよって『平家納経』を観るなど、優雅な旅だったようです。
武家とのかかわりで云えば、友松は、かの剣豪・宮本武蔵に絵の手ほどきをしたともつたえられています。
それ以外にも(時代は前後しますが)、海北友松の交遊録に欠かせない武家が、もうひとりいます。
斉藤内蔵介利三(天文7~天正10[1538~82]年)です。かれは明智光秀の配下で、天正10[1582]年の変において粟田口で処刑されました。
前述した『海北友松夫妻像』の賛には、友松が東陽坊長盛と云う男とふたりで、処刑された斉藤内蔵介利三の首を奪回し、てあつく葬ったと云う逸話がのこされています。
さらに友松は、のこされた斉藤内蔵介利三の妻子のめんどうまでみたとつたえられています。じつは、これが『海北友松夫妻像』の賛をかいた友竹(友松の孫)の運命をかえることとなりました。
斉藤内蔵介利三の末娘は、のちに徳川家の大奥へあがって大出世します。かのじょの名は春日局(天正7~寛永20[1579~1643]年)。3代将軍・徳川家光の乳母にして、家光を将軍にした女性です。
春日局が一介の町絵師になりさがっていた友竹を将軍・家光のもとへ召しだし、御用を申しつけられるようにしたと云われています。時のたて糸と人のよこ糸は、時おりしんじられないような歴史を織りあげます。
これにちなんで作成されたのが、海北家の系図であり、前述した『海北友松夫妻像』なのです。
たとえば、徳川家康が征夷大将軍になるために家系図を捏造したように、おおくの人々が先祖をりっぱにたたえあげ、よりよい家系図を捏造しました。
そのため『海北友松夫妻像』の賛には、友松の父親が戦死したのは、天文4[1535]年の浅井亮政の多賀貞隆邸ぜめと云う「小ぜりあい」ではなく、天正元[1573]年の主家滅亡と云う「一大事」のおりに父兄も運命をともにしたとしるされ、源氏の嫡流で武門再興をねがっているとしるされたのです。
このようなはったりやでっちあげがきくのも、海北友松がすばらしい絵師であったからこそなのかもしれません。
4
海北友松はひじょうにユニークな絵師です。
「画工」と云う言葉もあるように、当時の絵師たちは職人であり、技術者でした。絵師たちは、どんな画風や画題でもえがけなければなりません。歴史に名をのこす絵師たちは、オールラウンダーであるうえに、作品からにじみでる個性や革新性で評価されてきました。
しかし、海北友松は同時代の狩野永徳や長谷川等伯ほどのオールラウンダーではありません。
友松は「梁楷様の水墨(草体)を得意とする」としるされたように、減筆体の水墨画には佳品が数おおくのこされていますが、友松筆と云われる『琴棋書画図』(フリア美術館所蔵)のような元信様式の真体でえがかれた作品は、ヘタでこそないものの、とくべつ上手と云うわけでもありません。
友松がとくいとしたのは水墨画です。そして、他の追随をゆるさぬほど強烈な個性をはっきしたのが〈雲龍図〉でした。その突然変異的なすばらしさは、絵師としてオールラウンダーではないかれの欠点をおぎなってあまりあるものです。
龍の顔面を大きくとらえ、カッチリとした濃淡でえがかれた友松の〈雲龍図〉は、あたかも龍の大首絵のようです。かれの〈雲龍図〉は、時の朝鮮国王に贈答され、たいへんよろこばれたと云う書状すらのこされています。
オールラウンダーの長谷川等伯ですら、友松の〈雲龍図〉には衝撃をうけたようです。
友松は慶長4[1599]年に建仁寺本坊大方丈障壁画(けんにんじほんぼうだいほうじょうしょうへきが)を手がけています。そのふすま絵のひとつである『雲龍図』をみたであろう等伯は、おなじ年に友松の作風を意識した『竜虎図屏風』をえがいているほどです(蛇足ですが、東洋における竜虎のモチーフは、西洋になるとゾウとサイであらわされるそうです)。
友松は「新意ヲ出シ墨画ヲ作」った絵師と評されています。友松の「新意」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
かつて、狩野元信は〈真体〉の水墨画に淡彩をほどこすと云った「新意」をうみだしました。
室町時代まで日本絵画のアカデミズムをになってきた土佐派の作品をみればわかるように、それまでの日本絵画に彩色をほどこすばあい、どこまでも平面的に色がぬられていました。
墨の濃淡による空気遠近法は確立されていましたが、色彩による空気遠近法は、ほとんどこころみられていなかったのです。色彩による空気遠近法をはじめてこころみたのが狩野元信でした。「新意」とは、このようにうまれてきます。
では、海北友松の創出した「新意」とはなにか?
それは〈真体〉の人物を〈草体〉の風景のなかへ配し、作品によっては淡彩をほどこす、と云うものでした。
「……それだけのこと?」と、あきれ声がきこえてきそうですが、これはあきらかに桃山画壇、東洋絵画の空隙・意表をついた「新意」だったのです。
それまでの水墨における空気遠近法は前景にピントをあて、中景から遠景へとしだいにかすむようえがかれてきました。
しかし、友松は〈草体〉の風景のなかに〈真体〉の人物を配しました。そのけっか、中景にピントがあたり、前景と遠景がかすむことになります。
たとえるなら、それまでの日本絵画は、人物と背景りょうほうにピントのあった写真しか撮れなかったのですが、友松の「新意」によって、人物にのみピントをあてて背景をぼかす写真が撮れるようになったと云うことです。
かれの「新意」は、金碧障屏画の金箔がつくりだす幽玄かつ幻視的な遠近感に匹敵するあたらしい空間表現・遠近法と云えるでしょう。
しかし、当時、この重要性に気づいた者は、ほとんどいなかったようです。この「友松様式」の確立により、それまで自然(風景)の一部分としてしかえがかれてこなかった人間の姿が強調されるようになりました。
あえて詭弁をろうするならば「友松様式」は、宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』において「シシ神殺し」のモチーフで表現された、日本人の「自然崇拝主義」から「人間中心主義」へと移行した桃山時代の空気をびんかんに察知したけっかなのかもしれません。
そしてまた、この「友松様式」と伝統的な細画による景物画・風俗画の混交が、初期肉筆浮世絵の誕生をうながしたようです。
「友松様式」の確立は、それまで世間から看過されていた友松の表現技法にあらためて目をむけさせました。けっかとして、海北友松の伝記に「袋人物の創始者」とあやまってしるされることとなります。
袋人物とは、禅宗絵画(道釈画)にみられる表現で、衣紋をつよくふとい線でえがいた人物画のことをさします。
このような表現は『達磨図』などにおおくみられ、かくべつあたらしいものではありませんでした。
むしろ、袋人物の第一人者は、室町時代の絵師・雪村と云えるでしょう。かれの作品をみれば、文字どおり一目瞭然です。
海北友松も雪村から影響をうけたようです。「友松様式」で再認識された袋人物の衣紋表現は、初期肉筆浮世絵、懐月堂派の諸作品にうけつがれていきます。
海北友松の「新意」がうみだされたはいけいには、狩野永徳や狩野派にたいする反骨精神があったのではないかとおもいます。
前述したように、海北友松はもともと器用な絵師ではありません。かれの「新意」は数おおくえがいているうちにしぜんと発展・展開したものではなく、むしろ理づめ、概念先行型であったとおもわれます。
それこそ、狩野元信などが「新意」をうみだした経緯をぶんせきし、のこされたかのうせいを取捨選択していったのでしょう。これこそ茶人・海北友松の真骨頂です(禅的要のつよい茶の湯は、概念先行型の芸術を数おおくうみだしたことでも知られています)。
しかし、皮肉なことに、友松の技術が、かれの発想を凌駕したとはおもえません。かれはけっしてヘタな絵師ではありませんが、オールラウンダーでもありませんでした。
ちゅうとはんぱに上手だったことが、ある意味わざわいしたとも云えるでしょう。友松の発想は、ひじょうに大きなかのうせいをひめていました。よしんば、かれに元信や永徳ほどの技術があれば、江戸時代中期の鬼才・曾我蕭白クラスの作品をものにしていたであろうことはそうぞうにかたくありません。
曾我蕭白は、およそ日本最高の運筆技術をもち、なおかつ桃山絵画、とくに海北友松の作品をかなり意識していたことが、のこされたおおくの作品からうかがえます。
曾我蕭白の『雲龍図』や『商山四皓図屏風』(袋人物表現の白眉。白隠の禅画からの影響も指摘されていますが、あるいは白隠の禅画もふくめて「友松様式」の影響下にあったのかもしれません)からは、海北友松の理想郷、その完成形をみてとることができます。
また、もしも、友松がもっとヘタな絵師であれば、日本における南画・文人画の開拓者たりえたかもしれません。かれの運筆技術が、かれの着想とおなじくらい狩野派からじゆうであれば、さらにゆたかな表現ができたことでしょう。
友松は最晩年に、むしろニガテとしていた金碧濃彩障屏画を手がけるようになります。〈草体〉の風景に〈真体〉の濃彩人物を配するその作品は、近代の日本画に肉薄しています。
唐美人を配した『琴棋書画図屏風』(東京国立博物館所蔵)などは、近代日本画とみまごうばかりのできばえです。
「友松様式」は期せずして、岡倉天心や横山大観、菱田春草などがおいもとめた「朦朧体(=りんかく線をえがかない日本画の技法)」の概念の足元にたっていたのです。
もちろん、近代日本画が「朦朧体」をみいだすためには、西洋的陰影法による空気遠近法とであうひつようがありました。
歴史にifはありませんが、友松がもっとわかいころに「友松様式」を確立していれば、どう云う作風の展開をみせていただろう? と妄想します。
ひょっとすると「朦朧体」の創始者なんて云われていたのかもしれません。
〈おわり〉




