第1回:竹久夢二の「美人画」
美人画には、あまり食指がうごきません。すました顔の美人画を見せられて「どや、美しかろうが!?」と云われても『笑っていいとも!』の観覧者同様「そうですね!」としかかえしようがありません。
美の基準が、画家の技量や想いではなく、モデルの美醜にすりかわるあたりもイササカ興ざめです。高橋由一『花魁図』では、モデルの女性が完成作を見て「ヒドイ!」と泣いたとか云う話を読んだおぼえもありますが、稀有な例と云えるでしょう(しかし、由一もきずついただろうな)。
喜多川歌麿と云えば、美人画の代名詞みたいな浮世絵師ですが、彼の絵に興味のない人が、ズラッとならんだ歌麿の美人大首絵を見ても、なにが美人かわからないだけでなく、おなじ顔がならんでいるようにしか見えないと思います。かつての私もそうでした。
今は見なれたこともあり、歌麿のえがく女性が美人であることはわかります。マンネリに堕さないよう、いろいろこころみていることもわかります。だからと云って、歌麿の美人に胸トキめくことはありません。「だからどおした?」そんな感じです。
上村松園も『序の舞』よりは『焔』や『花がたみ』のように、女の情念が表現されているもののほうが好きです。松園のえがく女性は清楚可憐で凛としています。しかし、あくまで「お人形さん」の美しさでしかなく、体臭や息吹が感じられません。そう云った作品に意義がないとは思いませんが、私の嗜好とはすこし異なります。
大正時代の日本画家、岡本神草や島成園、甲斐庄楠音は、女の情念や狂気をえがきました。かれらのえがいた「美人画」は、岸田劉生云うところの「デロリの美」が具現されていて、興味ぶかいものがあります。いわゆる正統派の美人画ではありませんが、そう云う絵画のほうがワクワクします。
ただし、誤解のないよう申しそえておきますが、あくまでこれは「絵画」としての話であって、現実の美人はスコブル好ましく思います。私に好意をよせてくれる気だてのよい美人であれば、なおさら望ましいのは云うまでもありません。コメントお待ち申しあげます(笑)。
冗談はさておき、美人画には興味のない私ですが、明治末から昭和初期に活躍した絵師・竹久夢二(1884~1934)の作品にはどこか心惹かれます。
「夢二美人」なる言葉があるように、竹久夢二のえがく美人は個性的です。どこかけだる気でものうげで寂しげで儚げで、そのくせアクが強いのです。
「頽廃的」と評された幕末の浮世絵師・渓斎英泉の美人画は、眼力が強く破滅的でサイケデリックな感すらただよわせていますが、夢二美人にそう云った積極性(?)は微塵もありません。
英泉が原色なら、夢二はモノトーンです。日本的叙情(情緒)にうったえかけるのは、原色ではなくモノトーンの世界だと思います。夢二美人は精神性において実に日本らしいと云えます。
夢二のえがく女には肉体がありません。線香の煙のように細くたなびく着物のその姿は、生きている女のそれではありません。前述した歌麿が、女のもつ肉体の生々しさ(量感)や柔らかな肌の質感を表現しようと努力したことにくらべると、夢二は観念としての女をえがいたと云えるでしょう。
肉体を感じさせないと云う意味では、鈴木春信の浮世絵につうじるものがあります(春信の浮世絵においては男女の性差もあいまいになります)。そして、肉体を感じさせない女(=精霊?)を美しくえがいているからこそ、夢二作品には女性ファンも多いのだと思います。
夢二のえがく女には肉体がありません。たとえば『紫色の春の夜』と云う作品には「……寝椅子にふかく身をよせて/金と赤とのおびをとく……」と云う詩句がそえられています。
色っぽい情景も予感させる詩句ですが、まっすぐに立つ着物姿の女の下半身はどんどん透けていきます。予備知識のない人に、円山応挙のえがく艶っぽい幽霊画と『紫色の春の夜』を見くらべて、どちらが幽霊画か判じてもらえば、夢二のえがいた女のほうを幽霊だと思う人も多いことでしょう。
夢二の作品には、常に死の不安や哀しみがよりそっています。顔をおおっている人の姿や、うしろ姿をえがいた作品も多い上に、風景画として墓場をえがいている作品や死んだ子の前で泣く夫婦をえがいている作品まであることにはおどろきました。夢二が「死」を大きなモティーフとしてとらえていたことは想像にかたくありません。
また、だれかを「待っている」女の姿をえがいた作品が多いことも、夢二の特色と云えるでしょう。
「待つ」と云うことは孤独であり、そこになければならないなにかが「欠けている状態」にあると云えます。そう云った「未完成」な状態は「喪失感」をもあらわしています。そして、前述した「死の不安や哀しみ」の背後にも「喪失感」がよこたわっています。
『待てど暮らせど来ぬ人を』と云う題名の作品が象徴するように、夢二の作品に待ち人がおとづれることはないようです。なぜなら、夢二作品は「死」と云う大きなモティーフにいだかれているからです。そこにえがかれていない人は「死んでいる」と云えます。
「さよならするのは、しばらく死ぬことだ」レイモンド・チャンドラーの小説に、そんなセリフがあったかと思いますが、音信不通の状態は、小義的な意味において「死」と同義です。
とどのつまりは、夢二の「待っている」と云うモティーフも「死」の一形態なのです。あるいは「死」そのものを待っているのかもしれません。
『黒猫を抱く女』と云う作品で、女がだいている黒猫は「死」の象徴と云えるでしょう。孤独に耐えかねた女が、寂しさのあまり「死」にすがると云う心理的状況をを表現しているのかもしれません(ちなみに、イギリスで「黒猫」と云えば、幸運の象徴です)。
ウサギは寂しいと死んでしまうと云う話をきいたことがありますが(ホントですかね?)、そう云う感じにちかいと云えるでしょうか?
「あたしあんまり寂しゐと死んでしまゐますのよ」
「未完成これ永遠の完成なり」と云う言葉があるように、古来日本の美意識には「欠けている状態」をよしとする傾向があります。
縄文時代の土偶ですら、最初から身体のどこかを欠けた状態にすることで「完成」とされたのだと云います。有名な遮光器土偶の片足が欠けているのは、こわれているのではなく、あえてこわしているそうです。あれで「完品」なのです。
本来の呪術的な意味が変容し、日本の美意識にまでたかめられたのでしょうが、何千年もの昔から日本には「未完成の美」と云う概念があったともかんがえられます。
日本の昔話にもおなじことが云えます。西洋的な昔話の観点から見ると、日本の昔話は「完結していない」と指摘されてきました。
「浦島太郎」では、竜宮のドラゴンを退治してお姫様と結婚すると云う話でもなければ、「鶴女房」では(女に化けた)鶴が去っていくところで物語がおわってしまいます。
西洋の昔話であれば、男が去った女をさがしにでかけ「結婚して幸せにくらしましたとさ」でなければ、おわったことにはならないと云います。西洋の昔話は結婚がゴールインなのです。
日本にも「結婚してメデタシメデタシ」と云う昔話はありますが、外国と比較すると数は少ないそうです。それよりも多いのは、前述した「浦島太郎」や「鶴女房」のように「1度手に入れた幸せが去る」パターンです。
ユング心理学者の河合隼雄は「無に帰す(元にもどる)」と云いますが、そこには「喪失感」がのこっています。この「喪失感」こそが「もののあはれ」であり「諸行無常のひびき」であり、日本的叙情あるいは美意識なのです。時代の寵児だった竹久夢二は、むしろ伝統的(古典的)な日本美の体現者だったと云えます。
しかし、私は夢二の作品をながめながら、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクの作品も連想します。「死の不安や哀しみ」「孤独」「女」と云うモティーフは、ムンクの世界観につうじます。
『思春期』や『病める子』と云う作品では、かそけき肉体をもつ少女たちが、闇夜で不安におののいていたり、諦念をもって死を待っています。夢二とムンクの「死」をめぐる世界を詳細に比較するのも一興とは思いますが、もう充分長い文章になってしまったので、この辺で擱筆いたします。
〈おわり〉
この文章は2008年3月8日にWebサイト『水羊亭画廊』に掲載したのち、amebaブログ『水羊亭随筆 Classics』へ転載したものです。