Lunaphobia【月に追いかけられる!】
プラントがシルクのような水蒸気を放っている。
作業灯の白い光芒が散らばり、建物全体を緑色にライトアップされたコンビナート施設だった。庶民が寝静まる時間帯でも不夜城よろしく稼働していた。
無数のガスタンクが林立していた。赤白の縞模様の煙突が天に長い指をさし、むき出しのパイプが葛のように絡みあい、そびえる高さまで挑んでいる。
プラントへつながる橋の真下で、融は己が肩を抱いて怯えていた。
作業着を通して、12月の冷気よりも、凍てついた戦慄のすき間風がしみ込んでくる。
雲間から今しも月が姿を現そうとしていたからだ。
真冬の黒雲が一瞬とぎれ、白々とした満月が顔をのぞかせた。融は悲鳴をあげた。
――月だ。
恐るべき均整のとれた円周の天体。
地球唯一の伴侶である衛星にして、まごうことなき恐怖のシンボル。
驚くべきことに、ぽっかり浮かんだ月が、突如海に落下しはじめた。
自由落下だ。初速はゆるやかだったが、しだいに加速度が増し、海面にぶつかって盛大な飛沫をあげた。
しばらく海面をほの白い燐光で染めたままだったが、やがて沈んでいった。
……ように見えた。
すぐに海上に浮きあがり、月の表側を向けて、こちらに弾んできたのだから度肝を抜かされた。
石切りみたいに海上をバウンドしながらこちらに迫りくる。
巨大な満月が。
遠近法からしてありえない。ナンセンスの極みだ。
融は悲鳴を押し殺し逃げた。月はいかんせん鈍重すぎた。必死に全力疾走すれば逃げきれそうな気がした。
プラントを目指して逃げた。
あの巨大なジャングルジムを隠れ蓑にすれば、追跡をふりきれるかもしれないし、月自体巨大なのだ。さすがに内部に侵入することはできやしまい。
もう少しで逃げおおせる、と思って背後をふり返ると、月はずいぶん小さく平面となり、フリスビーみたいに曲線を描きながらこちらに向かってきた。
まるでエンジンカッターの刃のように高速回転しながら追いすがる。
追いつかれたら、それこそ人体などたやすく一刀両断されてしまうだろう。冗談じゃない!
融は転がる勢いで近くのプラント内部に入った。
中は暗い。
窓から外を覗いた。
運動会の大玉転がしのサイズになった月が、窓の向こうをふらふらしながら偵察しているのを見つけた。
右から左へ平行移動していく。
融を捜しているつもりなのだろう。まるで意思をもった生き物だ。
融は壁に背中を押しつけ、息を殺し、闇に溶け込もうとつとめた。
心臓がドラムのような高速ビートを刻み、歯は陽気なカスタネットよろしくカタカタと打ち鳴らされる。
闇の中で、融のやけに白い眼だけがまばたきもせず屋外をにらんだ。
月はゆっくりと、青白い光を照射しながら移動していった。
融はそのサーチライトを頭を引っ込めてかわした。
見つかれば、ただちに内部になだれ込んでくるだろう。
前科一犯を食らうだけではすまない。もっと残虐な仕打ちが待っているにちがいない。
◆◆◆◆◆
なんで、いつもこんなふうになるんだろう……。かたく眼をつぶり、歯を食いしばって悪罵を吐いた。
クソッ!
いつもそうだ! 万人が見てもなんとも思わない満月を極度に怯え、怯えが嵩じて、その月が肉食獣のように襲ってくるのだ。
幻覚や妄想なんかじゃない。
あの巨大な物体は形を変えつつも、れっきとした人を死に追いやる刺客なのだ。
少なくともおれにはそう見える! 身内に相談したことがあるが、一笑に付されてしまって以来、誰にも話したことがない。
よく晴れた満月の夜は命がけなのだ。
満月はどうしてああも、怖気をふるうような形をしているのだろうか?
あの完璧なまでの円周はなんだ。少なくとも地球上の自然界には存在しない異質の存在じゃないか。
したがって、宇宙とは戦慄の空間であろう。月旅行への抽選が当選したとしても願い下げだ。誰が月なんかに近づくものか。宇宙飛行士になるべくNASAへ挑戦しようっていう人間の気が知れない。
せめての救いは、新月のときだけが心休まるが……。
これが日を追うごとに弦月となり、徐々に円形になるにつれ、見つめていると、うなじの毛がハリネズミのように逆立つ思いにさせられる。
完全な満月になるともうダメだ。
直視は耐えられない。脳みそが沸騰し、気も触れんばかりになる。
満月のそこかしこに開いたクレーターが禍々しい眼に見えた。とりわけ月面南部に見えるティコと呼ばれる巨大クレーターは生理的に訴えかけてくるものがあった。
キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』では、モノリスが埋められたとされる直径85キロメートルもの円形窪地のことで、1,500キロメートルにおよぶ放射状に走った光条までもが強烈すぎた。
まるであの窪地から、眼球が現れるのではないかと、いらぬ妄想がこみあげてくる。
融は闇の中で身体を丸めたまま月をやりすごした。
奴はあさっての方向へ行ってしまったらしく、すっかり青白い燐光も見えなくなった。
鉄の構造物から外に出てみた。
プラントから吐き出された蒸気で、あたかも雲海を泳いでいるかのようだ。
周囲を見わたした。
あれの姿は見えない。
上を仰いでみたが、夜空のもといた場所におさまっているわけでもない。
まいたようだ。
とてもこんな心理状態で職場に復帰する気にはなれそうもない。
バックれることにした。
どうせ夕勤の終業間近で、次の交替勤務者と引き継ぎの時間帯に飛び出してきたのだ。融一人消えたところで、大所帯の工場では不審に思う人間は、ほとんどいやしない。
内地につながる橋を渡ろうとしたときだった。
満月はごう、と音を立てて中空に浮かんだ。
あいつは橋脚の下に隠れていたのだ!
待ち伏せだ、と思ったのも束の間、猛然と迫ってきた。
融は回れ右をすると、悪態をつきながら逃げた。
クソックソックソッ!
やっぱり出し抜くことはできない。
建物と建物の間を走り抜けた。
プラントが白い吐息を洩らし、海風が死者を偲ぶ口笛を吹き、どこかでスパナを放り投げて床に当たったような甲高い音がこだました。
月がジグザグに揺れながら追いすがる。
まるで弄ぶかのように、わざとゆっくりと迫りくる。
本気を出せば、ものの1秒であの世送りにできるにちがいない。
――月はおれをどうするつもりなのか?
接触されることによって、融を吹っ飛ばし、殺すつもりか?
それもたやすいだろう。ぶつかれば、いとも簡単に背骨を砕くことができるだろう。
それとも、瞬間的に人体を氷づけにしてしまうのか?
月の表面温度は赤道付近で昼は110度の熱砂地獄にして、夜ともなれば-170度もの超極寒。温度差は桁ちがいだ。
はては、満月がバクリと大口を開け――内側にはビッシリと三角形の牙がならんでいるに決まっている――、融の肉体を食いちぎり、噛み砕くとでも?
わからない。
しかしながら、本能的にわかることはひとつだけある。
追いつかれることは死を意味するのだ。
つかまってはならない。
つまり、逃げるしかない。
入り組んだプラントの狭い回廊に転がり込んだ。
できるだけ、あの生ける大玉転がしが入り込めないスペースに逃げるんだ。
パイプの梁をかいくぐり、暗渠に身体をすべり込ませた。
足もとに得体の知れない汚染水が流れている。おかまいなしに進んだ。
うしろをふり向いた。
立ち往生していた月が、またぞろ平面へと化ける、まさにその瞬間を見た。
高速回転しはじめた。
エネルギーをたくわえているのがわかる。
そら、エンジンカッターのおでましだぞ!
地面に接すると盛大に金色の火花をまき散らし、暗渠を転がってきた。
融は悲鳴をあげた。
月の変幻自在ぶりに、もはや打つ手はないのか……。
いっそのこと、あいつに切り刻まれて楽になりたいとすら思えてくる。一瞬でこの世から決別できるだろう。しんどい3交替の仕事から解放されるというものだ。
だが身体が反応していた。
手近なパイプにつかまると、上によじ登った。
4メートルほど真上にプラントからプラントにつながる歩道橋が見えたのだ。
あそこにもぐり込めば、活路を見い出せるかもしれない。
円盤が迫ってきた。
融はパイプにしがみつき、できるかぎり身体をもちあげて縮こめた。
すんでのところで高速カッターをかわした。
月は唸りをあげて通りすぎた。北朝鮮のミサイルみたいに物騒な奴め……。
あいつはサディストだ。また戻ってくる前に逃げなくては。
全身全霊の力で身体を引っ張りあげた。
懸垂し、歩道橋に足をかけ、よじ登った。
月が反転してきたのはほぼ同時だった。
反対側のプラント内に飛び込んで、鉄扉を閉め、閂をかけた。
しゃがみ込み、扉にもたれ、肩で息をする。
どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ……。
うかうかしていられない。
扉の向こうで鉄材をダイヤモンド・ブレードで烈しく研磨する、けたたましいメロディが聞こえてきたからだ。
あいつはすぐさま歩道橋まであがり、文字通りエンジンカッターで扉を破ろうとしているのだ。
いかなカッターをもってして、厚さ1,2ミリを誇る防火戸はおいそれとは断ち切れまい。わずかではあるが時間は稼げるはずだ。
◆◆◆◆◆
思えば、おれは満月に監視されて生きてきた。
なぜおれが選ばれたのか、わからない。
子どものころからだ。満月が怖くて怖くて仕方ないと思ったのは。
遊びから帰宅するのが遅くなったのがはじまりだった。
責めるかのように、満月が帰途の融を追いかけてきたのだ。
まるで母の代理のように、なじるような眼差しを向けて……。
それにしても、月。
世間一般では中秋の名月の夜に供え物をし、月を愛でるのが習わしだ。月を眼にし、髪の毛が逆立つ人間などめったにいるまい。
その月だが、メルヘンチックなことに、古来から月でウサギが餅つきをしていると信じられてきたものだ。
これは昔、中国から入ってきた説話から来ているとされている。
古代中国では、玉兎、月兎などと呼ばれ、月のウサギは杵を手にし、不老不死の薬をついていると考えられていたという。
これが日本に伝播されると、餅をつく姿に変化したとされている。
というのも、日本における満月を表す言葉の『望月』が転じて『餅つき』になったとか。他にも「老人のために餅つきをしている」だの、「ウサギが食べ物に困らないように」という諸説もあるようだ。
いかさまだ。融にとっては、月を肯定的に祭りあげるための詭弁にすぎないと思う。
むしろ、月面の織りなす黒い紋様は、母体の子宮内で成長途上の、逆さになった胚胎に見えて仕方がないのだ。
月の左下の黒い斑模様が逆さになった胎児の頭にあたり、『雨の海』が丸まった胴体で、『静かの海』から『豊穣の海』にかけてが縮こまった脚にあたるように見えてしまう。
まさしく月に刻まれた水子に他ならない。
なぜかあいつは、おれを恨んでいるんだ……。
休憩は終わりだ。そろそろ行かないと。
2階から階段をおりた。
資材倉庫らしい。融がはじめて足を踏み入れたエリアだった。
助けを呼ぼうと誰かいやしないか、まわりを探した。
クソッ、こんなときにかぎって、人っ子一人いやしない!
下に着くと、退路を確認した。
資材を搬入するシャッター開きの出入り口がある。右手にスイッチ。
融は押してシャッターをあげた。
くぐれるほどの高さまでになると、スイッチをとめ、もぐり込んだ。
数台のフォークリフトが整然と停まっているエリアに入った。
背をかがめ進んだ。
背後でバタンと、鉄板が倒れる音がした。
奴め、もう扉を切断したらしい。
グズグズしていられないぞ!
リフト置き場をすぎ、トラック搬入口まで来た。
納骨堂みたいにうすら寒く、どんよりと暗かった。
すぐに1階のシャッターを断ち切った白い円盤が追ってきた。
どうやら月は、おれを逃がしてくれる気はさらさらないらしい。
もはやケツまくって、対決するしかないのか――。
満月がもとの球形へと姿を変え、ずい、と近づいてきた。
のしかかるようにそれは大きくなった。
白い燐光が輝き、明滅をくり返した。
月面南部にあいたティコの円形窪地に亀裂が入った。
音もなく割れて、なにかがむき出しになった。
やっぱりだ……。
人間の片目が現れた。
まばたきもせず、ぎろりと見開かれたまま、融を非難するかのように見つめた。
白目の部分には血走った毛細血管まで見えた。
黒目が融を見おろし、まさぐるように融を求め、捉えると、なじるかのように射抜いた。
夜空に向かって融の断末魔の絶叫があがったが、おびただしいプラントががなり立てる音響にかき消された。
了