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第八章

 朝の薬の時間が終わり、中庭へ出て読書をしていると、第三病棟の若い看護婦さんが、患者と一緒にしゃぼん玉を飛ばしはじめた。しゃぼん玉は桜の花の方へ飛んで行ったり、講堂の庇を越えて空へ消えて行ったり。それを病棟の窓から見ている人も、いつも煙草を喫う場所と決められている四阿(あずまや)で見ている人もいる。青空はいよいよ深く、小さな雲が生まれたり消えたりしている。病院のフェンスの遥か彼方に天子ヶ岳の連山が見える。広い芝生の上では白沢さんという若い看護師と磯野君とがさっきからキャッチボールをやっている。おっ、磯野君、なかなかいい肩をしている。白沢さんのグラブに小気味よい音が響く。看護師の栗栖さんがバレーボールのボールを持ち出した。第三病棟の人が集まり出してトスをはじめた。お年寄りは日陰に集まって、その様子を面白おかしく見守っている。しゃぼん玉が二つ三つ、講堂の屋根を越えて空へ上り出した。のどかで平和な風景である。日が高くなり辺りは少し眩しくなってきたので、庇の下のベンチへ移る。桜はいよいよ花びらを散らして、しゃぼん玉の一つ一つと無邪気に戯れているようにも見える。何と言う善良でやさしい風景なのだろう。僕もこの人達も本当は凄く不幸なはずなのに、看護師さんたちの計らいの所為だろうか、春の日の中にこうして身をおいているだけで、凄く幸せな気持ちだった。

 むくげの苑へ行ってから、僕の生活態度が微妙に変わった。

 六月に入って、まず日記を書きはじめた。最初は思っていることのみを綴った、長い日記だった。文章の形としては詩文に近い。僕はこれまでも日記のようなつもりで詩を書いてきたから、詩文の方が続けやすいと思った。そのうち退院してしばらくしてからは、それが事実のみを記したものになった。スタイルは変わったけれど、日記は未だに続いている。

 もう一つは、病棟の患者の洗濯物を畳むことである。僕の部屋は廊下の突き当たりにあり、そこのドアを開けると中庭へ出られるのだが、そのドアを出たところの階段を下りて外へ出てすぐのところに、大きな洗濯機と乾燥機がある。そこで洗った衣類は一七号室、つまり僕の部屋に運ばれて、畳まれる。その作業は、看護師の他、手伝いたい患者が手伝うのだが、僕はこれまでそれをやったことがなかった。しかし、ゆくゆくは一人暮らしをする身なのだから、洗濯物ぐらい自分で畳まなければいけないと思い、始めたのだった。佐田さんという患者の畳むのが非常に上手なので、参考にさせてもらった。

 夏、夕食が済むと、院内は急にのんびりした空気に包まれる。多分看護師さんのほとんどが帰ったのと、お腹が膨れたからだろう。横沢さんの部屋の方から、ラジオの野球中継が流れて来る。巨人戦だ。相手は阪神だろうか、広島だろうか。あの頃は長嶋さんがまだ監督で、原さんはヘッドコーチになっていた。巨人が凄く強かったのを覚えている。投げているのは上原だな。いつものテンポのいい小気味よいピッチングで好投しているようだ。あ、大歓声が聞こえる。高橋由伸がホームランを打ったようだ。横沢さんのいつもの名調子が始まった。横沢さんは野球のアナウンサーの声に時々合いの手を入れながら、将棋仲間の島田さんと将棋を指すのがいつものことだった。こういうノリのいい将棋は見ていても面白いし、本人たちも楽しいのだ。やっぱり娯楽というものはこうでなきゃいけない。磯野君はまた臼井さんのベッドを占領し、腹を掻きながらTVを見ている。三田君はテーブルを出して今日一日の日記をつけている。臼井さんはロビーへ行って巨人戦を見ているのだろう。勝利さんはベッドに座って昼間貰ったお菓子を食べている。鎌倉さんが来る前に食べ終えないと大変だ。新井さんはもう寝ている。町村さんはベッドの上でぼんやり飴でも嘗めているようだ。三田君の日記が終わるのを待って、僕も詩の推敲に取り掛かることにしよう。

 お盆を過ぎ、講堂の取り壊しが始まった。物凄い重機の音がする。まだ暑い時候なので、窓は開けざるを得ないから、その音はかなりのものだった。そのため患者はしばらく外へ出られないことになった。が、そのかわりといってはなんだけれど、いいことがあった。

 バスをチャーターして遠足に行くというのである。目的地は朝霧高原田貫湖畔。お弁当を持って行くのだ。病院の隣の同じ系列の養護老人ホームの駐車場からバスに乗って出かけた。

 大月線をバスはひた走る。車窓を流れてゆく風景の美しいこと。まるでパノラマを見るような気持ちで、僕は世界を見た。生まれたばかりのような風景がそこにあった。

 二〇分ほどで目的地に着いた。真正面に王様のような富士山があった。空はどこまでも澄み渡り、山の紅葉が瞳を射た。山々が誇らしげに輝いて見えた。湖畔にはテントを張っている人達もいた。僕は周囲の風景に圧倒されていた。

 看護師の上林さんの先導で、有志を募り、田貫湖畔を一周してみることになった。僕も参加したが、みんなの歩調が合わないので、途中で止まっては、後ろの人が来るのを待って歩き出すというのを幾度も繰り返した。しかし田貫湖畔は山野草の宝庫で珍しい草や花が沢山あった。紅葉もそろそろ見頃で、空気も美味しいし、入院生活の退屈さから解放されて、僕は自分が生きていることを痛切に感じた。

 お弁当の時間になった。お弁当に何が出たのかもう覚えていないが、お昼が終わって茣蓙に横になっていると、徒雲(あだぐも)が空を流れているのが目に映った。徒雲は空のあるところまで来ると、そこで消えてしまう。他の雲もその辺りまで来るとふっと消えてしまう。不思議に思っていつまで空を見ても見飽きなかった。

 その話は何の前触れもなくやって来た。一〇月一八日、看護長が来て、家へ電話をかけ、親に病院へ来てもらうようにと言われた。むくげの苑への入所が決まったらしい。家に連絡したが、従妹の病気で明日は来られないとの返事だった。二〇日、父が来て、中嶋さんとの面接で退院は一〇月二三日月曜日、入所は準備もあることだからと父と話し合って、一日余裕を持たせて二四日にした。嬉しいと言えば嬉しいが、あんまり急なので心の準備が出来ていない。とにかく荷造りを済ませ、その日を待った。といってもすぐだ。金曜日に決まって、すぐに土曜、日曜が来て、もう月曜日なのである。今日はさすがの父も九時前にはやって来ないだろうと思ったが、やはり待ち切れなかったらしく父は八時五〇分にやって来た。僕はわざとゆっくり病室を出た。

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