第七章
この年の三月頃、診察の時、担当の医師から初めて援護寮の話が出た。援護寮は市内にあり、そこは僕の実家からも近く、作業所もあって社会復帰に最短のコースのように僕は話を聞いて思っていた。ケースワーカーの中嶋さん(登場人物名は全て仮名である)という人が、何かというと僕の病室までやって来て、援護寮に関する素朴な質問に答えてくれた。何でも、作業所ではポケットティッシュの袋詰めなどをやっているらしい。収入としてはあくまで福祉の施設だから期待は出来ないらしいが、それでも入院生活の無為な毎日から脱却できるのではないかと、僕の心にひとかけらの希望が生まれた。担当医師の甘木のぞみ先生(信之先生の奥様である)から援護寮のパンフレットや、寮の規則・決まりごとが書かれたプリントなどを貰って、不安になったり過剰な期待をしたりの毎日に明け暮れていた。
これは中嶋さんからだったか、のぞみ先生からだったかはっきりとした記憶ではないが、一度援護寮と作業所を見学に行くという話が持ち上がった。5月のことだった。磯野君も既に見に行ったらしいが、彼は僕の悪友で、何かというと臼井さんのベッドに寝そべってTVを見ている。僕は彼の大きな腹を叩いて(磯野君はご存知のように大食漢でかなり太っていた)援護寮のことを聞き出そうとしても、「行けば判るよ」の一点張りで、それ以上何も答えようとはしない。とにかく行って見るしかなさそうだ。その時は父を同伴して父の車で行くことになった。
僕の予想では、福祉の援護寮なんてものは、旧いアパートを改築したぼろぼろの建物に違いなく、部屋は擦り切れた畳敷きの狭い部屋にぎしぎし音のするような二段ベッドが置いてあるんだろうと思っていた。事前に知っていたのは二人部屋で、机があるという話だったから、想像では畳敷きだから、正座する式の安物の今時珍しい机かとも思っていたのだけれど、驚いたことに援護寮は築五年ほどの鉄筋コンクリート2階建てで、各部屋はフローリング、冷暖房完備の近代的な建物だった。その時施設「むくげの苑」の園長という人に会ったが、以前のぞみ先生に貰ったプリントには規則だらけでがんじがらめのようなことが書いてあったけれど、園長が言うには、そんなことは気にしなくてもいいということだった。ワープロも持ち込んで自由に使ってもいいということだったので、それまで不安に感じていた心配は雲散霧消した。ただ、ここはあくまでも一時的に入居して社会復帰のリハビリを行う施設であるから、寮には最長で三年しかいられないため、3年の間に社会復帰して、一人暮らしを始めるという目標に向かわせる目的のための施設であるという説明も受けた。作業所の様子も見学した。作業の内容は単純作業で、難しいことをやっているような感じではなかった。けれど、以前むくげの苑にしばらくいたことのあった晴美さんに、作業所の月収について聞いてみたことがあったのだけれど、出来るだけ能率よく働いても、月に六〇〇〇円くらいしか貰えないよと彼女は言っていた。そんな金額ではいくら福祉施設で家賃が安いといっても、とてもじゃないが何の足しにもならない。ほんの小遣い程度の額だ。やはりこの歳になっても、親の脛をかじらねばならないのかと、その時は思ったが、元々僕は単純作業に向いているところがあって、要するに根を詰めるのが好きなのであるから少しは上乗せ出来るのではないかと、小さな望みを抱くような気持ちにもなったのだった(入所後一年あまりの努力の結果二万円を超える月収を取れるようになったが、それが限界であった)。ただ、ここは町に何軒もない精神障害者の授産施設の援護寮であって、入居希望者が多く、入居は順番待ちであるということで、今の段階では、入居はいつになるかわからないとも釘を刺されたのだった。しかし、寮にはこれから出て行く人が数人いるから、遅くとも年内には入居出来るかも知れないと中嶋さんに言われたのだった。このことをきっかけに僕の目の前には一つの道筋が出来た。




