第三章
最初の外泊は、八月の下旬だった。一泊二日で、朝九時前、父が迎えに来た。実家は妹が赤ちゃんを産んだばかりで、少し家の雰囲気がナーバスになっていた。外泊の予定がなかなか組めなかったのも、その所為であったらしい。それに僕がまた暴れるのではないかと案ずる向きもあったようだ。以前から参加していた詩の同人誌「みゅう」も会誌を次々出していたので、外泊で僕がやったことは、小為替を買ったり、入院中書いた詩や随筆をワープロ清書したりと、そんなことで一日半の時間は終わってしまった。ただ、この外泊で両親共に僕が切れる兆候のないことが判って、以後月に一度は外泊が許されるようになった。それでも一泊二日がほとんどだったが。
この外泊の直後だったか、部屋を代わることになった。新しい部屋は、最初の入院の時と同じ部屋で、部屋には大きなTVがある。部屋の人を紹介してみる。(登場人物名はすべて仮名である)
臼井さん。
この部屋のリーダー的存在で、僕にも馴染みの深い古顔である。何でも仕切るのが好きで、給食の台車の係を大昔からやっている。折り紙の名人でもあり、薬の時間に、飲んだ後の薬の包みを入れる紙の入れ物を、暇さえあればせっせと折っている。これとは別に紙折りの内職のリーダーもやっていて、看護師から重宝がられている。オーディオ・マニアでもあって、一〇〇万円以上もするアンプの話などさせると、とたんに眼が輝き出し、堰を切ったようにしゃべり出す。彼の言によれば、アンプには出来るだけ金をかけた方がいいが、スピーカーは安くてもいいものがいくらでもあるとのこと。ただ彼は、入院して二〇年にもなるため、CDというものを知らない。音質がいいといってもどのくらいいいのかと、僕も彼に問い詰められて困ったことがある。僕の隣のベッドの人である。
新井さん。
臼井さんの隣のベッドの人で、おっとりとした、心のやさしいハンサムなお兄さんである。ちょっと若い頃の長嶋茂雄さんに似ている。普段、僕のギャグに喜んでくれる人で、楽しいと奇妙な振りで踊り出す。ただ哀れなのは、薬の影響で失禁というか、寝小便をする人で、そのため、朝などとても辛そうな目をしていたのを思い出した。身体は大きく、太いというよりは逞しい体つきで、今でも思い出すのは彼の天真爛漫な笑顔である。
町村さん。
町村さんのお兄さんは甘木市の市議会議員だそうで、僕はそのことを臼井さんから聞いた。町村さんはそういうことを自分から話すような人ではなく、他のどんなことも、自分から進んで喋らない。暗い人かと言うとそうでもなく、ただ穏やかな顔でベッドに座っているのである。
三田克生君。
非常に真面目で、素直な青年なのだが、この部屋で一番の困った君である。何でもない時に絶叫するのである。何でも昔、虐められた経験や虐げられた過去が、津波のようにフラッシュ・バックして叫ばずにはいられないらしいが、その叫び声をいつも聞いていなければならない僕らは、いい災難である。それに何事にも我慢が利かず、すぐ切れる。喧嘩っ早いのだ。何かというとすぐ口論の相手と掴み合いの大喧嘩になる。止める側の看護師には目が離せない患者で、しょっちゅうベッドに脚を縛られている。その欠点を除けば、非常に純真な若者で、アイドルの頃の広末涼子のファンであり、新聞などに載った彼女の写真を集めているそんな一面もある。早朝の部屋の掃除とかも誰に言われたわけでもないのに、せっせとやって、看護師に感心がられているような一面もある。
杉山勝利さん。
気の弱い人で、よく菓子などを鎌倉さんらにせびられては、断れずに渡している。知的障害があるらしく、同じことを何度も繰り返し喋る。たとえば、
「お茶美味しいですね。お茶大好きですよ」と言いながら、空のコップを、背をのけ反らせて最後の一滴まで飲み干そうとする。
「馬場さん、死んじゃった。ジャイアント馬場さん。馬場さん好きだったですよ。馬場さん、死んじゃった」
「お母さんに逢いたいよう。逢いたいですよ、お母さん」
彼の父親は軍人で、母親は若くして戦争未亡人になった。そして女手一つで勝利さんを育てたらしい。けれど、その母親も勝利さんの入院中に亡くなった。でも彼はそのことを知らない。いや、看護師にはいつも言われているけれど、自分がこの目で見るまでは、母親がどこかで生きているのだと、思われてならないらしい。
「お茶好きですけれど、ビールも美味しいですねぇ。ビール飲みたいですねぇ。ビール大好きですよ」
彼はパーキンソン症の気があって、箸での食事ができないため、彼だけロビーで食事を食べている。また病的に几帳面で薬を飲みに行くためにスリッパを履く段階で止まっている。何をしているのか見ていると、スリッパの置き方を直しているらしい。じっとスリッパの位置を微調整して、理想の置き方に直す。そうしないとスリッパを履くこともできないのだ。長いと三〇秒でも一分でもやっている。それの世話を焼く長谷川さんというお爺さんがいて、長谷川さんは自分の監督がないと、勝利さんは何もできない人なのだと、確信しているらしい。何かと言うと彼に罵声を浴びせて、自分の言う通りのことをやらせようとする。それを看護師さんに見咎められて、他所の遠い部屋へ移されたこともあったが、それでも勝利さんのところへ来て世話を焼くのだ。




