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──中学の頃、「グループ交際」というやつをしたことがある。
三対三の男女の友人同士がペアになり、一緒にどこかに遊びに行ったりするという、非常に他愛のないものだった。そもそも誰が言い出して、どういうきっかけでそうなったのかも覚えていない。交際、なんて呼ぶよりは、はっきりと子供の遊びの延長線上にあるものでしかなかった。
それでも僕は、それなりに真面目に考えていたんだ。
僕の相手になった女の子は、勉強だってまあまあ出来て、可愛くて明るい子だった。彼女の求めに従って、僕は毎日まめに電話をしたし、誕生日には、迷って悩んでちゃんとプレゼントも用意した。手を繋いで歩く時には、誰かに見つからないかとヒヤヒヤしながらも、ほんのりとした甘い気持ちになってドキドキと胸を上ずらせたりもした。
彼女から貰った手紙には、「藤島君、大好き」という、ハートマーク付きの言葉が書かれていて、僕はそれを誰にも見つからないように、そっと机の引き出しの奥深くに、大事にしまい込んだものだった。
……けど、それも、ほんのふた月ほどのことだ。
きっと、彼女はその時点で、いろんなことに飽きてしまっていたのだろう。もう電話はいらない、と唐突に言いだして、理由を訊ねる僕に、あっさりと笑いながら答えた。
「だって藤島君って、思ったよりつまんないんだもん」
僕はかなり傷ついた。
つまんない、と言われたことよりも、彼女にとって僕という存在は、そんな風にしてすっぱりと切り捨ててしまえるものであったことを思い知らされたからだ。
「こんなの、もともと遊びじゃない」
とも、彼女は言った。残酷なほど、まったく迷いのない笑顔だった。
そうだね、と僕は返した。頑張ってなんとか笑みらしきものを浮かべて、「遊びだよね」と、彼女と同じく軽く聞こえるように。
でもその時、僕の中では確かに、何かが音を立てて壊れてしまった。
それはもしかしたら、幻想とか、恋心とか、そういうものだったのかもしれない。あるいは、もっと別のものだったかもしれない。
その時の僕は今よりもずっと子供だったけれど、少なくともそれは、僕にとっては大切なものだった。
今も、僕にはよく判らない。
……付き合うって、誰かを好きになるって、どういうことなんだ?
***
結局、そのまましばらく僕は、世良と南、および南の「知っても知らなくてもまったく何も変わらない、知っていても実生活において何ひとつ役に立たない豆知識」に付き合って、部活に行くのが大分遅れた。
──なんなんだ。
所属しているテニス部の部室に向かいながら、僕は大いに混乱していた。
世良と南が付き合っているというだけでもかなりの衝撃だったのに、その南というやつは、何か、どこか、ヘンだった。
一見、地味で真面目で常識人っぽいのに、部分的に、非常におかしなところがあるような気がしてならない。どこがおかしいのか、と訊ねられると、はっきり説明できないのだけど。
そして、どこかヘンな南の、どこかヘンな話を聞いている時、世良がずっと楽しそうにしていたことも、僕には驚きだった。
世良は昔から、適当に相手に合せることが得意だ。それなりに、陽気に場を盛り上げたりするのも上手い。
けど、僕は知ってる。
中学の頃から何をさせても一定以上のことが出来た世良は、なんとなく、世の中というものを舐めてかかっているところがあった。だからなのか、世良にはいつも、一部が醒めているような雰囲気がつきまとっていた。
なんでも「そこそこ」出来てしまうから、何に対しても夢中になれない──という感じが、常にあった。
女の子と付き合っていても、遊んでいても、友達と騒いでいても、どこか少しつまらなさそうだった。
けれど、南と一緒にいる時の世良からは、そういうところがまるで見えなくて、僕は驚いたのだ。どこまでも真面目に話している南にいちいち茶々を入れ、感心し、ツッコミを入れては大笑いする世良の態度に、「適当に合わせている」ところはないように見えた。
世良は本当に、心の底から楽しそうだった。
「あ」
クラブハウスに到着し、二階の部室に向かうため階段を上りかけたところで、後ろから短く声が上がった。
振り向いた僕は、そこにいた女の子の顔を見て、どうしていいか、ちょっと迷ってしまう。
普段なら、軽く挨拶をして二言三言の簡単な会話を交わすところだ。だけど、さっきの今で、何気ない表情を取り繕うのは、僕には困難だった。
「どうしたのー、今日は遅いじゃない、藤島」
にこっと笑いながら、からかうような声を出す彼女のほうは、いつもと特に変わらない。
短い髪、そばかすのある日焼けした肌。手にラケットを持ち、すらりとした身体には、白いテニスウェアがよく似合っている。
いかにも活発ではきはきした性格のこの女の子が、あの南と友達だということを、僕ははじめて知った。
「野間は、何してんの。もう練習始まってるんだろ」
なんとか返事をしたが、目線は彼女から外れて、階段へと向いた。普通の声を出そうと意識したせいか、妙にぶっきらぼうな口調になってしまう。
「忘れ物取りに来たのよ。ウチと違って、男テニは結構厳しいんだから、早く行ったほうがいいんじゃない?」
再び階段を上りはじめた僕に続き、カンカンと音を立てながら、野間が追い付いてくる。
彼女のいる女子テニス部は、体育会系にしては珍しいくらい、ユルい部である。それに比例して、ものすごく弱い。部員数が少ないから、上下関係もあまりなく、いつもきゃあきゃあと楽しそうにお喋りしながらボールを打っている。
ほとんど同好会と言ってもいいくらいの部なので、まあまあ強くて規律も厳しい僕の部とは、同じテニス部であるにも関わらず、さして交流がなかった。
「……世良と南につかまってたんだ」
ぼそりと呟くように言うと、ぴた、と足音が止まった。
僕が後ろを振り向きもせず、そのまま階段を上り続けると、野間はまたすぐに足を動かした。
「そっかー。じゃ、聞いたんだね。あの世良と藤島が友達って、ちょっと意外な感じがして、びっくりしたよ」
へへ、と笑う野間には、あまり照れている様子もない。こいつの「気になっている」、というのは、どの程度のことを指すのだろう、と僕は疑問になった。
あまり交流のない部同士とはいえ、それでも今までに何度か、会話を交わしたことはある。とはいえ、特に仲が良いわけでも、悪いわけでもない。その他大勢のうちの一人、というくらいの認識しかなかったし、それは向こうも同じだと思っていた。
きっと、野間にとっては、本当に大したことのない、軽い気持ちで言いだしたことなのだろう──というのが、その言動から透けて見えて、僕は少し苛立たしい気分になった。
世良と僕は友達なんかじゃないよ、と言いそうになるのを、苦労してまた喉の奥へと押し込む。
「……あのさ、野間がどうこうっていうんじゃないけど、僕は、そういうのはあんまり」
好きじゃないんだ、と言い終わる前に、野間は素早く察したらしい。南が鈍感すぎて世良は苦労したようだが、野間はあっけないほどに呑み込みが早かった。
「あ、そうか。うんわかった。またいつか機会があったらね」
さらりとした口調には、何も含まれていないように聞こえる。怒りも、落胆も、少なくとも僕には感じられない。「いつか機会が」というその言葉にも、どこまで本音がこもっているのか、さっぱり読み取れなかった。
「…………」
なんだか腹立たしいような、それでいていくらかは気が楽になるような、そんな複雑な心情になって、口を閉じる。自分一人が考えすぎているようで、馬鹿らしい、という気もした。
だから、僕はことさら軽い口調で再び口を開き、まったく関係のない話を切り出すことにした。そうしたら、いっそ「何もなかった状態」に戻るんじゃないかと思ったからだ。
「そういえば、野間は知ってる? 世良と青柳の間で、イザコザでも起きたのかな」
廊下での青柳の険悪な表情を思い浮かべながら聞いてみると、すぐに背中で「ああ」という合いの手があった。
階段を上りきり、今度は部室に向かうが、野間は僕の隣には来ないで、いつまでも後ろを歩いている。かえって話しにくい。
「……何か、あった?」
窺うように、問いかけてくる。
「いや、偶然、ちょっとした接触があったんだけど、なんか青柳が世良に対して怒ってるみたいだったから。世良はあんまり誰かと喧嘩をするタイプじゃないし、意外な気がして」
というより、喧嘩を吹っ掛けるほど、世良は男に対して関心を持っていない。
僕の言葉に、野間は「うーん」と逡巡する様子を見せ、それから、
「あたしもその場面を見たわけじゃないから、よく知らないんだけど」
と、ためらいつつ切り出した。
ことは一週間前に遡る、のだそうだ。
「なんかね、南と世良が図書室でお喋りしてる時に」
世良が図書室、とそれだけで僕は噴き出しそうになった。似合わない。似合わないにも、ほどがある。でも、そこは話の本題ではないのだろうから、なんとか笑うのを堪えた。
「たまたま近くにいた青柳が、うるさい、とかなんとか怒ったらしいの。南はすぐに、すみませんって謝ったんだけど、世良は『ゴメンゴメン』とか笑いながら軽く言って」
「……うわ、すごい想像できる」
「それでどうも青柳がカチンときて、なんだその言い方、静かに出来ないなら出てけよ、って言ってきたんだって」
「正論だ」
と、僕は頷く。大体、世良のような人間が図書室にいるということ自体が間違いなのである。
「で、世良はああいう性格だからさ、ハイハイって席を立って、出て行こうとしたんだけど、それがまた青柳の気に障ったみたいでね」
「なるほど」
それも判る。世良があの軽薄な顔と声で、どんどん青柳の神経を逆なでさせていくところが、目に浮かぶようだった。
「それでなんか……青柳が、イヤなことを、いっぱい言ったみたい。独り言みたいな感じで、でも、はっきりと聞こえるように」
「イヤなこと?」
問い返すと、野間は言いにくそうにもじもじした。
「その……南をちらっと見て、『こんなつまんない女と付き合って、一体なんのメリットを狙ってんだ』、って」
男に免疫なくて、ポイ捨てすんのに都合がいいからだろ。勉強以外になんの取り柄もなくたって、一応女だからヤレれば同じか。
──というようなことを、青柳は馬鹿にするように、鼻で笑いながら言ったという。
「……なんだそれ。意味が判んないよ」
僕は唖然とした。
世良のような男にイラつく気持ちは非常に納得できるが、青柳の低劣な言い分は、大人げないのを通り越して、支離滅裂だ。僕だって、世良がどういう理由であの南を選んだのかさっぱり理解できないけど、それでも「メリットを狙って」なんて、カケラも思いもしなかった。
「わかんない? 藤島」
野間は、ちょっと焦れたような声を出した。
「青柳はね、世良にムカついたんじゃないの。本当のところ目障りでたまんないのは、世良じゃなくて、南なの。だからわざわざ、南を貶めて、侮辱するようなことばっかり目の前で言ったんじゃないの」
「は?」
僕はますますぽかんとした。南は確かにちょっとヘンだが、目障りだとか、腹が立つとか、そういう対象には思えない。
はー、と野間がため息をつく。
「もう、ニブいわね。学年順位でずっと三位から五位の間をウロウロしてるような青柳にとって、一年生の時から首位をキープし続けている南は、目の上のタンコブ、どんなに勉強しても追い越せない、憎たらしい不倶戴天の敵なのよ。わかる?」
「……野間、難しい言葉を知ってんね」
「そんなことはどうでもいい。ほら、青柳の家って、医者一家でしょ。昔からずっとトップを要求され続けててさ、今も、大学は一発合格で医学部に進むこと、って無言のプレッシャーかけられて、それに押しつぶされそうになってるじゃない」
「いや知らないけど。なんでそんな、青柳の家の事情なんか知ってんの?」
「一般常識」
一般常識って、こういう時に使う言葉ではないような気がする。
「そうやって必死になって猛勉強してる自分の横で、その南がのほほんと彼氏とお喋りしてて、しかも机の上には教科書や参考書じゃなくて娯楽小説しか乗ってないってんで、青柳のやつ、キレちゃったわけ。それで、世良への文句にかこつけて、ここぞとばかりに南を攻撃したのよ。世良も、それに気づいたんじゃないのかな。だから青柳の胸倉掴んで、『もう一回言ったらぶん殴る』って怖い顔で脅しつけて」
「え、世良が?」
「もうホントに、一触即発の状態だったみたい。しまいには、図書室で二人して大声で怒鳴り合ったって」
「え、もう一度言うけど、世良が?」
「まあ、他の生徒もいたし、その場はそれで済んだらしいわ。世良は今はもう、何事もなかったようにヘラヘラしてるけど、青柳はそういうとこ頭が固そうだから、まだ根に持ってるんでしょ」
肩を竦める野間に、僕は、うーんと唸った。
その話は、なんだか僕が持っている世良のイメージと違っていて、うまく認識できない。
「……まあでも、世良なら、大丈夫と思うけど」
そういうところ、上手にすいすい切り抜けられるのが、世良という男だ。
誰かと揉めたとしても、そんなに深刻なところまではいかないだろう──と、この時の僕は、あんまり真面目に状況を考えていなかった。
それは野間も同じだったようで、そうだよねと頷いてから、ぷぷっと笑った。
「南は世良に、『いつ襲われても反撃できるように、バットを持ち歩いたほうがいいんじゃないでしょうか』って、大真面目に提案してた」
「なんか、その心配の仕方はズレてる気がする」
「だよねえ」
僕と野間は、声を合わせて笑った。
いつの間にか、僕の心の中にあった小さなわだかまりは、消えてなくなっていた。
***
次の日、テニス部の顧問に用事があって職員室に行った僕は、そこで南を見かけた。
今まで全然知らない人間だったのに、一旦知り合いになると、こんなふとした拍子に目につくもんなんだな、と変なことに感心する。
南は担任の男性教師と話しているようで、こくん、こくんと素直に頷きながら聞き入っていた。その様子を見て、優等生ってやつは、やっぱり教師の「お気に入り」になるのかな、と僕はちょっと皮肉に考えてしまう。
なんの話をしているのかまでは判らなかったが、教師は、頭を下げて立ち去ろうとする南を思いついたように呼び止め、机の上に積んであった世界史の史料をどさっと手渡した。
世界史を取っている生徒全員に配布されているもので、僕も使っているやつだ。教師が渡したものは一クラス分くらいの量があって、これ皆に返しておいてくれ、みたいなことを言っているのは推察できた。
──けど、それにしたって、多くないか?
その世界史の史料は結構分厚くて、一冊の重量は大したことなくても、一クラス全員分となると、多分、かなり重い。なのに教師は、じゃよろしくーと軽い調子で言って、もう南の方をろくすっぽ見もせずに、またくるりと椅子を廻して、さっさと自分の机に目を戻してしまっている。
なんだよ、と僕は少しむっとして、顧問への挨拶もそこそこに、職員室を出て南を追いかけた。
「南」
後ろから呼びかける。自然に、その名前は僕の口から出た。
「あ、藤島君」
史料を両手に抱えて、よろよろと歩いていた南は、後ろを振り向いて僕に気がついたようだ。
こんにちはと頭を下げようとして、手の上にどっさりと積まれた史料のバランスを崩しそうになり、あわわと目を丸くし、急いでまた背中を反り返らせる。テレビでよく見るコントみたい、と僕は思った。
「半分、持ってあげるよ」
手を差し出すと、南は慌てて首を横に──振ろうとして、また史料の束を落としそうになり、困り果てた顔で僕を見返した。
手も頭も動かせないので表現できませんが、お構いなく、とその顔に書いてあるみたいだった。
「そんなに大変ではないから、大丈夫です」
「いや、どう見ても大変そうだから。手がプルプル震えてるし」
言いながら、半ば強引に、南の手から史料を受け取った。半分よりも多めにとったのは、優しさというよりは、男としての自負みたいなものだ。
「すみません、ありがとうございます」
南は申し訳なさそうに言うと、ひとつ息を吐いた。大分軽くはなっただろうけど、それでもまだやっぱり重そうだ。僕でもこの量で重いなと思うくらいなのだから、南がこの全部を職員室から離れた教室まで運ぶのなんて、相当難しかっただろう。
あの教師はなにを考えてるんだ、と僕は心の中で呆れた。
「無理なことは無理って言ったほうがいいんじゃないの。途中でひっくり返しでもしたら、そのほうが面倒だし」
こういう時、ちょっと嫌味な言い方になってしまうのは僕の癖だ。それで相手を怒らせることもままある。世良のようにもっと器用ならよかったのだけど、僕の性格なのだからしょうがない。
しかし南は、「え、いいえ」となぜか自慢げにふんぞり返った。(そしてまた史料を落としそうになってあわあわした。)
「無理じゃないです。前は、ちゃんと無事、教室まで辿り着くことに成功しました」
「前?……じゃ、これがはじめてじゃないってこと?」
「はい、そうです」
「南って、委員長かなにか?」
「は? 違いますけど」
「…………」
その時、僕の喉の手前まで出かかったのは、何もそこまで教師に従順な、「いい子」でいなくてもいいんじゃないの、という意地の悪い言葉だった。
やっぱり南はどこからどこまでも優等生なのか、と思うと、少し苦いものが胸にこみ上げる。本当に、世良はどうして、こんな子を選んだんだろう。
「あ、南」
その時、前方からやってきたのは、その世良本人だった。
声をかけながら近寄ってきて、南が持っている史料に目をやる。
「……また、おっつけられたのか」
ち、と忌々しそうな舌打ちの音が、僕の耳に届いた。無言で南の手から残った全部を取り上げる様子は、なんだかやたらと機嫌が悪そうだ。
「こういうのは断れって何度も言ってるじゃん」
「はあ、でも……」
「でもじゃない。お前が甘い顔するから、あいつらつけ上がるんだって、前も言ったろ? 何かっていうと、南を小間使いみたいに利用しやがって」
「世良君、知ってますか。外国では普通、小間使いっていうと召使とかメイドさんのことを言うんですけど、昔の日本では、小間使いって、禁中とか幕府とかに仕えるちゃんとした武士だったんですよ。そう考えると、なんとなく偉くなったような気分になりますよね」
「全然なんない。ここで言う小間使いは、ただのパシリで、道具で、軽い気持ちで物事を言いつけられる都合のいい奴のことだ」
世良は遠慮会釈なく、ビシビシと決めつける。そこまで言わなくても……と、僕はさっきまでの苦々しい気分をどこかに吹き飛ばして、南に同情した。
「そこまで言わなくてもいいんじゃないでしょうか」
と、南も頬を膨らませている。
「そこまで言わなきゃわかんないだろ、南は。とにかくこれからは全部断れよ、いいな?」
完全に命令調になって偉そうに言い切る世良に、僕はぼそりと呟いた。
「……世良、お前、ナニサマなんだよ」
「世良君は、オレ様です」
南に真顔で返され、つい噴き出してしまう。
世良はむすっとした顔のまま史料を運んでいる。それを見て、この男が「誰かのために」こんな顔をするのをはじめて見たな、と思った。
よく判らないな、と僕は考える。
世良に変化をもたらしたものは、一体なんなのだろう。
女の子と付き合うって、そんなに楽しいことなんだろうか。
──ひとがひとを好きになるって、どういうことを言うのだろう。