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次の日から早々に、オレの呼びかけは「南さん」から「南」になったが、南にはちっとも気にした様子はなかった。
教室で話しかければ、すぐに本から顔を上げ、はい、と返事をする。南の話し方はやっぱり丁寧語が基本であるようで、オレがどんなにくだけた調子になっても、それは一貫して変わることはなかった。
時々話しかけてくる女子にも、教師にも、同じスタンスを崩さないから、相手が男子だから、という理由でもないんだろう。
時々話しかけてくる、ということでも判るが、南には特に親しい友人というのはいないようだった。休み時間なんかは、大体いつも一人静かに本を読んでいる。ハブられている、というわけでもないのだが、積極的に輪に入ることも、入れられることもない。
たまに気が向いたように誰かがふらりとやってきて、ちょっとお喋りして、また離れていく、という感じ。いてもいなくても、あんまり気にならないっていうか。
──観葉植物みたい。
そういう様子を眺めながら、オレは思った。
そんな南に、しょっちゅう寄っていってはちょっかいをかけるオレは、そりゃもう目立ったらしい。
同じクラスの友人たちに、「どしたのお前、趣味変わったんか」と怪訝そうに問われたことも何度かある。それに曖昧に答えるたび、いつも女王様が満足そうに微笑んでいる姿が、オレの視界の端に引っかかった。
そんなわけで親交を深めるべく努力をしているオレだったが、数日を経て進展があったかというと、それがまったくないのだった。
話しかければ返事をするし、質問をすれば丁寧に答える。時にはオレの宿題を手伝ってくれたりもするし、会話だってけっこう交わしているはずなんだけど、南の態度は、まったくはじめのところから変化がない。
なんていうか、「クラスメート」の枠から、びたの一歩も進んでいない気がひしひしとしてしまうのである。
うーん、とオレは人知れず頭を抱えた。
こんな微妙にどっかがズレた変な女、どうやってオレを好きにさせることが出来るんだよ!
***
「世良君、知ってますか」
というのが、南の口癖だ。
この台詞の後に続くのが、頭のいい奴の厭味ったらしい知識披露、なんて思ったら大間違い。
「そろそろ、秋が来るんですよ」
と、まるで人類史に残る偉大な発見でもしたかのように重々しい口調で言われた時、オレはさすがに何て返事をしていいのか、まったく判らなかった。
「まだ半袖でも暑いくらいなのに、もう暦の上では秋らしいです。温暖化っていいますけど、いくらなんでもこの暑さがいつまでも続くわけじゃないですよね。きっと、あっという間に名実ともに秋になってしまうんでしょうねえ」
「……だろうね」
名実ともに秋になる、という表現がそもそもよく判らないんだけど、オレはとりあえず相槌をうった。
「それで、それが何か?」
「いえだから、秋になったら、冬になるのもすぐだろうなあと」
「……うん。で?」
「そんなわけで、私は困っているんです」
「は、なにが困ってんの?」
この会話の流れについていけないのは、オレの頭が悪いからなのか、誰か教えて欲しい。
「植物っていうのは、往々にして、一定の季節に顔を出すものじゃないですか。種類により、秋になって冬になってしまうと、枯れたり萎んだりなくなってしまったりするものもありますよね」
「それが?」
「そうなると、残された時間が少ないってことなんですよ」
「残された時間?」
なんの? ていうか、この話の主語は一体なんなの?
この時、オレの頭に浮かんでいたのは、オレでも知っている有名な外国の短編小説だった。窓の外に見える木の葉がどんどん落ちていくのを見て、「最後の葉っぱが落ちたら死ぬ」と思い込む、病気の女の子の話だ。
南は健康体に見えるから、家族の誰かが身体を患ってでもいるんだろうか、とつい本気になって考えてしまった。いや待て、けどそんなこと、果たして実際にあるものなのか?
「それで、私は困っているんです」
はあー、と南はため息を落とした。
その話の意味が判ったのは、それから二日後のことだ。
その日、オレは部活を終えて、家に帰るべく駅に向かっている途中だった。オレの所属している軽音部は、文化祭の前でもない限り、誰も熱心に活動をしないというまったりとした部である。帰宅部の奴らはもうすっかり帰ったが、他の体育会系の部員らはまだ汗を流している真っ最中、という時間帯に、オレはのんびりと道を歩いていた。
──そして、古びたビルの前に差し掛かった時、ピタリと足を止めた。
いや正確には、足を止めたのは、そのビルに隣接した駐車場前だ。
ビル内には、いくつかの中小企業が入っている。そこの社員たちが使用しているのだろう駐車場は、安っぽいフェンスで区切られただけで下は砂利と雑草が茂っている、というショボさである。
その奥の方で、じっとうずくまっている小さな背中に、オレは見覚えがあった。
それは最近、自分が教室内でよく観察しているものだったからだ。
「ちょっと、何してんの。気分でも悪いの? 南」
オレは足早にその後ろ姿に駆け寄って、声をかけた。
弱っている時に優しくすると好感度が上がるかな──なんていう計算は、とりあえずこの時、オレの思考にはなかった。おいおいホントに「最後の一葉」なんじゃないだろうな、と少し焦りながら思っていた。
が、くるりと振り返った南の顔色は、いつもと変わりなかった。「世良君、今帰りですか。お疲れ様です」なんて呑気なことを言う。
ちょっと心配した分むっとしたオレは、
「何してんだよ」
と、もう一度同じ言葉を、今度は多少つっけんどんな口調になって繰り返した。
「はあ」
南は一瞬、ためらったように見えた。
「ちょっと、探し物を」
「探し物? なに、何か落としたの? 定期とか財布とか?」
勉強や本ばかり読んでいるわりに、南は視力がいいという話だったから、コンタクトを落としたとかいうことではないのだろう。そう思いながら訊ねると、南は子供のような仕草で手を大きく振った。
「違います違います。何かを落としたというわけではなく、ただ探しているだけなんです」
「探してる? 何を? よくわかんないけど、オレも手伝おうか?」
ここにきて、オレはやっと、南に近づいた当初の目的を思い出した。いろんな意味で対応に困る相手だが、何かの折に、親切にしたり優しくするに越したことはない。
しかし、南は口を噤み、何かを考えてから、「いえ、お構いなく」と目を逸らした。普段に輪をかけて挙動不審だ。オレもちょっと意地になり、腰を落としてその場に屈みこむ。
「なんで。探し物なら、人手があった方がいいっしょ」
「いえ、もうそんな、世良君の手を煩わせるほどのものでは」
「なんかすごい視線が泳いでるんだけど。大体、ここビルの駐車場じゃん。いつまでも勝手に敷地内に立ち入ってると、ここの人に怒られるよ」
「え、そうですか、怒られますかねえ」
てきめんに、南が心配そうに眉を曇らせる。
その顔を見たら、本当にビルの管理人とかに見つかって、逃げることも出来ずに叱られて、小さくなって謝る南の姿が、ありありと想像できた。授業では、教師からのどんな質問にもたちどころにスラスラと答えてしまう南だが、どういうわけか、勉強以外のところではものすごく要領が悪いのだ。
クラスでもよく、面倒な仕事を押し付けられて困っていることがある──というのを、最近になってオレは知った。
うーん、という表情で逡巡して、南はようやく口を割った。
「世良君は多分、笑うと思うんですが」
「悪いけど、今さらだから」
きっぱりと言ってやる。南のおかしな言動に、驚いたり笑ったりするのは、何も今がはじめてだってわけじゃない。
「……四つ葉のクローバーを、探してるんですよ」
「は?」
ぼそりと言われた言葉に、オレは驚くより笑うより、まずはぽかんとした。南は目線を更にあらぬ方向へとやる。
「クローバー? えーっと、あの、葉っぱの?」
「そうです。マメ科の植物です。茹でると食用にもなるそうです。私は食べませんけど」
そんなことはどうでもいい。
「で、なに、その四つ葉を探してるってこと? なんのために?」
足元に目を落とすと、確かにそこには、緑色の小さなクローバーが砂利の隙間を覆うようにして群生している。言われなければ、ただの雑草としてオレの意識にものぼらず、従って目にも入らなかっただろう。
心底不思議になって問いかけたオレの言葉に、南はくるっとこちらに顔を戻し、「なんのためにって」と、不服そうに口を尖らせた。
「世良君、知ってますか」
また出た。今度はなんだ。
「三つ葉のクローバーの中における四つ葉のクローバーの含有率は、一万分の一、だそうですよ。三つ葉一万本の中に、四つ葉はたったの一本しかないんです。それくらい、滅多にないものなんです。ですから四つ葉のクローバーは、『幸運のシンボル』と言われているんです」
「……はあ。それが何か」
「私は子供の頃からクローバーを見かけるたびに四つ葉を探しているのに、一度も見つけられたことがないんです」
南はそう言って目を伏せた。悲しそうな顔だった。
いや……でも、悲しがるようなことかなあ、それ、と思ってしまうオレは、どういう反応を返していいか判らない。
「そうしているうちに、毎年、秋が来て、冬が来てしまいます。今年こそはと意気込んで探すのに、それでも見つけられないんです。たった一本もです。もしかしたら永遠に見つけられないかもしれません。──だから私には、幸運がやってこないんだと思います」
最後の言葉は、呟くような声だった。
もともと南は小柄だが、肩をすぼめうな垂れるその姿は、いつもよりももっと小さく見える。
「…………」
オレは口を噤んだ。
頭はいいけど、どっかがズレてる変な南。要領が悪く、勉強しか取り柄がない(と、少なくとも本人は思い込んでいる)。読書という唯一の趣味に固執して、それがなくなったら自分には本当に何もない、と言い切っていた。
人を上手に楽しませることも出来ず、他人とは丁寧語で距離を置いて、厄介ごとを押し付けられても一人で困るしかない、臆病で、不器用な南。
四つ葉のクローバー一本見つけることさえ、出来ない。
それが手に入ったからといって、何かが劇的に変わるはずがない。突然クラスの人気者になったり、やることなすこと物事が上手く運ぶわけでもない。きっと南にだってそんなことは判っていて、それでも毎年毎年、クローバーを見つけると、その中を探さずにいられないんだろう。
小さくても、ひとつだけでも、幸運を見つけられたらいいな、と一心に願いながら。
バカバカしい、という一言に尽きる南のその言葉や行動を、だけどオレは、笑えなかった。
「……でももう、今日は諦めて引き上げた方がいいんじゃねえの。暗くなるし」
南のスカートは片桐のそれよりも短くはないけれど、それでも膝を曲げてしゃがみこむその姿勢では、白い腿の部分とか、丸くて柔らかそうな膝小僧が無防備なくらい曝け出されている。変な意味じゃないんだけど、いやその、全然ないわけじゃないんだけど、オレはそれを見て、はじめて南を女の子として意識した。
ビルの駐車場なんて、大体においてあまり人目にもつかないような危険な場所じゃないか。なのに南は、これからもこうして冬になるまで四つ葉を探し続けるつもりなんだろうか。今日だって、オレが見つけなきゃ、ずっと一人で探していたんだろうか。
こんな、世界の片隅みたいなところで。
「はい、そうですね。帰ります」
南は大人しく肯って、立ち上がった。オレも一緒になって立ち上がり、成り行きのまま二人並んで駅へと向かう。
「……そういえば南、知ってるか」
と、オレは歩きながら、さりげなく南の口癖を真似て言った。
「このあたり、暗くなると幽霊が出るんだってよ」
「え」
南は目に見えて体を強張らせた。思った通りだ、こいつ、疑うことを知らない。
「むかーし、あの古ビルの屋上から飛び降りた人がいるらしくてさ。夜になると、街灯の明かりの下に、ぼーっと白い服を着た女が立ってて、通行人に声をかけるんだってよ。『すみません、私の飛び散った脳味噌を知りませんか』って。それでさ」
「ちょっ……! やめてくださいやめてください! 私、そういうのニガテなんです!」
泣きそうな顔で、南が両手で耳を押さえる。牽制のためのデタラメな脅しのつもりだったのだが、その反応に、オレはつい楽しくなってしまった。にやりと口の端を上げる。
「訊ねられて、『知りません』って答えるだろ。そうすると、その女が急にアップになって迫ってきてさ、おもむろにこう、頭に手をやって、パカッと」
「ぎゃー!!」
南が悲鳴を上げて、オレは笑った。
笑いながら、そういや家の近くに、ちっちゃい公園があったっけなあ、と考えた。
──あそこなら、クローバーくらい、生えていそうだよな。
***
で、翌週の月曜の朝。
教室で顔を合わせるや、四つ葉のクローバーを差し出して見せたオレに、目を真ん丸に見開いた南が放った第一声は、
「ずるい!」
というものだった。
おお、はじめて、ですます調じゃない言葉を聞いた。
「どうしたんですか、これ」
「オレんちの近くに公園があって、そこで見つけた」
あっさり言うほど、そんな簡単なものでもなかったんだけど。
いや、最初は本当に軽い気持ちだったんだ。軽い気持ちで家を出て、軽い気持ちで公園に行き、そこに生えている草を目で追った。
──それなのに。
四枚の葉は、見つかるようで、意外と見つからなかった。いつの間にか地面に這いつくばるようにして探し続け、しまいには完全に腹を立てた。見つけるまでは帰らねえぞこのヤロウ、と決意して、血眼になりながらのクローバー漁り。気がつけば、家を出てから二時間も経っていた。
日曜日の公園に遊びに来ていた幼児にもその親にも怪しげな顔をされて、もうちょっと長引いていたら、多分確実に警察に通報されていたと思う。
わあー、と言いながら、四つ葉とオレに向けられる南の目は、キラキラとした尊敬と憧れで輝いている。オレはちょっと……ていうか、かなりいい気分だ。
「いいなあー、いいなあー」
本当に羨ましそうに、南は四つ葉を持ったオレの周りをくるくると廻っている。仔犬みたいだな、とオレは噴き出すのを堪えた。
「やるよ」
とオレが四つ葉を渡そうとすると、南はそこで、やっと我に返ったらしかった。
「え、そんなわけにはいきません」
今さら常識人のような顔で遠慮する。変人のくせに生意気な。
「それは世良君が見つけたんだから、世良君のものですよ」
「だって、オレが持ってたってしょうがないじゃん」
「なんてことを言うんですか。幸運のお守りですよ? 持っているだけで、幸運が舞い込むんですよ? 手離したら意味がないじゃないですか」
南はオレがとんでもない不心得者だというように、非難がましい顔をした。天罰が落ちますよ、とでも言いたげだ。
南にとって、四つ葉のクローバーは、本当の意味で天の使いのようなものなのかもしれない。
「だって欲しいんでしょ?」
「……私、そんなに物欲しげにしてました?」
「心の底から」
「…………」
南はぱっと頬を赤くした。恥じらうポイントが、ちょっと一般と違うような気もするが、その顔はなかなか悪くない。
「大体、オレ、こんなの持ってたってどうしていいかわかんないし。ゴミと一緒にどこかにやっちゃうのが関の山だよ」
「押し葉にして、しおりにするとか」
「誰が? オレが?」
「……似合いませんね」
南は大真面目に言った。似合わないというより、オレがそんなことをしたら、その時こそ周りに頭の具合を疑われる。
「えーと……えーと、じゃあ、あの、本当に、もらっちゃっていいんでしょうか」
「いいって」
もともと南にやるために探したんだから──とは、オレは言えなかった。妙に照れくさくて。だから、オレの態度は少しぶっきらぼうなものになった。
南はおそるおそるオレの手から四つ葉を受け取ると、自分の目の前に持って行って、まじまじと見入った。視線を据えつけながら、瞳をくりっとさせる。いや違うな、もともとくりっとした瞳が、くりくりっとなった、っていうか。なに言ってんのかな、オレは。
「わあー……、これで幸運がやってきますかねえ」
「さあ、そこまでは責任持てないけど」
オレは正直に言ったが、内心では、来るといいな、とは思っていた。
「あ、でも」
と、南がクローバーから、こちらに顔を向ける。
「今現在、すでにとても幸せな気持ちです。ありがとうございます、世良君」
そう言って、にこっと笑った。
「…………」
間抜けなんだけど、オレはその時になって、ようやく気がついた。
なんだこいつ、可愛いじゃん。