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4.入り婿と新たな日々(朝)

 身構えていたのが拍子抜けするくらいに結婚式は招待客から暖かな祝福を受けて終わった。

 カナリーとの結婚に執着していたという貴族の姿は疎かその影も無かった。


 そんな結婚式から五日。

 式の後片付けも、招待客の見送りも終わって、平穏な日々に取り戻したロンドルフ公爵邸の朝――。


 若旦那となったユクシャの朝は早い。

 使用人が動き出す時間に起き出す。正確には使用人が動く物音で目を覚ましてしまう。


 扉一枚隔てた向こうの部屋で朝の用意を調える使用人の気配に、ユクシャの意識はゆっくりと覚醒し始める。

 しかし、ふわふわで暖かな寝床に包まった眠りは心地良く、手放し難くて。

 夢現の中でユクシャは抵抗を試みる。

 もぞもぞと動いて寝返りを打ちながら横向きになって、掛け布を手繰り寄せて寝心地の良い場所で、そのまま夢の世界へ――。


 ふわり。


 ユクシャの瞼を、睫毛を柔らかい何かが擽った。

 風ではない。もっと弱く、でも規則正しく、けれど、間隔が短い。

 そう、それは息遣いのよう――な。


 纏わり付いていた眠気は瞬時にどこかへと吹き飛んで、ユクシャははっと目を開ける。


 鼻先に顔があった。


「っ!」


 ユクシャは息を呑んで、そのまま石のように硬直してしまった。

 額と額が触れ合いそうなくらいの至近距離にある、夜具を流れる白金の髪に縁取られた花のかんばせ

 この、体を丸めてすやすやと眠っているのが、誰かなんて考えなくても、妻のカナリーしかいない。

 昨夜は、確か広い寝台の端と端で背中合わせになって、眠りについた。二人の間には二人分くらいの隙間があった、はず。

 それがなんでこんな事に。


 何はともあれ、この心臓に悪い状況からの脱出が最優先。


 ユクシャはずりずりと、なるべく音を立てないように端まで移動してから、これまたゆっくりとした動作で寝台から起き上がる。

 第一段階は成功。

 カナリーは身動きせず寝息を立てているが。

抜け出た反動で掛け布が動いてカナリーの肩が出てしまってたのが申し訳なくて、手を伸ばして掛け布を掛け直した。

 ユクシャは忍び足で夫婦共用の寝室から両端にある個別の寝室へと小さく開けた扉の隙間から身体を滑り込ませる。

 その際に扉の閉まる音が思いの外響いた気がして、冷や汗が背筋を伝う。

 耳を澄ましても衣擦れがしない。

今日もカナリーを起こしてしまう事は無かったようだ。


「はぁー…」


 ユクシャは安堵から大きく息を吐き出す。


 夫婦といっても他人にちょっと、毛が生えたようなもの。

わざわざ寝台に一緒で寝る事はないと思う。気を回されたのかは知らないが、こうしてそれぞれの寝室も用意されているのだし。


 ユクシャは暑さのためではない額に浮かぶ汗を拭うと、喉がカラカラに渇いているのに気付いた。


 さっきの共用の寝室でないなら、忍び足とかそこまでの必要ないので普段通りに動く。派手な物音さえ立てなければ、扉の向こうには音は伝わらないだろう。

 ユクシャは水差しからコップ一杯なみなみと注いだ水で喉を潤す。物足りなくて、もう半分継ぎ足して飲み干すとやっと人心地付いた。

 なんと、この水はライムで香りづけしてある。水なのに贅沢。


 きっと侍女なのだろう、律儀に閉められているカーテンを開けると、ユクシャの前に、露台の向こうに、朝靄で煙る緑色の草原と森が広がっていた。

清々しい朝の風景。ヒュッセラインとは違う眺めに何とも言えない寂しさのような感情が胸の奥から込み上げてくる。

 その感情を振り払うようにユクシャは窓から離れて、身支度を整え始める。

 盥のぬるま湯で顔を洗い、寝間着から着替える。

 動きやすい汚れてもいいシャツとズボン。それにしてはどちらも上等な気がするが。

 最後にくしゃくしゃになった胡桃色の髪に櫛を通した。家なら未だしも流石に公爵家で寝癖の付いたまま歩き回れない。

 それらを終わらせたユクシャは共用の寝室――忍び足で素早く――、居間を通って、部屋を出て行った。


 朝から忙しくとも使用人は主人達への挨拶は欠かさない。

 手を止め、深くお辞儀をする。――勿論、ユクシャにも。


 今も廊下を歩くユクシャに気付いた使用人がにっこりと微笑んで、モップを片手に頭を下げる。


「おはようございます。ユクシャ様」

「あ、はい。おはようございます」


 ユクシャも使用人に倣い、同じ様に使用人に頭を下げた。

 軽い挨拶くらいで良いと聞いてはいるが、そんな度胸もなくて、こんな事になっている。

 この遣り取りを五回も繰り返して裏口からやっと庭に出られた。

 ユクシャはいそいそと靴を履き替えて、日課と定めている事へと向かうのだった。


 敷地内の奥まった、どこか裏寂れた一角。

 ユクシャはまず、そこで厩にいる愛馬の世話に勤しむ。

愛馬はユクシャにしか懐いておらず、特別に許された仕事だ。

 名残惜しくも愛馬と別れて、ユクシャが次に向かったのは広い畑。

 畑の真ん中で水を撒く男性の後ろ姿を認めて、踏まないよう注意を払いつつ、大股で畝を跨ぎながら声を掛ける。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。早くからありがとう」


 麦わら帽子を被った男性は畑の管理人――ではなくて、ロンドルフ公爵のロベルトその人だ。

 此処はロベルトが個人的な趣味で世話する、所謂、家庭菜園になる。

それにしては広大で多種多様な作物が植えてあるけど。

 家庭菜園での畑仕事もユクシャの日課で、自ら手伝いを願い出たのだ。

 名目上は義父との交流だったが、ヒュッセラインでは畑仕事が日常だったユクシャにとっても、良い気分転換になっている。


「いつも手伝わせちゃって悪いね」

「いいえ。好きでやってる事ですから。雑草からでいいですか?」

「勿論。そっちから頼むよ。私はこっちから始めるから」


 ロベルトとの会話もそこそこにユクシャは作業に取り掛かる。

 雑草を引っこ抜き、青虫を取り除く。収穫時を迎えていた幾つかの葉物野菜とハーブを籠に収穫する。


 手慣れていたし、ロベルトと二人でしていた事もあり、物足りなさを覚えながらも早々に終わってしまった。

 ユクシャは小脇に籠を抱えてロベルトとの親子の交流――専ら菜園の話――をしながら、のんびりと屋敷へと続く道を歩く。

 饒舌なのはロベルトの方で、ユクシャは聞き役だった。


「後少しで苺が色付くかな」

「はい。もう大きくなってました」

「苺が収穫出来たら何も食べようか。タルトもいいし、ムースも捨てがたい。ああ、ジャムも忘れちゃいけないな」

「どれも美味しそうです。今から楽しみですね」


 少々小振りだったが、赤くなり始めた苺のきっと甘いであろう、その味を想像すれば、顔も自然と綻ぶ。

 ロベルトと笑い合うユクシャは裏口で待ち構えていたらしい家令のおじいちゃんに出迎えられた。


「旦那様、ユクシャ様。間もなく朝食の用意が整いますので、食堂へいらっしゃって下さい」


 いつもより時間が早い。

 首を傾げるユクシャの隣でロベルトは鷹揚に頷いている。合点がいっているようだ。

 時間が早かろうが、遅かろうがユクシャに不都合はない。お腹は空腹を訴えているので。

 自然な動作で小脇に抱えていた籠は家令の手に引き取られて、ユクシャは支度にどうぞと勧められていた。

 家令のそつがない動きに感心してしまう。


 ロンドルフ公爵家族が揃う食事の席にこの薄汚れた格好のままで、という訳にはいかずに湯を使って汚れを落として、用意されていた洋服に着替えた。

 時間が合うなら食事はなるべく家族で一緒に揃って摂る。ロンドルフ公爵家の決まりだそうだ。


 支度を終えて食堂に行くと、テーブルに朝食が用意されていた。

 何種類ものパンの山盛りに特産の果物の何種類ものジャム、ふわふわの卵焼き、黄金色に透き通ったスープ。瑞々しい冷菜。食べやすいよう切り分けられた果物。

 広いテーブルの上に所狭しと並ぶ、綺麗に盛り付けられた料理の数々はどれも美味しそう。

 この中に家庭菜園で採れた野菜も使われている。なんだか、数日しか手伝ってないのに嬉しい気持ちになっている自分がいる。

 しばらくして、ロベルトもやって来てロンドルフ公爵夫婦、若夫婦と全員集まった所で朝食が始まった。


「いただきます」


 見た目の通りに美味しい料理にユクシャは幸せそうに頬張って舌鼓を打つ。

 しかし、なんというか。

ユクシャの席は当然のようにカナリーの隣。この辺はやっぱり当たり前なのだろう。


「…」

「…」


 ユクシャもカナリーも無言のまま黙々と食事を口に運んでいく。

ロンドルフ公爵夫婦はそれはもう和やかな会話をしているのに。

 今朝はついさっき食堂に来た時に朝の挨拶を交わしただけだった。


――結局そのままだった。

 カナリーは食後のお茶もそこそこに済ませて食堂を後にしてしまった。

 扉の向こうに消えるカナリーの背中を見送ったユクシャはここで朝食の時間が早かった理由を知った。 次期領主であるカナリーは二年程前からの父の仕事を代行している。これはユクシャもすでに知っている事だ。

結婚式後は暫く最低限に控えていたのだが、そろそろ元に戻そうと言う話になった。

 仕事は自邸の執務室ではなく、馬車で少し走った所にある街の領主館で行っているのだという。

 つまり、カナリーは今日から――。


「お仕事で留守になるんですか?」

「そうなのよ。もしかして聞いてなかったかしら」


 小首を傾げた公爵夫人のニフリートに、ユクシャは目線を下に落とし、もごもごと口ごもる。

 言われた。昨夜にカナリーから確かに言われたが、意味が理解出来なかった。

仕事だから、の一言だけだったので。


「困った子だこと」

「全くカナリーは。誰に似たのやら」


 流石は親。ユクシャの様子から娘の行動を想像したのか、ロベルトとニフリートは二人してくすくすと笑みを浮かべる。

 必ずしも答えなくても良さそうな雰囲気にユクシャは安心してお茶を持ち上げた。

安心するのは早かった。


「ねえ、ユクシャさん。カナリーが居なくて寂しい?」


 ニフリートは目を細めて爆弾を投下した。

 からかっているのだとは分かる。ニフリートの顔に浮かぶのは貴婦人らしからぬ、愉しげなものだったから。

 正直には言えないだろう。

 寧ろ、例の夫婦の時間が減るのにほっとしてる、なんて。 今度は答えを待っている素振りのニフリートにユクシャは腹を括る。


「あの!お、お見送りに行って来ますっ」


 我ながらなんて見え見え、魂胆が丸わかりの話題替え。

 だというのにロベルトもニフリートもあっさりと乗ってきた。


「あら、いいわね。ゆっくり行ってきなさい」

「私達は遠慮するから、行っておいで」


 最初からこれが狙いだったのでは、と勘ぐる程に快く見送られる。


 ユクシャは口に出した手前もあって、しっかりとカナリーを見送った。

 玄関の外で。玄関前は使用人がずらっと並んでカナリーの出発を待ち構えていたのだ。

あそこには居られなかった。


「いってらっしゃい。気をつけて」


 そう見送れば、カナリーはいつぞやの得体の知れないものを見る目つきでユクシャをまじまじと見た。

 普通なんだけど。


「…行ってくるから…」


 顔を背けながらも確かに言ってくれた。

 蚊の鳴くような声だったユクシャの耳には届いていた。

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