prologue 火のない所に煙は立たないと言いますが
王族を含めた貴族の結婚離婚は大衆には興味の的である。ああだこうだと言い合っては楽しんで「貴族って大変ねぇ」と締めくくられるのだ。
わざわざ新聞に取り上げられることも少なくない。そして、これがまた飛ぶように売れる。
醜聞、だと顔を顰める貴族も集まれば、噂話の一つや二つに花を咲かせるのだから、結局どちらもどちらだ。
今宵もまた――。
月見を楽しむ、という名目で開かれた夜会である噂はまことしやかに囁かれた。
――ロンドルフ公爵の娘カナリー令嬢が結婚した。
カナリー・ウェル・ロンドルフ。御歳17歳。
父は先代陛下の側近を務めていたロンドルフ領主にして公爵、母は降嫁した先代陛下の同母妹の一人娘。
社交界デビュー後、父と議会に参加する彼女の発言が偶に新聞に取り上げられるくらいでこの手の浮ついた噂が上がったことのない貞淑を絵に描いた理想の令嬢、であったはず。
その大貴族の令嬢の結婚の噂。それもまだ十代ではないか。
世間では二十歳過ぎてからの結婚が一般であり、特別な事情が無い限り、あまり十代での結婚は見られない。
今回はその“特別”だという。
そう。これにはまだ続きがあった。
――なんでも結婚相手と言うのが辛うじて貴族の位に位置する下級の出。
父親のロンドルフ公爵が最大の弱みを握られた故に多額のお金と共にカナリー令嬢を渋々結婚させたのだという。
噂の人物を慮ってなのかひそひそと話に盛り上がる。目的のはずの月見そっち退けで。
カナリー令嬢なんてお可哀相に。
誰かもっと詳しくは相手を知らないか。
カナリー令嬢はさぞかし嘆いているのだろう。
その弱みとは何なのか。
「可笑しくありません?」
ぽつり、と口にしたのは誰だったか。
「だってロンドルフ家ですわよ。弱みがあってもどうにか出来そうですけど」
確かに。納得して頷いた。
ロンドルフ家は五本指に入る大貴族の家柄。その権力を行使して、もみ消すなり、踏み潰すなり、白紙に戻すなりは簡単なはず。
考えてみれば、相手にすらされないのではないのか。
弱みとやらがどんなものかは知らないが突拍子もないのであればあるだけ誰も信じないと思うのだ。悪事や裏の顔とは無縁の人物なのだロンドルフ領主は。
そうなるとこれは。
「でたらめですね」
「ははは。くだらない与太話でしたな」
「本当に。すっかり騙されましたわ」
あんなに盛り上がっていたくせに根も葉もない出鱈目だと判断された。
噂なんてそんなものだ。大概が嘘であって真実は少ない。
それなのに簡単に騙されたのが小恥ずかしくって誤魔化すように貴族達は本来の目当てである月を見上げるのだった。
この噂だが、どこから漏れたのか翌日には新聞にでかでかと取り上げられて大衆の知るところとなったものの、ここでもまた低俗なゴシップネタだと一笑されたのだった。
あっという間に知れ渡ったが見向きもされなくなるのもあっという間であった。
さらにその翌日にはとある男爵の噂――老男爵が本命と目されていた女性ではなく、一カ月前にぽっと名の上がった年下女性と再婚した、というもの――に興味は移ってしまったそうな。
人々の記憶の片隅にも残らなかった噂だが、強ち全部が嘘という訳でもない。
火のない所に煙は立たない、煙あれば火あり、と言われるように根拠がなければ噂にはならないのだから。
たかが噂だが、多少なりとも事実が含まれているのだ。
この噂にも勿論ある――。
教会の厳かな雰囲気の中、一対の声が響く。
祭壇の前に立つ、この場の誰よりも着飾った、純白の輝かんばかりの礼装を身に纏った男女のものだ。
まず、神の名を。
次は、神の御座す天に、大地に、自然の恵みに、父母に感謝を。
最後にまた神の名を。
二重唱のような声はここで一旦止まった。
余韻が静けさに溶け込むのを待ってから今度は緊張気味の男性の声が。
「彼女を永久に愛し、永久に寄り添っていく事を誓います」
軽やかによく通る女性の声が続く。
「彼を永久に愛し、永久に寄り添っていく事を誓います」
女性――花嫁からそっと、花婿へと手が伸ばされる。僅かな逡巡を見せるように間を開けて花婿も手に触れた花嫁の手を握り返して、互いの指を絡ませた。
こうして、この善き日に一組の夫婦が誕生した。
花婿はヒュッセライン男爵の四男ユクシャ・ヒュッセライン。
花嫁はロンドルフ公爵の一人娘のカナリー・ウェル・ロンドルフ。
式はつつがなく進み、教会から自邸へと場を移していた。
それに伴ってか、厳かだった雰囲気は華やかなものに変わっていた。
白い布、白を基調とした紫や青の淡い色の混じる花々で飾られた、普段とは違う趣の大広間に設けられた祝いの席。
そこで新郎新婦は招待客一人一人と挨拶を交わしていた。
「おめでとうございます。カナリー様…ではなく若奥様」
「はい。若輩者ですが、これから益々頑張っていかねばと思っております。どうぞよろしくお願い致します」
「…本日はありがとうございます」
共に十代の新郎新婦は緊張のあまり互いに目も会わせられない様はぎこちなくも初々しく、招待客は微笑ましいと目を細める。
「新婚だった当時はあんな感じで我々も初々しかったな」「まあ、貴方ったら」とか言いながら場を辞していく招待客を見送る新郎新婦は次の挨拶が訪れる前にどちらかからともなく小さく溜め息を吐いてしまう。
意図せずに全く同じタイミングだったそれに新郎新婦は顔を見合わせて笑い合った。新郎はふにゃりと無理に相好を崩して、新婦は口の端をひくりと引き吊らせながらぎこちない笑みを刻んだ。
明らかな作り笑顔。まあ、僅かな間だったので招待客の誰も気が付かなかったが。
新郎新婦は次の挨拶に来た招待客に対して、幸せそうに見える満面の笑顔を浮かべていたから。
「おめでとう。カナリー様」
「はい、ありがとうございます――」
一部の者の神経をぎりぎりと削りながらも、式は概ね和やかな雰囲気で続いていく――。
式自体はお互いの両親、後は親しいものだけをごく僅か招待したアットホームなものだった。
だが、新婦の身分――王家とも関係深い大貴族である――を考えると、有り得ないほど小規模なものだったと言える。
式やこの後の馬車の上からの領民への御披露目やらをこなすので手一杯で当人は後になってから知った。
これ何か後ろ暗いことがある、と言っているようなものであるようだ、とそう思ってしまったのだった。――実際、あるのだけど。その後ろ暗いことが。
だから、知っている者としては変に勘ぐってしまうのかもしれない。
新郎も新婦もどちらの家も理由ありだ。
この結婚自体、利益の一致に基づくものでぶっちゃけ、新郎新婦は本日が初対面だったりする。
それも準備前に慌ただしく軽い自己紹介を交わし合っただけ。これでよく招待客の目には仲睦まじく映ったらしく不思議である。
これは所謂、政略結婚というやつで、噂通りに新婦側から新郎側へ多額の支度金という名のお金が渡った。
――こうしてユクシャ・ヒュッセラインはロンドルフ家へ入り婿として迎えられたのだった。