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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

薫香

作者: 水無飛沫
掲載日:2026/06/14



ねぇ、その時はさ――


私を食べてよ。











不快な(ざわ)めきに眉をしかめる。

部屋中に甘い匂いが充満していた。

果実が熟れて、腐るときの甘ったるい匂いだ。


きっと長いこと呆然としていたのだろう。

渇きに喉は張り付き、口内は砂漠のように荒涼としている。

彼女に纏わりつく虫をどれだけ払おうと、蛆が湧いているところを見るに無駄な徒労だったのだろう。


――期限が迫っていた。


美しかった顔も体もすでに見る影も無く、窪んだ眼孔に――喩え瞼を開けようが――かつてあった瞳の美しさは見いだせないことは容易に理解できた。

臓腑は腐り果て、かつて彼女を構成する要素であったはずの体液が、横たわる布団からさえ染み出してしまっている。


ぐっと拳を握る。


ここに来て、未だ躊躇っている。

腐敗していく彼女を眺めながらも、どうしても約束を実行することができない。

不甲斐ない自らの心根を呪う。彼女の願いを呪う。


何度彼女の名前を呼び掛けただろう。

何度その四肢にしがみ付いて嗚咽しただろう。

一度だって応えてはくれなかったけど、約束だけが胸に深く巻き付いている。


「愛は呪いである」

そう自分に言い聞かせるようにして彼女に手を伸ばす。

その左手をいつかのように優しく取る。

軽い、骨ばってしまった指を――


こんな非情なことを自分にさせる彼女を少しだけ恨めしく思う。

猶予はもうない。狂人として、犯罪者として彼女と引き裂かれる前に、自分は彼女との約束を果たさなければならない。

用意していた包丁を、彼女の指にかける。

血の通わない指の根本には柔らかみもなく、ただ骨にコツンと当たる感触が柄を通して伝えられる。

力を込めて刃を引く。

その程度で肉体は分離しない。

数日飲まず食わずの胃のどこにそれだけの液体が残っていたのか、感触の気持ち悪さにわずかな胃液が込み上げてくる。


今を逃せば、彼女との約束を果たせない。

それどころか、真実永遠に彼女と離れ離れになってしまう。

それだけを心の灯に、力を入れて刃を引く。何度も。

ギコギコと骨を削る感触に堪え切れず嗚咽が漏れる。

酸で焼かれた胸と喉が、圧のかかった眼球が、ただ痛む。


削る。どうかこの時が、はやく過ぎ去ってくれと願いながら。


口から出る僅かな呻きは、力の入れ具合とともに大きくなっていき、

気づけば絶叫を上げながら刃を枯れた指に、何度も何度も、差し込んでいた。


やがて左手薬指が彼女の体から分断された。

その根元からポロンと指輪が転がる。

腐った指は、彼女のものとはいえ、彼女の願いとはいえ、否応もなく生理的な嫌悪をもたらす。

口に含もうと思うだけでも体が拒絶するのに、これを飲み込むだなんて。


「ねぇ、その時はさ――」


鈴の鳴るような、凛とした声音で彼女が明るく笑う。

彼女の声が好きだった。

彼女と過ごす時間が何よりも大切だった。

彼女の生き様を誰よりも愛していた。


だから。


「私を食べてよ」


遺言とも教唆とも取れるその(ねが)いを、無かったことに、ただの冗談で終わらせるわけにはいかなかった。

ごくりと、もはや何も飲み込むもののない喉が鳴る。




彼女の最期の願いを叶えるために、



その愛おしい指を、



口に含んだ。



















めぐる季節に、桃を買う。

腐って水になっていく様が、その匂いが、彼女を思い出させる。


――ずっと一緒。







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