薫香
ねぇ、その時はさ――
私を食べてよ。
不快な騒めきに眉をしかめる。
部屋中に甘い匂いが充満していた。
果実が熟れて、腐るときの甘ったるい匂いだ。
きっと長いこと呆然としていたのだろう。
渇きに喉は張り付き、口内は砂漠のように荒涼としている。
彼女に纏わりつく虫をどれだけ払おうと、蛆が湧いているところを見るに無駄な徒労だったのだろう。
――期限が迫っていた。
美しかった顔も体もすでに見る影も無く、窪んだ眼孔に――喩え瞼を開けようが――かつてあった瞳の美しさは見いだせないことは容易に理解できた。
臓腑は腐り果て、かつて彼女を構成する要素であったはずの体液が、横たわる布団からさえ染み出してしまっている。
ぐっと拳を握る。
ここに来て、未だ躊躇っている。
腐敗していく彼女を眺めながらも、どうしても約束を実行することができない。
不甲斐ない自らの心根を呪う。彼女の願いを呪う。
何度彼女の名前を呼び掛けただろう。
何度その四肢にしがみ付いて嗚咽しただろう。
一度だって応えてはくれなかったけど、約束だけが胸に深く巻き付いている。
「愛は呪いである」
そう自分に言い聞かせるようにして彼女に手を伸ばす。
その左手をいつかのように優しく取る。
軽い、骨ばってしまった指を――
こんな非情なことを自分にさせる彼女を少しだけ恨めしく思う。
猶予はもうない。狂人として、犯罪者として彼女と引き裂かれる前に、自分は彼女との約束を果たさなければならない。
用意していた包丁を、彼女の指にかける。
血の通わない指の根本には柔らかみもなく、ただ骨にコツンと当たる感触が柄を通して伝えられる。
力を込めて刃を引く。
その程度で肉体は分離しない。
数日飲まず食わずの胃のどこにそれだけの液体が残っていたのか、感触の気持ち悪さにわずかな胃液が込み上げてくる。
今を逃せば、彼女との約束を果たせない。
それどころか、真実永遠に彼女と離れ離れになってしまう。
それだけを心の灯に、力を入れて刃を引く。何度も。
ギコギコと骨を削る感触に堪え切れず嗚咽が漏れる。
酸で焼かれた胸と喉が、圧のかかった眼球が、ただ痛む。
削る。どうかこの時が、はやく過ぎ去ってくれと願いながら。
口から出る僅かな呻きは、力の入れ具合とともに大きくなっていき、
気づけば絶叫を上げながら刃を枯れた指に、何度も何度も、差し込んでいた。
やがて左手薬指が彼女の体から分断された。
その根元からポロンと指輪が転がる。
腐った指は、彼女のものとはいえ、彼女の願いとはいえ、否応もなく生理的な嫌悪をもたらす。
口に含もうと思うだけでも体が拒絶するのに、これを飲み込むだなんて。
「ねぇ、その時はさ――」
鈴の鳴るような、凛とした声音で彼女が明るく笑う。
彼女の声が好きだった。
彼女と過ごす時間が何よりも大切だった。
彼女の生き様を誰よりも愛していた。
だから。
「私を食べてよ」
遺言とも教唆とも取れるその希いを、無かったことに、ただの冗談で終わらせるわけにはいかなかった。
ごくりと、もはや何も飲み込むもののない喉が鳴る。
彼女の最期の願いを叶えるために、
その愛おしい指を、
口に含んだ。
めぐる季節に、桃を買う。
腐って水になっていく様が、その匂いが、彼女を思い出させる。
――ずっと一緒。




