第8話
ふと、時計や花瓶が置かれている、アンティーク調の棚に目をやった。
そこには、チェッカー盤が置かれていて、秘書の言葉と頭の中で結びつく。
チェッカーというゲームには、完全解がある。プレイヤーがお互いに最善の手を選び続けた場合、必ず引き分けになってしまう。
私は、父にチェッカーを教えられ、たまに相手をしてもらっていた。中学生になり、月成に会ってからは、他の使用人や父と対戦することはなくなったが。
ふと、チェッカー盤を取り、机の上に置く。
しかし、対戦相手を呼ぶ気力が湧かず、詰め将棋のように、一人で駒を並べ始めた。自分でも、何をしているのか、何がしたいのかも分からない。
ただ、秘書の言葉とチェッカーの間に、妙な繋がりを感じただけ。ただ、それが私にとって何を意味するのか、まだ見えずにいた。
私が取れる最善の選択、望んでいる未来とは何か。
そんなことを考えていると、駒を落としてしまった。
慌てて、それを拾おうと屈んで手を伸ばす。
その時、月成の言葉がよぎった。
「また、いつかの日に……」という言葉が。私は、自身の手を見つめた。
月成は、解雇されても、私と会うことを望んでいる。
だけど、私はいつかの日なんて嫌だ。私は、毎日、月成と会いたいし、話したい。
月成は、私がする選択に怒るかもしれないが、それでも優しく微笑みながら付いてきてくれる気がする。
私の手は、微かに震えていた。隠しきれない不安が、そこに表れている。それを隠すように、強く握りしめ、覚悟を決めた。
私は部屋から飛び出し、父の部屋へと向かう。何を言われても、私は引かない覚悟があった。
扉をノックし、開ける。父は、私を見るなり、ギラリと睨みつけるように目を向けてきた。
「お父様。私は、月成と共に、この家を出たいと考えています」
「それは、私に対する脅しか?」
「違います。月成は、今や私にはかけがえのない存在。そんな月成が屋敷から居なくなってしまうなら、私も月成と同じ道を歩みたいだけです」
父は、呆れたように息を漏らす。
「仮に、この家から出ていく場合、衣食住はどうするつもりだ。
何か当てや考えはあるのか」
「ありません。それでも、月成と一緒に居たいだけです」
父は俯き、顔を伏せた。
「もういい。月成との契約は今日で切れる。お前も今日中に、荷物をまとめることだ」
私は軽く頭を下げ、部屋から出ていった。一度、自室へ戻り、月成の部屋へと向かう。
扉をノックすると、力ない返事が返ってくる。
中に入れば、月成はスーツケースに荷物を詰めていた。しかし、スーツケースの中にはあまり物が入っていない。
学生服や教科書、お揃いのマグカップなど、月成の私生活に関するものが無かった。
「ひ、雛乃!? なんでここに」
「月成が言ったんでしょ? また、いつかって。まあ、もう知ってるんだけど」
「だったら……何をしに来たんですか」
私は丸テーブルの傍にあった椅子に腰掛ける。テーブルにチェッカー盤を置いて、月成に言う。
「お別れを言いにきた……なんて、言うわけないでしょ。
私は、月成と一緒にこの屋敷を出る」
月成は動揺を隠せず、体が硬直している。
「雛乃がここを出る理由なんて無いですよ! あなたは、ここの次期当主なのに、そんなこと」
「私たちは友達でしょ。それだけで十分だよ」
月成は俯いたまま、言葉を発せずにいた。拒まれることは分かっていたこと。だから、チェッカー盤を持ってきた。
「じゃあさ、これで決めようよ。月成が勝ったら、私は屋敷から出ない。
私が勝ったら、月成と一緒に出る」
「分かりました。負けても、駄々をこねないでくださいね」
月成は私と対面する形で座ると、二人で駒を並べる。
私は高校受験が近づいたタイミングから、一切チェッカーをやらなくなった。戦術や月成の癖なども、記憶から抜けている。
私が先行になり、駒を一つ動かす。月成は少しも考える素振りも見せず、駒を動かした。
その後も、私の癖を記憶しているかのように、駒を動かしてくる。いったい、何手先まで読んでいるのか。
そして遂に、月成の駒が王になれるところまで来てしまった。
「雛乃、もうやめましょう。私は、あなたが中学生の頃から好きでした。
だから、あなたの選択する手が分かるんです」
「へぇー、だったら尚更やめられないね」
強がっていることを言ったが、この戦況に冷や汗が止まらない。そして、追い打ちのように告げられた、月成の「好き」という言葉を聞いて、心の底から負けたくないと思った。
とにかく、ミスさえしなければいい。
元々、チェッカーはそういうゲームだ。
戦況は少しずつ私に傾き始めた。先程までは、面白いくらいに月成に翻弄されていたが、持ち駒の差がなくなりつつある。
涼しい顔をしていた月成にも、若干の焦りが見え始めていた。
そして、残り駒は二つになった。室内は、駒を置く音もしなくなり、静寂が訪れる。
お互いの駒が動かせなず、盤面は膠着状態に陥った。
私も月成も、いつの間にか呼吸が荒くなっていた。互いの目を見合うと、思わず笑い声が漏れる。
「雛乃……」
「なに、月成?」
私が微笑みながら聞くと、月成は照れくさそうに頬を掻く。
「人生には、チェッカーと違って完全解はありません。
だけど、私は雛乃と一緒にいることが、最善の選択だと思います」
月成は胸元で、両手を合わせる。
「なので、私と一緒に、屋敷から出ませんか?」
私は月成の手を包む。そして、最高の笑みを浮かべて言う。
「当たり前でしょ! だって、私たちは友達なんだから」
月成の瞳からは、一雫の涙がこぼれ落ちる。ひどく安心したような表情を見ると、私もつられてしまいそうだ。
その日、私と月成は同じベッドで眠った。この先、どんな困難が待ち受けているかは分からない。
それでも、私たち自身の完全解を選び続けようと、二人で誓った。
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