第3話
【月成視点】
しばらく走り、息が乱れてきた。振り返り、雛乃様の姿が見えないことを確認する。
ある住宅の塀にもたれ、息を整える。
頭の中で、「雛乃って呼んでみて」という言葉が反芻していた。
呼べるわけがない。呼んでいいわけがない。
それを理解しているはずだった。
なのに、呼んでみたい。そんな感情が、心の奥底に芽生えていた。
私はその感情を、振り払うように首を振る。
再び歩みを進め、雛乃様の屋敷に向かう。
その時、忘れかけていた記憶が、蘇った。
――
私には、二人の姉がいた。二人とも、私より優秀だった。学力においても、運動においても。
出来損ないの私を、両親は嫌っていた。家の中ですれ違えば、小突かれたり、暴言を吐かれたりと、嫌がらせを受けた。
最初は、あまり気にしていなかった。それでも、積み重なっていくと、私の中にあるそれは、無視できないものになってしまった。
姉二人と比べられ、蔑まれ、しだいに私に価値があるのかと考えてしまう。
時は経ち、私はある中学校を受験し、無事合格することができた。
この時でも、両親から褒めてもらうことはできなかった。
中学校の昼食は、弁当か学食。案の定と言うべきか、両親はお弁当も学食費も用意してくれなかった。
私は、お小遣いをきり崩し、お弁当を作る食材を用意した。
しかし、私のお小遣いで作れる弁当には限界があり、クラスメイトには馬鹿にされた。
幸いにも、私は慣れているので、そこまで苦ではない。
そう言えたら、どれほど良かっただろう。
ある日、私の中にある線が、ぷつりと切れた。パラコードやロープのような太い紐が、引きちぎられたような感覚に近いかもしれない。
それでも、無気力で、プログラムに従うロボットのように、学校に通っていた。
そんなある時、人気のない階段でお弁当を食べている時に、あの人と出会った。
階段を下る足音に、私は身構えていた。それが、クラスメイトのものではないと分かると、心底安心したものだ。
私を見つめる雛乃様の目は、道端にいる鳥を見るのと変わらないもの。本当に、興味が無かったのだろう。
そのまま、通り過ぎるのかと思ったが、私の持っている弁当を見ると、しゃがみ込んできた。
「すごいお弁当だね、一口だけもらってもいい?」
その時の私は、発せられた言葉の意味が理解できなかった。
そんな私を見て、有無を言わさず、雛乃様は、私のお弁当を口に運んだ。
「うん、おいしいね。一見、使われている食材も少ないし、あまり見栄えもよくない。
だけど、火加減や味付けでの工夫が感じる」
雛乃様は、一呼吸置いて続けた。
「どうかな、私の使用人見習いとして、働く気はない?」
私は、この状況を飲み込めていないのに、そんなことを言われて、とうとう訳がわからなくなった。
この人は、何を言っているんだ。使用人見習い? 働く? 中学生の私が。
「到底、家で働いている使用人には、敵わない。
だけど、君には才能を感じるんだ。私の目に、狂いはないはず。
どうかな? 引き受けてくれるかな?」
もう、やけだった。何もない私が、これ以上失うものもない。
だったら、この人の誘いに乗ってみてもいいか。そのくらいの考えだった。
「こんな私でも良かったら……お願いします」
雛乃様は、何も言わずに手を差し出してきた。私は、小刻みに震えながら、その手を取った。
かくして、私は使用人見習いとなった。
先輩に教わりながら、使用人としての腕を磨く日々。
使用人としての仕事だけでも精一杯なのに、学業との両立は困難を極めた。
だけど、使用人を辞めなかったたった一つの理由。
私が屋敷の掃除をしている時。
「おっ、月成じゃん! お疲れ様。今日もありがとね」
その感謝の言葉。それだけだ。
仕事の対価として、お金は支払われていた。だけど、そんなものよりも、私にとってはずっと価値のある言葉。
私の存在を認めてくれる、価値を認めてくれる、雛乃様の言葉が私をここに繋ぎ止めていた。
もっと、雛乃様に認められたい。もっと褒められたい。
そんな、身勝手な欲望が、私の中で湧き上がった。
だから、必死に努力した。どんな家事も、一流にこなせるまで。
だけど、そんな私が邪魔な人間がいた。
雛乃様の専属の使用人になりたい先輩たちだ。私が掃除をしていると、わざとぶつかったり、料理に異物を混入したり。
私が仕事を失敗するように、執拗な嫌がらせが続いた。
それでも、私の中にある欲望が消えることはなかった。
雛乃様は、盤上で駒を動かすのが好きなようで、私は毎日その相手をしていた。
すっかり、チェッカーというゲームに夢中なようだ。
この時間が、雛乃様と一番話せるから嬉しかった。しかし、その分だけ屋敷でのことがバレてしまう可能性が上がる。
何ともないように、努めていたが、聡明な雛乃様を騙すことはできなかった。
「ねえ、なんか隠してない? 何かあったの?」
「何ともありません。それよりも、次の指示をください」
雛乃様は、小さな子供のように口を尖らせる。
「そんなことで私を騙せると思ってるの? 心外だなー」
「そんなことは!」
「ほらー、やっぱり隠してる」
まんまと罠に掛かった。
「はぁー、隠し事は無しでいこうよ。友達でしょ?」
「私は使用人ですので」
雛乃様は頬を膨らませた。とても令嬢には見えないその反応が、少し愛おしく感じた。
「じゃあ、今は友達じゃなくてもいいから。とにかく、月成が悩んでいる理由を聞かせてよ」
きっと、私が拒んでも、雛乃様は引かないだろう。
私は、この屋敷での出来事を大雑把に話した。
雛乃様は、怒り心頭といったご様子。だが、まだ中学生。年相応の怒り方に、安心すると同時に、罪悪感が湧き始めた。
雛乃様は、純粋に私を思って、怒ってくれている。
私は、価値を見出してほしいという、下心を抱いていた。
そんな人間が、雛乃様の傍に居ていいわけがない。
そう思うと、自然とまぶたが熱を帯びる。
私を見る目が、子犬を見るような優しいものに変わった。
「大丈夫、私が守ってあげるから」
そう言いながら、雛乃様は私を抱き寄せた。
温かい、ずっとここに居たい。そう思うほど、居心地が良かった。
だからこそ、私は雛乃様に相応しくない。
この瞬間、雛乃様の傍にいて、恥ずかしくない程に自分を磨き上げ、完璧な使用人になることを誓った。
だから、友達にはなれない。
――
この時から、友達になるというお願いは、叶えられない運命だった。
対等な関係にはなれない。なぜなら、使用人だから。
だけど、人は簡単には変われないものだ。
今でも、価値を見出されず、捨てられるかもしれない。そんな恐怖に蝕まれている。
それを考えるだけで、震えが止まらず、吐き出しそうになってしまう。
今できることは、完璧な使用人になり、雛乃様の傍にいること。
そのために、早く帰らないといけない。
黄金色に染まり始めた空が、それを催促するようだ。
そう思い、止まっていた足を無理に動かす――しかし、それは叶わなかった。
この世界で、最もお慕いする人の声によって、いともたやすく引き留められた。




