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庵の座卓—二つの対話

庵の土間に、湯気の細い柱が立った。

鉄の急須、丸い木盆、薄い瑠璃の湯呑。座卓の上には、いつもの段取りが静かに並ぶ。

「遠いところ、よく来たわね」

アサヒが柔らかく会釈する。隣の女は微笑を一筋。

「ここでは“セレス”と呼んでちょうだい、アルト」

「……承知しました」

アルトは軽く頭を下げた。呼吸がようやく胸の底に降りていく。

庵の匂い――薪、茶葉、干した草。忘れていたはずの記憶が、鼻腔から静かにほどけていく。

湯呑が一つ、アルトの前に置かれる。向かいの席では、ルシアンが注ぐ手を止め、短く目で合図しただけだった。

問いも、労いも、誘導もない。

ただ――座っていい場所がそこにあるという合図。

「アルト殿下は、こちらで」

アサヒが奥座につづく敷居を指す。「リュシアは、こちらへ」

庵の中で二つの小さな場が出来た。座卓の片側でルシアンとアルト、もう片側でシオンとリュシア。

間に、湯気だけが穏やかに行き来する。


「……で、お前はどうしたい?」

最初の言葉は、それだけだった。

アルトの喉が、ひくり、と鳴る。王城でも学園でも聞かれたことのない種類の問い。

正解がないのに、逃げ道もない。

「私は……勇者と呼ばれ、そう振る舞うべきだと、ずっと……」

言ってみて、薄い違和感が自分の声に混ざるのを自覚する。

「でも、影狼を討ったあと、称賛は“私だけ”に与えられた。皆で勝ったはずなのに。胸の中が、ざらついて……」

ルシアンは頷かない。否定もしない。

ただ湯呑を寄せ、茶の表面がかすかに揺れるのを見せる。

「違和感は、放っておくと濁る。掬って、光に当ててみる。そうすると中身が見える」

「中身、ですか」

「肩書きと、やりたいこと。どちらが声を大きくしているか、だ」

ルシアンは湯呑を置いた。

「“勇者”の肩書きで動くのか。“仲間と並ぶ自分”で動くのか」

アルトは視線を落とした。木目をなぞる指先が、かすかに震える。

言葉に乗せるのが怖い。だが、ここで黙れば、何も変わらない。

「……私は、並びたい。前でも後ろでもなく、同じ地面に、同じ泥で」

声が出た瞬間、体のどこかの錆が外れる音がした。

「なら、言葉にして」

ルシアンの声は変わらない。

「自分に聞こえるように。お前の言葉で」

アルトは息を整え、はっきりと結んだ。

「――私は、“勇者である前に”、仲間として選ぶ。共に戦い、共に失敗し、共に進む。そのために、私の力を使う」

庵の梁の上で、風の細い音がした。茶の香りが、少し甘くなる。

ルシアンは小さく頷くだけだったが、その頷きは、王城の大広間でも得られなかった確かな承認だった。

「怖いのは?」

「あります。……でも、怖いまま動きます」

「それでいい」

短い言葉が座卓に置かれ、音もなく沈んだ。



「手を、こちらに」

アサヒは掌を上にして差し出した。リュシアがそっと重ねる。

「目を閉じて、自分の中に地図を描いて。胸の奥、喉、みぞおち……“痛み”はどこにいる?」

リュシアは長く息を吐いた。昨夜の川べり――アマネの傷に手をかざし、教えられた祈りを口にした。

治せなかった痛み。悔しさ。だが、最後の一瞬だけ、祈りと言葉が重ならなかった。

あれは“教わった祈り”ではなく、“自分の願い”に近かった。

「……喉と胸のあいだ、です。言葉が引っかかる感じがする」

「そこに、そっと手を当てるみたいに、息を置いて。次に――“誰の言葉”で祈るのか、選ぶ」

アサヒの声は、湯気みたいにやさしい。

「教会の言葉でもいい。あなたの言葉でもいい。今日は、あなたの言葉を試してみる?」

リュシアは、はい、と小さく頷いた。

胸の奥のかたい輪郭に、言葉をゆっくり押し当てる。

「……私は、癒やしたいです。役割だから、ではなく、私が、そうしたいから」

指先がほんのり温かくなる。

アサヒは微笑み、栗色の小皿を押しやった。

「甘いものは、胸の硬いところを柔らかくするから」

セレスが湯呑を差し替え、リュシアの目を見た。

「あなたが選んだ言葉は、きっと人にも届く。王城では聞こえにくい声が、ここではよく響くの」

リュシアは小さく笑った。

「……私、もう少し自分のことを考えてみます」

「それでいい」アサヒが言う。「二泊。体に言葉を馴染ませるには、時間がいるから」

セレスが視線だけで応じた。――根回しは済んでいる、という合図。

リュシアは静かに頭を垂れた。

ふすまがかすかに動き、二つの対話が一つの空気で合流した。

アルトが立ち上がり、深く一礼する。

「……ありがとうございました。戻ります。皆のところへ」

「道に迷ったら、ここに戻ればいい」セレスが微笑む。

「王妃はそう言わないけれど、セレスは言うわ」

アルトの口元に、わずかな笑みが生まれる。

「はい。……セレスさん」

戸口へ向かい、足を止めた。振り返る。

「……幼い頃に、ここに来た気がします。母に手を引かれて。水辺で笑っていた黒髪の――」

言いかけて、飲み込む。

確信のない言葉は、ここでは置かないほうがいいと、今の自分は知っている。

「また、来ます」

庵を出る背に、ルシアンの短いひとことが落ちた。

「忘れ物を、取りに来い」

「……はい」

扉が閉まる。外の風が、ほんの少し明るい。

夕刻。座卓に残った湯呑を片づけながら、アサヒがぽつりと呟いた。

「痛みの地図は、描けそう?」

「はい」リュシアは自分の胸に手を置く。

「教わった祈りも、大切です。でも――私の言葉で、誰かを癒やしたい」

「その誰かが、君自身でも、いいのよ」

セレスが笑って、手拭いを絞った。

「明日、もう一歩だけ深く潜って。選ぶ言葉は、きっと見つかるから」

藍が濃くなる窓の向こうで、最初の星が灯る。

リュシアはその光を見上げながら、胸の奥で小さく頷いた。

(アマネ。……あなたが傷ついても、痛みも含めて私の手で、きっと)

庵の夜は、静かに降りてくる。

湯気は薄く、けれど絶えず。

誰かの“答え”が、またひとつ、ここで生まれた。


会話劇の山。不定期・毎日目標で続けます。

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