小城の鐘、ただいまの街
――一年後、リュミエール。
朝霧の薄布がほどけると、谷あいの街に低く澄んだ鐘の音が落ちた。丘の肩に寄り添うように建つ小城――白木と蒼石で組まれた控えめな城館――その鐘楼から鳴る一打だ。高くそびえる塔はない。蔦を這わせた庇と、緩やかな曲線を描く屋根。威圧ではなく、迎えるためのかたち。
小城の足元には、庵ひろば。円形の石畳の中心に、幼い神樹が根を張っている。まだ人の背丈ほどの幹だが、葉は光を透かしてゆるやかに脈打ち、朝風を受けて小さな鈴の音みたいな囁きをこぼした。
露店の天幕がぱたぱたと開き、パンの香り、焼き果実の甘い匂い、金床の乾いた音、子どもたちの笑い声が混ざり合う。人も亜人も、ドワーフもエルフも、肩を並べて“いつもの朝”を始めている。
「……鳴ったね」
アマネが小城を見上げて目を細めた。隣でアルトが頷く。
「一日のはじまりの合図。城の鐘であって、街の鐘でもある。そう決めたんだ」
「うん、いい音。『ただいま』と『いってきます』の間に、ちゃんと居場所がある感じがする」
アルトは少し照れたように笑い、視線を庵ひろばへ落とした。
「城よりも先に、人が集まれる場所を作りたかった。けど……皆が『王の住まいも誇れる場所であってほしい』って言ってくれて。だからこの小城は、街の“居間”みたいにしようって決めたんだ」
「じゃあ、ここはみんなの家の大きな一室だね」
アマネの言葉に、アルトははっきりと頷いた。
小城は寄進と奉仕で建てられた。石を運んだのは鉱山の仲間、梁を刻んだのはドワーフの職人、緑を這わせたのはエルフの手。設計の骨はブリューナとファエリアが引き、ミナが暮らしの目線で細かな仕掛けを散りばめた――避難路の暗号灯、広場側へ開く食堂、夜間も子どもが迷わないための星灯ライン。
庵ひろばの掲示板には、短い三つの則――
① 誰でも来られる
② 差し入れは循環へ
③ 話を遮らない
それは、この街の合言葉のように受け止められている。
「……おはようございます、神樹さま」
エリスティアが幼い幹に手を添え、そっと挨拶した。指先から薄緑の光が滲み、神樹は小さく応える。彼女の肩には、シルヴァ・ユグドの気配が静かに揺れている。
「根の脈は、今日も三方で良く響き合っています。ソレイユの裏庭と、ルナリアの庭、そしてここ。……ちゃんと繋がってる」
「うん。みんなで守る“森”だもんね」
アマネが微笑み、アルトが小さく息をついた。
「『封印地を橋に』――あの日の言葉を、街の形で示したいんだ」
そこへ、ミナが大きな籠を抱えて駆けてきた。髪を後ろでまとめ、作務衣の袖をくくっている。
「おはよー! ギルド本部の朝ごはん配り、今日から当番だよ! ほら、焼き立てパンと蜂蜜バター! あと新しい“星糸ベルト”の試作品、あとで見て見て!」
「朝から元気だね、ミナ」
アルトが笑うと、彼女は得意げに胸を張る。
「元気は資源! ね、アマネ!」
「うん、最大の資源」
ひろばの反対側では、ジークが新兵たちに体術の基礎を教え、ダリオが掲示板に本日の依頼札を並べている。カイルは簡易の施療卓で老人の手当てをし、リュシアが子どもたちに読み書きを教えている。レオンからは前夜に伝書が届いた――王都の水路改修が前倒しで完了し、穀倉地帯への分水が始まった、と。小城の書記室では、王都・ルナリア・リュミエールの三路通信が朝一番に開通するのが日課になった。
「鐘、もう一回鳴らしてもいい?」
子どもがそっと尋ねる。番の兵が膝を折り、頷いた。
「交代で一打ずつ、ね。今日の『いってらっしゃい』を、みんなで」
小さな手が縄を引く。澄んだ音が広がり、露店の人々が自然と顔を上げる。誰かが手を振り、別の誰かが笑って返す。音は丘を渡り、畑へ、工房へ、街路の隅々へ広がっていく。
アマネはその音の方角を見守りながら、アルトの袖を軽く引いた。
「ねえ、アルト」
「うん?」
「私、剣も魔法も好きだけど……たぶんいちばん好きなのは、いまの音だ」
アルトは目を細め、城の鐘楼を見上げた。
「同感。戦いで守るものの名前が、はっきり聞こえる気がする」
エリスティアが神樹から手を離し、ふたりの隣に立つ。
「この街は、音で結ばれていきます。鐘と、笑い声と、泣き声と、謝る声と、また会おうねっていう声で」
「……いい街だ」
ジークが肩を回しながら近づき、にやりと笑った。
「さて、今日の鍛錬はひろば一周十周からな!」
「えええー!」
子どもたちの悲鳴混じりの返事に、ひろばがどっと沸く。ミナがパンかごを高く掲げて叫ぶ。
「十周走った子には追いバター!」
「がんばる!」
笑いの波の向こうで、カイルとリュシアが目を合わせて微笑み、そっと掌を合わせた。
「行ってらっしゃい」「行ってきます」
それは毎朝交わす、小さな祈りだ。
小城の壁には、まだ余白が多い。記録を刻むための白い石板、寄進者の名を載せる真鍮の枠、未来の計画図を留める木のピン。完成しきらない形のままに、ここで暮らす人々の手が加わる余地を残してある。
アマネがふと空を仰ぐと、雲の切れ間から光が差し、神樹の葉がそれを受けて揺れた。葉擦れの音が、鐘の余韻と重なる。
「じゃあ、行こっか。今日のやること、山ほど」
「うん。今日もまた、ここに帰ってくるために」
三人はひろばを抜け、小城の低い門をくぐった。門扉の裏側には、小さな文字が刻まれている。
『ここは誰かの居場所であり、あなたの居場所でもある』
鐘が三度、やさしく鳴った。リュミエールの朝が、はじまる。
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