小さな建国式――リュミエールを掲げる日
――風がやわらいだ。荒野に打った杭はすでに並び、粗削りの木柵がゆるく円を描いている。かつて封印地と呼ばれた土は、いま刻一刻と“広場”の手触りを帯び始めていた。
その中心に、浅く掘られた小さな穴がある。穴の縁には白い布。布の上に静かに置かれたのは、掌におさまるほどの神樹の芽――薄い翡翠色の若葉が、朝の光を受けて微かに震えていた。
「……始めよう」
誰の号令というわけでもなく、人々の息が整う。人、亜人、ドワーフ、エルフ――四つの代表が一歩ずつ前へ出て、輪を形作った。輪の外側には、王族と従者、鍛冶師、魔道具師、ギルド員、村の子ら。誰もが背筋を伸ばし、しかし肩の力はどこか抜けている。大きな旗はない。飾り立てた幕もない。代わりに、顔がある。ここに“これからの生活”を持ち寄った人たちの顔が。
レオンは簡素な礼装の胸紐を整え、アルトと視線を交わした。二人の間に交わるのは、王都で幾度も練られた言葉ではなく、荒野で交わした握手の温度だ。
エリスティアは芽の傍らに膝をつき、指先で土の感触を確かめる。彼女の背に控える神樹の気配は、いまは囁き声ほどの静けさ。その静けさは、不安ではなく“信頼の間合い”だった。
「みんな」
アマネの声が輪に届く。白い暁衣の裾には、先日の戦いの細かな傷が少し残っている。彼女は胸の前で手を重ね、笑った。
「大きな城の鍵じゃなくて、今日、ここに差すのは日常の鍵だよ」
ほんの少し笑いが起き、空気がやわらぐ。リュシアが頷き、杖先で土を軽く叩いた。からん、と澄んだ音がして、広場の周囲を回るように、小さな光の粒が一巡だけ流れた。
輪の誓い
四つの代表が、順に口を開く。
最初に進み出たのは、亜人の若い女性だった。獣耳に飾り紐を結い、胸にはひと抱えのパン籠。
「わたしたちは、この街で同じ釜のスープをすすることを誓います。腹が立った日も、まず一度、鍋をかき回してから話します」
笑いが広がる。次にドワーフの壮年が、煤けた手で前髪を掻いた。
「わしらは、折れたものを見たらまず直してみると誓う。直せなかったら、次は折れにくいもので作る。そうやって街も人も、ちびっとずつ強うなる」
続いてエルフの魔道具師が、柔らかな声で。
「わたしたちは、よく聴くと誓います。言葉の奥の沈黙も、森のさざめきも。急がぬことを恐れず、速さを選ぶ時は、誰かのために」
最後に人の代表――皺だらけの手をした老女が一歩出た。背は曲がっているが、その目は湖のように澄んでいる。
「わたしたちは、ここに来た誰にでも**『おかえり』**と言います。そして、自分にも言います。……『ただいま』と」
輪が深く息をつく。誰かが袖で目尻をぬぐい、子どもが老女の裾を握った。
神樹の芽の“根付け”
エリスティアが両手で芽を抱え上げる。集まった人々の視線が、その細い手つきを追った。彼女は土の穴へ身を寄せ、短く祈りの言葉を紡ぐ。堅苦しい聖句ではない。畑の畝に向けて歌うような、生活の調べ。
「……息をするように、水をのむように。
光と影を分けあい、みんなと一緒に育ってください」
芽が、ふるりと震えた。風もないのに若葉が揺れ、葉脈に青い光が一筋、走る。エリスティアは微笑み、穴へそっと芽を下ろした。
土を寄せる手は、一人ではない。アマネが、リュシアが、アルトが、レオンが。続いて代表の四人が、子どもたちが、鍛冶師が、施療院の見習いが――掌の土を一握りずつ、芽の根元へ運ぶ。
そのうちに、芽の周りの土がわずかに温かくなった。レオンが目を細め、アルトが短く息を呑む。温かさは、誰かが魔法で与えた熱ではない。人の体温が重なって生まれた生活の熱だった。
「……ありがとう」
誰にともなく、エリスティアが囁く。芽は静かにそこへ収まり、広場の中心に小さな影を落とした。
王家双柱の共同宣言
レオンとアルトが、輪の前へ進む。二人は視線を合わせ、うなずき、同時に一歩、土を踏みしめた。
レオンが短く言う。
「ここを――橋にする」
アルトが続ける。
「争いの端ではなく、往復の道に」
ふたり、声を揃えて。
「我らは、“リュミエール”の名において、日常を守ることを宣言する。」
言葉はそれだけだった。だが、風が確かに変わった。胸の奥のどこかに、そっと杭が打たれるような感覚。拍手は自然に生まれ、すぐに大きくなっていく。
教導院とギルド本部
拍手の余韻の中から、カイルが一歩出た。白の正装はまだ新しく、しかし袖口には労の皺がいくつも刻まれている。
「ルーメナス教導院を、ここリュミエールにも開きます。祈りは特権ではありません。学ぶこと、癒し合うこと、分かち合うこと――それらを誰の手からも遠ざけないために。まずは広場の一角に小屋を。講壇は樽、椅子は木箱で十分です」
笑いがまた起きる。リュシアが隣で小さく肩をすくめ、杖先で簡易の掲示板を立ち上げた。板には、すでに文字が書かれている――“明日、子どもの読み方教室。午後は包帯の巻き方”。
続けて、ダリオが前へ。腕を組み、胸を反らし、しかしどこか居心地悪そうに後頭部を掻く。
「ええと……ギルド本部、ここに開設します。依頼の窓口、護衛の調整、物流の段取り、ぜんぶ回す。荒事ばっかじゃねぇ。仕事の橋だ。若いの、来い。真面目にやるなら、誰だって歓迎だ」
その背後で、ジークが親指を立て、ミナがにやりと笑う。ミナの背中の《アルキメイア》が、昼光の中で小さく脈打っていた。
それぞれの手
式は、短く、温かく、よく笑った。豪奢な余興も、華美な祝宴もない。代わりに、鍋の匂いがある。誰かが焼いたパンの香りがする。剥き出しの長テーブルに、紙包みの干し果物や、湯気の立つスープ。子どもたちは列に並んで、こぼさないように両手で椀を抱える。
アマネは椀を受け取りながら、隣に並ぶ老女に言った。
「……私が特別なら、あなたも特別です。だから、いっしょに食べよ」
老女は目を丸くし、それから皺だらけの笑顔で頷いた。
アルトは杭を見上げる。昨日立てたばかりの、それでも風に負けない杭。彼はぽつりと言った。
「城より先に、人が集まれる場所が欲しかったんだ」
レオンが肩を叩く。「正解だよ、弟。城はあとからでいい」
カイルが、施療箱を肩に掛け直す。「午后は、小さな診療も始めます。転んだ膝、火傷の指、まずはそこから」
ダリオが咳払いをひとつ。「ギルドの掲示、最初の依頼は“杭を増やす”。……そういうの、悪くねぇだろ?」
エリスティアは神樹の芽のそばに座り、子どもと同じ目線で若葉を覗き込んでいる。彼女の指先に、薄い風がまとわりつき、芽がそれに答えるようにわずかに揺れた。
リュシアは広場の片隅で、布を三角に折る手つきを教えていた。包帯の端を押さえているのは、照れている若い兵士だ。
ミナはブリューナとファエリアに挟まれて、早くも庇に付ける雨避けの仕掛けを描いている。線は伸びたり丸まったり、やがて紙全体が矢継ぎ早のアイデアで埋まった。
ジークはその横で、丸太を担ぎ上げ、子どもたちの「おおっ」という声を受けて笑う。「見学も手伝いも、どっちも歓迎だ」
余韻
やがて、拍手が一段落した。風は相変わらず優しい。遠くの丘で、誰かが笛を吹き始める。旋律はとぎれとぎれだが、広場の空気にぴたりと合っていた。
誰かがぽつりと呟く。誰だったのか、あとで尋ねても皆が首を傾げるだけだった。
「ここに、“ただいま”が生まれる」
その言葉は、誰のものでもよかった。輪の内側と外側、ここにいる人とこれから来る人、いま手ぶらの人と明日荷物を背負って来る人――それらすべての口から、少しずつ生まれ、少しずつ育つ言葉だった。
芽が、もう一度だけ小さく震えた。葉脈を走った光は、さっきよりも長く残った。広場の真ん中に落ちた小さな影は、日が傾けば伸びるだろう。影が伸びる場所に、人の足あとが増えるだろう。
その未来を、誰もがもう、怖れではなく楽しみとして思い描いていた。
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