庵の戸を叩いて
夕暮れが竹の梢を撫で、庵の屋根に薄金色の縁取りを残していた。川音は遠く、風はやわらかい。戦の匂いを洗い流すような静けさの中、アマネとアルトは石畳を並んで踏みしめる。
「ただいま、って言っていいかな」
「もちろん」アルトが微笑む。「ここは君の家だ」
戸を叩く前に、ふわりと香りが開いた。焙じ茶。戸がするりと開き、アサヒが顔を出す。
「……おかえり」
その一言で、アマネの肩から力が抜けた。抱き寄せられると胸の奥に溜めていた熱がほどけていく。
「無事でよかったわ、アマネ」
「うん、お母さん」
アサヒはすぐにアルトにも会釈を向ける。「いらっしゃい、アルトさん」
「お邪魔します。アサヒさん」
板間へ通されると、卓の向こうでルシアンが湯のみを並べていた。目が合うと、静かに頷く。
「帰ったな」
「ただいま、お父さん」
三人が腰を下ろすと、器に温い香りが満ちた。ひと口、ふた口。戦の音がほんの少し遠ざかる。アマネがカップを置き、まっすぐ父へ向き直った。
「話があって来たの。……私、アルトと一緒に、封印地に“橋”を架けたい。人と亜人、ソレイユとルナリアの行き来が当たり前になる場所を――リュミエールを、作る」
アルトも膝を正す。「ルシアンさん、アサヒさん。私はアマネと生きたい。彼女と背中を預け合い、国を育てたい。そのために――娘さんを、私に託してほしい」
部屋の空気がほんのわずか、張りつめた。ルシアンは答えを急がず、湯のみを両手で包む。指先が縁を一度たどり、視線が二人の間に置かれる。
「重い言葉だ。……だから、重い問いを返す」
「うん」
「強い時だけでなく、弱い時も並んで立てるか。相手の正しさだけでなく、間違いを抱えて眠れるか。負けた日の背中に手を置いて、『それでも明日へ行く』と言えるか」
沈黙をひとつ挟んで、アマネが先に頷く。
「出来る。私、たぶん、強くはない。でも、アルトが弱い日も、私が弱い日も、手を離さない」
アルトも続ける。「怖がることを恥じません。謝るべき時は謝り、譲るべき時は譲る。……そのうえで、二人で進みます」
ルシアンの目元が、ようやくやわらぐ。
「それでいい。人は理屈で強くならん。誰かの顔を思い出して踏み止まる――その癖を、忘れなければいい」
アサヒがくすりと笑って、二人の湯のみを足す。
「私からは一つだけ。『ただいま』と『いってきます』を、必ず言いあうこと。喧嘩の翌朝でも、ね」
「はい」
障子の向こう、庭の若木が風に揺れた。アマネは小さく息を吸い、もう一つの願いを切り出す。
「それと――神樹の芽のこと。封印地の土に、休ませたい。いつか街の心臓になるように」
アサヒは穏やかに目を細める。「ええ。あの場所なら、きっと息を吹き返すわ」
ルシアンが頷く。「芽は守る対象であると同時に、街の鏡だ。人らしさを欠けば枯れるし、人らしさを積めば伸びる。お前たちが選ぶ“人らしさ”を、あの芽は黙って見ている」
アルトはその言葉を胸に刻み、深く礼をした。
「ありがとうございます。必ず、恥じない街にします」
「恥じぬように、じゃない」ルシアンは肩の力を抜かせるように口の端を上げた。「恥じたら、やり直せ。庵のやり方はそれだ」
「……はい」
アサヒが箪笥から小箱を取り出す。中には細い紺の組紐が二本。端には小さな星映水晶の粒が結わえてある。
「旅の守り。紐はほどけるし、結び直せる。人の縁も、同じ」
アマネとアルトは互いの手首に一本ずつ結び合った。結び目を指で押さえるアルトの手が、ほんのわずか震えている。
「……うれしい」アマネがはにかむと、アサヒは娘の髪を撫で、ルシアンはそっと視線を逸らした。
「出立はいつだ」
「明日にはまだ荒野ではあるものの、建国式を行います」
「なら、今夜はよく眠れ」
短い言葉だが、温かい重みがある。立ち上がる二人を、アサヒが玄関まで見送った。戸口に夜風が流れ込む。竹の影が揺れ、月が顔を出す。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「必ず、帰る」アルトが小さく付け加える。その横で、アマネは頷き、紐の星粒を軽く弾いた。
「お父さん、お母さん――ただいまも、また言いに来る」
庵を離れる足取りは軽い。けれど、その軽さは無責任からではない。結び直せることを知った者の、確かな歩幅だった。
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