光の跡、土の匂い
三日の喪が明け、神樹の姫の公開と八人の婚約が宣明された朝から――あれから、ちょうど半年。
黎明前、東の空が淡く透ける。
ソレイユ王都から西へ二日の道程、かつて“封印地”と呼ばれた荒野の縁に、人の灯が点った。焚き火の上で湯がことりと鳴り、濡れた土がかすかに蒸気を上げる。焼け跡に草が戻った斜面では、小さな花が露を抱き、夜更けの風がそれを揺らしていた。
アマネが、息をふっと吐いて笑う。
「……匂い、変わったね。焦げた匂いじゃなくて、ちゃんと“土”の匂いだ」
アルトが隣で頷く。肩にかけた外套の端を整え、斜面の下――これから人の手で整えられていく平地を見渡した。
「ここが“始まり”の場所になる。国じゃない、“暮らし”の場所の」
ミナが荷車の上からひょいと顔を出す。
「第一期の道具、ぜんぶ点検済み! 杭打ち機も、簡易水路の魔導弁も、ぜーんぶね。今日は下見と地鎮の儀、明日から本格着手だよ!」
ジークは彼女の背後で大きな木箱を片手でおろし、にやりと笑う。
「運ぶのは任せろ。お前は手を守っとけ」
リュシアは指先を土に触れた。
「……冷たさの奥に、脈があるわ。ここは“生き返ろうとしている”。焦らず、でも迷わず、ね」
カイルは杖の石突で軽く印を切り、静かに祈る。
「この地を住まう人たちの“日々”のために。奇跡じゃなく、積み重ねが実るように」
ひと息遅れて、二騎の馬が駆けてきた。レオンとエリスティアだ。
エリスティアは鞍から軽やかに飛び降り、風に解ける銀髪を押さえる。
「夜明け前の空気、好きです。……ここから“森”が育っていくんですね」
レオンは微笑み、地図を拡げた。
「王都側の支援隊は北と東の街道の整備に回す。俺は初期の水脈と治安維持を担当、アルトは――」
「南と西だね。三王国共同で資材が入る導線を作る。あと、ギルド本部の仮庁舎も早めに」
言葉を切って、アルトがアマネを見る。
「……アマネ。怖くないか?」
アマネは少しだけ考えて、肩をすくめる。
「怖いよ。でも“戻れる場所”を作るって、戦いより難しいの知ってるから。怖いままやる」
言って笑うと、アルトも、笑って頷いた。
◇
夜明け。地平の線が金にほどける。
エリスティアが若枝の入った水晶の器を抱え、皆の中央へ進み出た。神樹の芽は半年で一回り大きくなっている。葉脈が朝光を吸い、微かな囁きが胸の内側を撫でていった。
「――始めよう」レオンの声は簡潔だがやわらかい。
輪ができる。八人と、護衛の兵、職人、書記、若いギルド員たち。誰もが胸に手を当て、静けさを分かち合う。
カイルが小さく頷き、杖を地へ。
「土と水、風と光。ここに暮らす者たちの“いつも”に、どうか道を」
リュシアがその祈りに重ねる。
「痛みは薄れ、働きの汗は実りに変わりますように」
アマネは刀を鞘ごと地に立て、掌を土へ。
「ここを“ただいま”って言える場所に。何度でも」
ミナが胸を張る。
「安全第一! 働く手が笑って帰れる設計にするからね!」
エリスティアは若枝を胸の高さに捧げ持ち、ささやく。
「――シルヴァ・ユグド。ここに、あなたの“影”を根づかせます。人と自然が共に在れるように」
微かな風。葉が、ありありと返事をした気がした。
レオンが槍を正眼に立てる。穂先の青が、朝の水に似た色を返す。
「ソレイユは、隣人として関わる。命令ではなく、手で支える。……ここは、皆の都だ」
アルトが黎剣の柄に手を添え、短く言う。
「リュミエール――光が満ちる土地。名は、もう決めてたんだ」
アマネが肩で笑う。
「内緒だったの?」
「サプライズが好きでね」
くすくすと輪に笑いが広がる。その笑い声に、土の匂いが混じる。たしかな“始まり”の匂いだ。
◇
最初の杭が打たれた。乾いた音が三度、空に跳ね、朝靄を破る。
ジークが大槌を肩に、無骨に見えて丁寧に打つ。ミナは図面を肩越しに掲げて、指で空間に線を引く。
「ここ、風抜けを優先。冬場の逆風は土塁で逃がす。――うん、その拍子!」
「任せろ。拍子で殴るのは得意だ」
若いギルド員――ユウマとミオが杭を運び、ロイクとレナが縄張りを延ばす。
「アマネ姉ちゃん、見ててください! 庵の村で仕込んだ土方、見せますから!」
「おお、頼もしい」アマネが笑う。「終わったら朝ごはん一緒だよ」
リュシアとカイルは臨時の施療テントで手当ての用意を始め、エリスティアは周囲の樹々の“風の癖”を確かめて回る。
「この谷、午後は南西から強い。冬は冷えるわ。防風林、計画に入れましょう」
レオンは書記官と工程を詰めながら、一度だけ輪の外へ視線を投げた。かつての封印地の中心――そこに、まだ黒い跡が残っている。彼はまぶたを細くし、ただ一つ頷いた。
(終わらせたから、始められる。……そういう順番だ)
◇
小休止。湯気の立つ木椀が配られ、パンに蜂蜜が落とされる。
ミナが頬をふくらませて、アマネの膝に図面を載せる。
「ね、ね! ここ、広場の真ん中に“風鈴柱”立てたいの。風の道を可視化して、天気と人の流れを読みやすくするの。かわいいし便利!」
アマネが目を丸くした。
「それ、いい。毎日の“兆し”が見えるのは安心する」
リュシアがパンをちぎって頷く。
「音の重なりで風の層が分かるように調律できるわ。楽師にも手を借りましょう」
ジークは蜂蜜をつけすぎて眉をしかめ、カイルが苦笑して拭ってやる。
「……大人」
「手を出しなさい。――はい、これで“君も”文明人」
エリスティアは若枝の器の縁を指で撫でた。葉が小さく震え、内側に穏やかな声が広がる。
――聞コエル。⼟ノ匂イ、⼈ノ息。
彼女は目を伏せて微笑んだ。
「……ええ。みんなで守ります」
レオンがその横顔を見て、どこか照れたように咳払いをひとつ。
「夕刻には王都に戻る。資材と人の割り振り、今日中に整理を」
「はい。――殿下」エリスティアは目を上げる。「私は明日、こちらに滞在を。風と水脈の“繋ぎ”を調えたい」
「分かった。……頼りにしている」
アマネが小さく伸びをして、空を見た。
「太陽の道も、月の道も、ここに落ちる。だったら、きっと大丈夫」
アルトが横で息をつぎ、そっと彼女の手を握る。
「大丈夫にする。僕らでね」
◇
日輪が高くなり、叩く音が増え、笑い声が重なる。土の上に一本、また一本と線が引かれて、やがて小さな街の輪郭が見えてくる。
その真ん中に、ささやかな柱――“風鈴柱”の材が立った。ミナが目を輝かせ、ジークが最後の楔を打つ。
風がひとふき。まだ鈴はついていないのに、確かに“鳴った”気がした。
アマネが振り向く。エリスティアがうなずく。リュシアが微笑み、カイルが目を細める。
レオンとアルトは互いに視線を交わし、短く合図をした。
――ここから始まる。国でも軍でもない、“日々”のかたち。
土の匂いは確かで、光はやわらかい。
八人の背中に、同じ風が吹いていた。
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