庵へ—「セレス」の名と、はじめての自分
夜の森。
リュシアは小屋の外で見張り番をしていた。湿った風が髪を揺らし、遠くで夜鳥が鳴く。
その時、小屋の隙間から漏れた声が耳に届いた。
「……アルト様は、アルト様はどうしたいの?」
アマネの声。痛みに震えながらも、真っ直ぐに向けられた問い。
少し間を置いて――アルトの低い声が返る。
「……俺は、皆と歩きたい」
焚き火の音と共にその言葉が森に染み込んでいく。
リュシアの胸が強く揺れた。
正しい返答ではなく、自分の言葉。
(どうして……あんなふうに言えるの? 私には……)
胸の奥が空白になる。正しい祈りを知っているはずなのに、口を開けても何も出てこない感覚。
その小さな違和感を抱いたまま、夜は更けていった。
翌日、学園中庭。
模擬演習の余韻で生徒たちがざわついている。成功の話、失敗の話、次の班分けの噂。
人混みから少し離れ、リュシアは噴水の縁に座って水面を撫でていた。
波紋はすぐに消える。
消えたあとに残るのは、昨夜のアマネの声だった。
「探しもの、かしら?」
やわらかな声に顔を上げる。
質素な外套のフードを外した女性――王妃エリシア。
けれどここでは、ただの一人の女性のように微笑んでいた。
「今日は王妃じゃなくて、“セレス”。そう呼んで」
「……セレス、さん」
呼んでみると、不思議と胸が軽くなる。
「学園には、私の手伝いで二日外に出るって伝えてあるの。――自分の言葉を探したいなら、一緒に来る?」
リュシアは一瞬だけ躊躇したが、すぐに息を整えた。
「……行きたいです」
自分の心に、初めて遅れず追いついた返事だった。
小さな馬車。
揺れる窓から差す木漏れ日を見ながら、セレスは静かに口を開く。
「祈りってね、形式や手順よりも“誰の言葉で言うか”が大切なの」
「……私は、教会で叩き込まれた言葉を……勇者に仕えるための祈りを」
「正しい言葉は人を守るけれど、同時に閉じ込めることもあるわ」
セレスは笑って、肩をすくめた。
その言葉は、昨夜のアマネの声と重なって胸に響いた。
庵。
木戸、風鈴、湯気の匂い。懐かしくも初めて訪れる温かさ。
「――おかえり、セレス。……いらっしゃい」
紫苑色の髪を結い上げたアサヒが、茶器を三つ並べる。
奥から現れたのは、黒衣のルシアン。盆を手に静かに歩き、湯呑を差し出した。
「温かいのから」
ただそれだけで、心が解けていく。
セレスは当然のように席に座り、微笑む。
「ここでは私は客じゃないのよ。ね、アサヒ」
「いつも手伝わせてるでしょうに」
視線を交わす二人の間に、年月の温度が漂う。
リュシアはその空気に圧倒されながらも、湯を口に含んだ。熱が胸を開いていく。
ルシアンが穏やかに口を開いた。
「……身体は?」
「大丈夫です。昨日、少し人を癒やせて……でも、届かない痛みがあって」
言いながら、アマネの骨折した腕に手をかざした瞬間を思い出す。治したいと願って、初めて“自分の祈り”が力になった。
アサヒがそっと栗の甘露煮を差し出す。
「甘いものは、胸の中の硬いところをやわらかくするから」
セレスが柔らかく微笑む。
「リュシア。ここでは難しい言葉はいらないわ。――あなたは、どうなりたい?」
庵の問いは、正しい答えを求めるものではなく、心に沈むまで待つものだった。
リュシアは長く沈黙した後、唇を開く。
「私は……誰かのために“正しい祈り”を言う人ではなくて。私の言葉で治したいです。届かない痛みにも、もう一歩、届くようになりたい」
シオンは微笑み、セレスはうん、と頷く。
ルシアンは湯呑を受け皿に戻し、「いい言葉だ」とだけ言った。
涙が頬を伝う。ここでは、それは恥ではなかった。
「庵ではね、来た人に一枚ずつ渡すものがあるの」
アサヒが小さな薄紙と鉛筆を渡す。紙の端には庵の印。
リュシアは迷いながらも、字を震わせながら書いた。
わたしは、わたしの言葉で祈りたい。そして、癒やしたい。
ルシアンがそれを受け取り、棚の一角にそっと挟んだ。
「君だけの場所だ」
胸の奥に、静かな力が灯る。
夕餉。
アサヒの指導で野菜を切り、セレスと一緒に台所に立つ。
「指を切っても平気よ。治す人が三人いるから」
セレスが笑い、エプロンを結んでくれる。
その呼び名はもう自然に――「はい、セレスさん」。
まな板の音と湯の匂いに、肩の力が抜けていく。
夜。庵の床は温かく、灯りは低く、風鈴が鳴る。
寝具を整えながら、セレスが囁いた。
「明日、あなたの“痛みの地図”の話をしましょう」
「……お願いします」
灯りを落とす前に、棚の自分の紙片をもう一度見る。
震えていても、確かに自分の字だった。
庵の夜は、ゆっくりと息を吐くように更けていった。
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